第35話:【晴男】というか、頼むよ
西八玉子駅前に午前九時。ちょっと話を、にしては早すぎる。けどまひるちゃんは、くるぶしも隠れそうな長いスカートで待っていた。
レンタカーの俺に気付くと、千切れそうなくらい手を振ってくれた。
コンビニの駐車枠へポルチェを駐めた。すると一目散に駆け寄ってくる。飼い主を迎える子犬みたいだ。
「どこかお出かけですか?」
「いくつかね、一緒に行ってほしい所があって」
「ドライブですね」
乗り込みつつ、彼女は声を弾ませた。ドライブなんて、俺は全く言ってないが。
今日は少しばかりの遠出をして、いくらか買い物をする。まあ間違ってはない。
「お話って、行き先に関係あるんですか?」
「そうそう。具体的には後で言うよ、何も知らないでどう感じるか知りたいから」
「はーい」
なんて素直な返事だ。手を上げるまひるちゃんに、ご褒美のミルクティーを差し出す。「温かい」と頬を寄せる姿に、思わず笑ってしまう。
しかし当人に気付かれないうち、車を発進させた。
「昨日、表参道に行ってたんです」
「へえ。いいお店があった?」
都心に寄り付かない俺のイメージでは、高級な店ばかりの街。気になって視線を向けると、彼女は首を横に振っていた。
「いえ。あ、素敵なお店はいっぱいありましたよ。空上さんの送ってくれたメモのお店も一軒。だけど私の思うのと違うなあって、すみません」
「すまなくないよ。食わず嫌いじゃなく、店まで行ってそう思ったんでしょ。違うのが分かって良かったじゃん」
安堵の息を吐く。答えによっては、今日の予定の意味がなくなるところだ。
知った風に言っても、良かったじゃんは俺のほう。なのにまひるちゃんは、笑ってくれた。
「良かったです。空上さんにそう言ってもらえて」
騙してるようで心苦しい。我ながらぎこちなく、笑ってごまかした。
*
一時間ほどを走り、最初の目的地に到着した。川崎市にあるスーパーマーケット、カクエツの立体駐車場へ。
「来たことある? 他の店舗でもいいけど」
「名前は知ってますけど、来たことは。お仕事ですか?」
「ノーコメントで」
肯定したも同じだが、一応は伏せておく。まひるちゃんも首をひねりつつ、重ねて聞かない。
わざわざ階段で下るのにも、きょろきょろしながら着いてきてくれる。駐車した四階から、まずは二階まで。
「わあ、ホームセンターもあるんですね」
「だねえ」
階段室から売り場へ出ると、彼女はぐるり首を巡らす。視線の高さに棚の並ぶ、広々とした空間がそこにある。
季節がら、焚き火やウッドストーブのディスプレイ販売も楽しげだ。しかしあえて、返事をひと言で済ます。
何も知らずに、どんな反応か見たい。と言ったのは本当だから。
「んん?」
「どうかした?」
こぢんまりと整ったまひるちゃんの鼻が、すんすんと動く。内心「おっ」と期待の声を上げながら、気付かぬふりをした。
「なんだかいい匂い。バターと小麦粉の」
「へえ、そう?」
とまで言ったのは見え透いた。
匂いの元を探す彼女に着いていくと、どんどん濃くなる。これが分からないとなれば、耳鼻科で診てもらわないとだろう。
もう目的地は察せられてる。それでも行っていいのか目で問われ、大きく頷いた。まひるちゃんはエスカレーターに飛び乗り、背伸びを繰り返して到着を急かす。
十歩遅れた俺が下りた時には、思った通りの売り場へ居た。店舗入り口から見通せる一角に、丸太作りっぽい看板が下がる。
書かれた文字は、ふかふかパン工場。
「空上さん、見たことないのがいっぱい!」
まだ開店して十分かそこら。木目を意識した売り場には、お客さんが他に一人だけ。
目移りするんだろう。くるくる回るまひるちゃんに、トレイとトングを手渡す。
「好きなだけ買っていいよ」
「いいんですか」
「いいよ。今日はこれが目的だから、遠慮されるとむしろ困る」
「わ、分かりました!」
動かしたトングが高く鳴る。それがゴングのごとく、彼女の目つきが変わった。
それぞれのパンだけでなく、載せられたトレイも。さらに陳列棚も、売り場の隅々にまでぐりぐりと眼が向く。
いつも犬っぽいけどこの時ばかりは、ねこじゃらしを追う子猫に見えた。
「――食べてもいいんですか」
と問われたのは、車に戻ってから。それぞれの飲み物も買って、たぶん十五分くらいしかかかってない。
「いやこれでダメって、どんな意地悪だよ」
「だってライバル店の調査とかかなって。それなら私が邪魔しちゃダメです」
「そうなんだけどさ。まひるちゃんによる調査、だから。俺のほうがオマケなの」
ほとんど正解だが、正確な意図はまだ伝えてない。「ええ?」と首を傾げられても、「まあ食べようよ」なんて先延ばしにする。
「じゃあ、いただきます」
