第37話:【晴男】どうして、俺が
聞いた通りの青い看板がなかったら、これが宿とは絶対に気付けなかった。
飾り気のないブロック塀に囲われた、俺の住むアパートと同じくらいの母屋。その半分くらいの納屋。
バカでかい以外は、周りの日本家屋と何ら変わらない。
大きなガラスの嵌まった、引き違いの格子戸が玄関。玉砂利の埋まった真っ黒なたたき。
スウェットにかっぽう着の奥さんが、温かいおしぼりで迎えてくれた。
「予約なしのお客さんなんて、ないもんだから。お部屋が整ってなくてごめんなさいねえ」
「飛び込みですみません」
「いえいえ、そうじゃないの。見ての通り、何もない漁師町でね。一見さんは、ほんとないのよ」
と言われても、この民宿さえ吹雪に覆われつつある。海が近いのは分かるが、港だのの見通しはきかない。
「埃が立ってたから、窓を開けてあるの。寒かったら閉めてね」
踏むたびに、板張りの廊下がきしむ。全く威厳のない軽薄な音で。
床も壁も、重ねた年月に茶色く染まってる。あちこちまだらなのが、民宿の味ってとこだろう。
二階に上がってすぐの扉を開け、奥さんは俺に鍵を渡した。
薄っぺらいベニヤの扉。キーホルダーはホームセンターで二、三百円のアクリル棒。
「ひと晩、お世話になります」
頭を下げると、奥さんも会釈して去った。言う通りに開けた扉の奥から、雪の匂いの風が吹く。
「ええと……」
ここまで奥さんを先頭の行列で来た。まひるちゃんは、そのまま俺の背中を眺めて動かない。
振り向いていいのか、声をかけていいのか。悩むけど、思いきって回れ右をする。
「まひるちゃん?」
「――はい」
「その、ええと。寒いから、とりあえず入ろうか」
着替えはおろかバスタオルの一枚も入りそうにないポーチを提げ、彼女は頷く。先にどうぞと出した手に従い、上目遣いに見回しながら部屋に入った。
「ドア、閉めるね。不用心だし」
スリッパを脱ぎ、畳敷きを二歩入った背中へ宣言する。返事はないが構わない。まひるちゃんだって、外からじろじろと見られたくはないはずだ。
「あっ、窓。閉めろって言ってたね」
日焼けした柔らかい畳を蹴り、銅色のアルミサッシに取りつく。
長い
さっきまで走ってた峠の道は、方向も分からない。大きく吐き出した息を置き去りに、ぴっちりと窓を閉じる。
ピッ、と背中で電子音。振り向けばまひるちゃんが、壁に固定されたリモコンに触れてた。
天井の一角に張り付くような、電気代の嵩みそうな古いエアコン。しかし無骨な音でルーバーが動き、力強い温風が吹き出し始める。
外のほうがまだ暖かかったんじゃと思える部屋に、ようやく一つ救いが生まれた。
「あの、さ。座る?」
六畳の真ん中に、既視感のある正方形のテーブルが一つ。
テーブルというかコタツに布団はセットされてなく、それらしき物が部屋の隅にある。が、また後で。
まひるちゃんは勢いよく、二度頷いた。自分の足下近かった座布団を俺に譲り、反対の座布団へ。座った彼女は卓上の急須に触れ、お茶を淹れようと手を動かす。
――まずいよなあ。
コタツの他は、コイン式のテレビしかない殺風景な部屋だ。物珍しさの欠片もない風景に、何度も視線を巡らせる。
この状況は、そらそらで分かってた。立ち止まってもいられず、まずはここまで来たけど。
本気の雪景色の中、車で寝るのは本気で死ねる。廊下に居るのは怪しいし、どうやって今晩を乗り切ろう。
候補として、玄関にあった長椅子を思い浮かべる。
「んっ、うんっ」
「お湯、出ない?」
まひるちゃんはポットと格闘してた。頭を押さえればいいはずだが、うまくいかないらしい。
どれどれと見てみれば、何てことはない。ボタン式になってる頭頂部を、ちょっと回転させなきゃストッパーが外れないやつだ。
「手動のポットなんて、まだあるんだ」
電源不要だから魔法瓶と言うのか? 俺も母さんの実家で使ったことがあるだけだ。それも壊れて、今はない。
「あ、そうやるんだ」
湯を入れた急須を、華奢な両手が受け取る。それから珍しげに、また軽くポットの頭を押したりなんか。
「見ただけじゃ分かんないよね」
「初めて見ました」
まひるちゃんの声を聞いたのは、数日ぶりだったか。なんてことを彼女も考えたのか、目を合わせた笑顔が固まる。
「さ、寒いですね。あ、いえ、ちょっと暖まってきたかな。お、お茶を飲めば落ち着きます」
感情の篭もらない平たい声。二十歳の女の子がこんなオッサンと一緒に居れば、そうもなるだろう。
急須の上げ下げさえ、深呼吸でもするみたいに息を継ぎながらだ。
――ほんと、可愛いよな。
一所懸命な顔を見て、俺の心が決まる。
「あ、熱いですよ」
「ありがと。淹れさせちゃって悪いね」
さっきまで喉に何か詰まらせてた。だから細く震えてた声が、いつもに戻る。
まひるちゃんも気付いたらしく、湯呑みを差し出したまま首を傾げた。
