第36話:【まひる】前に進む
――何でかな。空上さんは、どうしてここまでしてくれるのかな。
ずっと傍に居てくれる真由美みたいに。でも彼女とも、また違う優しさ。
何で、と言っても不思議には思わない。ただ、理由を知りたかった。
彼が優しいから、だけじゃなければいい。私と同じ気持ちならいいのにと、破裂しそうに心臓が高鳴る。
これを期待と呼んでも不安と呼んでも、恥ずかしくて言えないけど。だけど伝えなきゃ、何も進まない。
「いやこれ、思ったより遠かったな。時間、大丈夫?」
「ぜっ、全然平気です」
空上さんの走らせる車は、千葉県に入った。地名の知りようもない、随分な山の中を進む。
最初のカクエツから、都心のパン屋さんを三軒尋ねた。そうして今の時刻は、午後三時半を過ぎたところ。
「え。気ぃ遣ってない? まずいなら戻るよ」
「ほんとに大丈夫です、今日はお仕事もないので。ちょっと今、別のこと考えてました」
「それならいいけど。にしても寒いね、毛布とかないけど何ならどこかで買おうか」
気を遣ってはない。今日は居酒屋さんのシフトが入ってたけど、もう一人居るし休んでも構わないと店長さんが言ってくれた。
平気です、と首を横に振る。
寒いのはそう。ドライヤーの強、みたいに激しく、エアコンの温風が吹き出してる。なのに脇の窓から冷気が漂い続けた。空も曇ってるし、今にも雪が落ちてきそう。
「山の中だけあって、これから行く店は広いらしいよ」
「そうなんですね。今日はどこもこぢんまりして、少数精鋭を揃えましたって感じでしたけど」
「うんうん、だから反対のとこを探したの。都心から通う人も結構居るらしいよ」
それは凄い。私たちももう、一時間半くらい走ってる。
さっき毛布代わりの何かを買うと言ったけど、スーパーどころかコンビニもしばらく見かけない。
つまりその通う人は、パン屋さんだけを目掛けてこの距離を往復してる。どんなにおいしいんだろうと、わくわくが強まった。
――あれ、胸が。
さっきまで想いが強すぎて、息さえ苦しくなりかけた。けどいつの間にか、穏やかになってた。
空上さんが察したはずはないし、察せられてたら恥ずかしい。でもこれも彼の優しさと、私は考えたかった。
「ああ、あれだわ」
やがて空上さんが、行く先に指を向けた。ずっと緩やかな下り坂。左右にカーブが続くのも、ゆったりしててむしろ心地いい。
石と泥でできたような小屋が、そんな道沿いにポツンとあった。
「何だか日本じゃないみたい」
「だねえ」
煙突のあるいかにも山小屋という作りだけど、近付けば大きかった。八玉子でよく見る一戸建てより、よほど広いと思う。
その十倍くらいの面積が切り開かれ、平地にしてある。半分くらいは畑で、残りのどこへ駐めてもいいらしい。
空上さんは慎重に、後ろ向きで車を進める。彼の手が私の座るシートに伸びて、またドキドキした。
「お邪魔しまーす」
小さなガラス窓の嵌まった、手作りの扉は緑色。細いベルの音を鳴らし、空上さんが先に足を踏み入れる。
お店の名前も、扉に表札がかかってた。そらそら、と大きくひらがなで彫られた下に、空という漢字が二つ小さく並ぶ。
その場で振り返ると、太平洋の方向に遮る物が何もない。
――天気がいい時、また来たいな。
「いらっしゃいませえ」
店員さんは、頭に赤白の三角巾を巻いた女の人。たぶん私のお母さんと同じくらいの。
木箱を積んだみたいなカウンターにレジがあって、その横で何か書き物をしてた。上げてくれた顔が、ほんわか柔らかい。
「うわ、広っ」
「ほんと。普通のパン屋さんなら、四つくらい入りますね」
丸太作りの頑丈そうな棚に、パンや焼き菓子が所狭しと並んでる。ただし売り場は半分で、奥は八人で座れるテーブルが二つ。
壁にメニューもあるし、カフェも兼ねてるらしい。
「ちょうどいいや、温かい物もらおうよ」
「飲みたいです」
ぶるっと震えた私に、店員さんは笑ってメニューの冊子を渡してくれた。
*
テーブルから丸い窓を通して空が見える。いや山も見えてるけど、広く開けた空の印象が強い。
温かいココアと杏のパイ。空上さんのを半分もらったチーズケーキ。どこを切り取っても真っ白な分厚い雲が、よく練った生クリームみたい。
「あの。この辺って、雪がよく降るんですか?」
同じく外を眺めてた彼が、店員さんに首を向ける。どうしたのかと思ったら、窓枠に白い物が溜まってた。ほんの少しだけど、そろそろ帰らないとまずいかも。
「いいえ。降るのもそんなにだし、積もったのなんて数えるくらい。だけど今年は寒くて、ほらこの間の大雪の時とか」
カウンターからテーブルまで、店員さんはわざわざ来てくれる。その向こうの遠くに、大きな石窯が見えた。