「俺もいただきます」
彼女が選んだのは、六枚切りを三枚で売ってた食パン。それからベーコンを使った惣菜パンと、粉糖のかかったデザートパン。
まずは食パンかららしく、一枚を半分にして分け合った。
「焼き立てですね、まだ温かい」
「だね。まだ湯気が上がりそう」
とはさすがに言いすぎだが、寒い車の中でほっとする温かさだ。店名の通りにふわふわ、もちもちしてうまい。
まひるちゃんはひと口ずつをしっかり味わい、最後に「うん」と食べ終えた。それから何を付け加えるでなく、惣菜パンへ手を伸ばす。
また同じく、一つを半分に。食べ終えれば、デザートパンをまた分け合った。
「どうだった? パンの味もだけど、スーパーの中にあるパン屋さんとして」
「凄くいいと思います。来た時は気のせいかと思ってたけど、駐車場にも匂いが漂ってるし。お店に入ったら、絶対に探しちゃいます」
彼女が鼻を鳴らして見せるのを、真似てみる。言われてみれば、車の中にもパンの匂いが入ってきてる。もちろん買ってきたのとは違う、強いバターの香りが。
「専門のパン屋さんよりちょっと安くて、他のスーパーで売ってるよりちょっと高級で。だけど焼き立てを食べられるのは、得した気分です」
「実際、うまいしね」
まだ食べかけてたデザートパンを、口に放り込む。まひるちゃんも口を動かし、紅茶を飲んで頷いた。
「良くない点は?」
「朝だから仕方ないと思うんですが、棚の空きがたくさんで寂しかったです」
「ああ、たしかに。三分の一くらいしか使ってなかったね」
もう少し経てば、全ての棚が埋まるに違いない。十時開店で、買ってすぐ朝食に使うでなく、それでいいのかもだが。
「それから味が、万人受けですね」
「ん、どういうこと?」
「これ日本じゅうどこの売り場でも、たいていの人がおいしいって言うと思うんです。でも逆に言うと、とことんハマる人は居ません」
思った以上に突っ込んだ感想が出てきた。しかも味を思い返して「なるほど」と思う。俺がド素人だからでもあるけど。
「あと焼き立てには違いないですが、冷凍保存の生地を焼いただけですね」
「よそで作ったのを持ってきたってこと?」
「そうです。生地作りからここでやれるなら、もっとおいしくできます。冷めてもふんわりしたままで」
残りの食パンの一枚が、二つに裂かれた。
さっきはコシのあるうどんみたいに伸びたが、今はブツッと愛想なく千切れる。また雪の降りそうな冷えた空気に、乾きかけの紙ねんどのようだ。
「いいね」
「良くないです。でも売り場もそんなに大きいわけじゃないし、仕方ないですね」
「いや違うよ、いいのはまひるちゃん」
「え、何がですか」
きょとんと、丸い目が俺を見つめた。ようやく今日の目的を教えてあげられる。
「アルファスにもパン売り場があるんだけど、よくある感じでパッとしないの。で、そこを担当するのが日配っていう部門で、新人がやることが多い」
「はあ、そうなんですね」
内情を知らない彼女には、意味が分からないはず。それでも眉間に皺を寄せ、うんうんと頷いてくれる。
「その部門がまた商品多すぎで、クソ忙しくて。パンの売り上げに気を配れないの。だからベーカリー部門作って、改善しようって提案した」
「ええと、空上さんが?」
「そういうこと」
なんとなく伝わったようだ。まひるちゃんは目を見開き、頷きも大きくなる。
「まひるちゃん、アルファスで働くのはどうかな。俺、店長になるらしくて。アルバイトでならすぐに採用してあげられる」
俺が店長にって部分は、言わない選択もあった。彼女の性格的に、じゃあ遠慮しますと言いかねない。
でも後で分かることを黙ってるほうが、良くないと思った。
「パン窯もオーブンも店に置く。新しい部門だから、どんどん新しいメニューを作ってほしい。メインはパンだけど、洋菓子もたくさんね」
「私が空上さんのお店で――?」
せっかくだ、俺も口説き文句が多くなる。しかしきっと喜んでくれてると願って続けた。
「そうだよ。あひるの店のベーカリー部門を、まひるちゃんが一から育てるの。もし社員になりたくなったら、登用試験にも推薦する」
「そんなこと……そんなに、してもらっていいんですか」
声が震え、そうまでされては悪いと言ってた。だけど首が正直に、何度も何度も縦に揺れる。
俺も答えて、大きく深く頷いた。
「いいんだよ。というか、俺が頼みたい。どうか雇われてくれないか」
「わ、私でいいなら。お願いします!」
真っ赤にした顔をくしゃくしゃに歪ませて、まひるちゃんは頭を下げた。ずずっ、と鼻を啜る音がしたのは聞かないふりだ。
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