受け取り、口をつける。熱いけど無理やりに流し込み、飲み干した。
そっと湯呑みを置き、座布団を立つ。まだ自分のお茶に息を吹いてた彼女は、不思議そうに見上げる。
おもむろに押し入れを開けた。良かった、予想通りに古臭い羊毛の毛布がある。ベージュのそれを引っ張り出すと、まひるちゃんから声がかかった。
「それ、どうするんですか?」
「ん? 寒いからさ」
「すぐ暖かくなりますよ」
もちろんだ。もう少し経てば、上着を脱がなきゃ暑くなるはず。
毛布が必要なのは、玄関へ行くからだ。長椅子はたしか合皮張りで、横になれないこともない。
怪しいが、廊下に居座るよりましだろう。
「ダメですよ。風邪ひきます」
何て答えたものか、言葉に迷う。するとまひるちゃんは、先を見越して止めた。言葉だけでなく、立って俺の後ろへやってきた。
「大丈夫だって」
毛布を肩に掛けながら振り返る。と、顔が見えなかった。思ったより近く。彼女の息が、俺の胸にかかる距離。
「まひるちゃん――?」
「だいじです」
呼ぶと直ちに返事があった。大丈夫って、あっさり出て行けと言ってるなら、それはそれで寂しい気もするが。
「そうそう、だいじだよ」
「違います」
まあ結果は同じだ。薄ら笑いで頷くと、彼女は首を横に振る。ぶんぶん音がするくらい。
「え?」
「どこに行く気か分かりませんけど、ちゃんとこの部屋に居てください」
「いや、だってさ。今日ここに泊まるんだよ」
――どんな覚悟をすりゃあ、こんなこと言えるんだよ。
うっかり顔を覗き込んだ。激痛を堪えるみたいに、ぎゅっと目を閉じてた。
「そうです。空上さんもこの部屋に泊まるんです」
「あの、ええと……」
凄い子だ。子犬なら、思いっきり頭を撫でて抱きしめるのに。
人間だから。こんなにも優しい女の子だから。どうにか説得しなきゃいけないなんて、妙な気分だ。
「言いにくいんだけど、何て言うか。やっぱり同じ部屋ってなるとさ、何もなくても――いや、ないんだけど。女の子的にね、ほら」
――おい、俺。
きっと中学生でも、もっと気の利いたことを言う。証拠にまひるちゃんの顔が、俯いてすっかり見えなくなった。
「何でですか」
「えっ?」
「何でいつも、自分なんかどうでもいいって言うんですか。私はあなたのことがだいじって言ってるのに」
――え。だいじって、そっち?
「私、言葉や態度に出してもらえないと何も分からなくて。でもあなたは、いつも先に察してくれる。凄いなあって思う」
まひるちゃんの額が胸に触れた。俺の知ってる彼女なら、「すみません」と慌てて後退る。
のに、そうしない。むしろ身を預けるように段々と、重みが増していく。
「私を助けてくれるみたいに、誰のこともそうしてきたんでしょ? 凄すぎます、そんなのどこのヒーローですか」
「いや俺はそんなんじゃ――」
「そうです。空上さんも幸せならいいけど、あなたは自分の幸せを人にあげてるだけ。そんなだから、死んじゃおうなんて考えるんです」
――あれ、何で知ってんだ。
猪口店長に言われるまま、部門の枠も関係なしに何でもやってきた。
それで会社が回るなら。俺の周りっていう社会が動くなら、面倒が少ないと思って。
だけど違った。俺の仕事が増えれば増えるほど、他の社員に別の仕事が生まれてた。際限がない、最後に喰われることのないアリジゴクみたいに。
なんて、この女の子に言った覚えがない。
「ダメです」
小さな拳が、俺の胸を叩く。当たった感触もそれほどでないのに、何だか重い。鉛の玉でも載ってるようだ。
「言ってくれたじゃないですか。気持ちを注いだ分だけ注ぎ返さなきゃ、空っぽになる。だから私、あなたに気持ちを注ぎたいんです」
「言ったよ。言ったけど――」
夫婦とか友だちとか、関係によって中身が変わる。俺とまひるちゃんが光栄にも友だちだったとして、これは度合いを超えてる。
堅苦しいかもしれないが、俺にはそう思えた。
だからまひるちゃんの肩を押し返し、きちんと説明しようとした。しかし彼女は俺の手を振りほどき、俺の胸に顔を押し付ける。
「空上さんが私に注いでくれる気持ち。私と同じならいいって思ってます」
「え……」
まさか。まさかと思った。この数分、いや数十秒かもしれないが。
彼女の態度は俺を――なのかと。
それでも信じきれずに、絶句した。俺みたいなくだらないオッサンを、こんないい子がって。
なのにまひるちゃんは、両手で俺を抱き締める。これがとどめと言わんばかり。
「空上さんのこと信じてますから、大丈夫。悲しいこと言わないで、この部屋で寝てください」
柔らかいフライトジャケットに顔を押し付けながらも、彼女の声ははっきりと聞こえた。
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