たぶん大きなストーブもあるんだろう。暖房の見えない小屋の中が、焚き火の匂いと温もりで溢れる。
「でもスノータイヤなら大丈夫よ」
「いやそれがレンタカーなんで、履いてないんですよ」
「あら、じゃあ危ないかも」
にこにこ顔が、ちょっと曇った。腰を屈めて窓を覗き、厚みを増していく雲を見上げる。
「まひるちゃん、ごめん。それ飲んだら、すぐに帰ろう」
「は、はいっ」
言いつつ、空上さんは自分のコーヒーをぐいっと飲み干す。お皿に半分残った焼き立てピザは、店員さんが紙袋をくれた。
私のココアはまだ一気にいけない。慌てて息を吹きつけ、必死に冷ます。
でもそれは、すぐに意味がなくなった。
道路側の窓に、回転灯を載せた黄色い車が見えたから。そのフロントガラスには雪が載り、雨よけにはつららが下がる。
「あー、またひどい雪だわ」
道路パトロールの、ツナギを着た男の人が二人。お店に入るなり、濡れた髪をタオルで拭き始めた。
店員さんも「ご苦労さまです」と奥に引っ込み、湯気の上がるお茶を持って戻る。
「あの、すみません。東京方面ですか」
席を立って、空上さんが問いかけた。私も倣い、着いていく。
「そうだねえ。もう有料道路には通行止めが出たから、ちょっと危ないんじゃないかな」
「うわ、そうなんですか……」
店員さんが、カウンターの後ろにあった小さなストーブを出してくれた。火を点けると石油の臭いがツンとして、でも「暖かい」とみんな手をかざす。
「海沿いを行っても同じだろうしな――」
「無理しないのがいいよ?」
冬のタイヤを着けていないと知ってる店員さんは、心配そうに私を見つめる。車のことも道路のことも分からない私は、曖昧に頷くしかない。
「泊まるとこってありますか」
――ああ、そうね。帰れないなら、どこかへ泊まらなきゃ。
と。空上さんの言葉を、最初は人ごとのように聞いた。でもよく考えれば、それは私もってことになる。
「えっ、ええ? と、泊まるんですか」
「うん、ほんと悪いね。でも危ないし」
沈んだ声と、強く頭を掻く手。私の後、窓へ向けられた目も悲しそう。
「いえ! 悪くなんかないです。雪なら仕方ないです」
うん、そうだ。困ると言ったって、どうしようもない。天候は誰のせいでもないし、我がままを言えば彼が困る。
泊まるのだって、別に一緒の部屋ってわけじゃない。
「ええと、山を下りたとこに民宿ならあるけど。泊まれるか電話で聞いてみようか?」
「助かります、お願いします」
話の行く先を待っててくれた店員さんが、カウンターの受話器を取る。壁のリストを見ながら、民宿に問い合わせてくれた。
特に注文は付けなかったけど、二人で二部屋空いてるかと。「ええ? あ、そう」なんて、芳しくない返事が不安を掻き立てる。
「うーん、悪いねえ。一部屋しか使えないって。どうする?」
「一部屋……」
店員さんは私と彼とを、交互に見比べる。空上さんは唸るようにひと言漏らし、深刻な顔で黙ってしまった。
――考える余地なんかないよ。
もっと深く考える場面かもしれない。だけど私は、すぐに答えた。
「それでいいです。予約お願いできますか」
「はいはい」
苦笑で首を傾け、店員さんは頷く。民宿との話はすぐに終わり、「どうも」と電話は切られた。
「そらそらの紹介って言って。安くしてくれるはずだから」
店員さんの顔は、空上さんに向いてた。でも口を開きかけただけで、答えが出ない。
頼りになるけど優しい彼に代わり、私が答えた。
「あ、ありがとうございます。下っていけば分かるんですよね」
店員さんは民宿の名前と、青い看板が見えることを教えてくれた。道路パトロールの人たちも「早く下りないと」と急かす。
三人におじぎをして、私は空上さんの袖を引っ張った。
小屋の外はもう、ちょっとした吹雪だ。山頂のほうを見ると、真っ白で何も見えない。ようやく空上さんも小走りで、車に乗り込んだ。
「ええと……ごめん。何なら俺、車で寝るから」
グズグズしてる暇はない。ボソボソ言いながらも、彼はエンジンをかけた。薄く積もった雪の膜が、ワイパーにこそげられる。
「私、空上さんのこと信じてます」
雪の中を車で寝るなんてこと、させられない。奥歯をぎゅっと噛んだ私は、強く首を振る。もちろん水平に。
「えっと――いや、でもさ」
「私、空上さんのこと信じてるんです」
伝えたいこと。表したい気持ちが、間違いなく他にもあった。だけど言葉にならなくて、同じに繰り返すしかできない。
やがて。三十秒ほども黙ってた空上さんは、「うん」とひと言だけ発して車を前に進ませ始めた。
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