第32話:【まひる】私は偽善者

「なんであんたが世界の終わりみたいな顔してんの」


 ビデオ通話でもないのに、そんなことを真由美は言った。

 時刻は午後十時前。たぶん彼女は、家に帰って間もない。ぐずぐず鼻を鳴らしながら、私は声をひねり出す。


「だって空上さんが……」

「聞いたけど。樹海に行こうとしてたって、今は違うんでしょ」

「たぶん」


 昨日、彼の話を聞いてから落ち着かない。今日も働くお店を探しに行ったけど、まるで身が入らなかった。


 真由美は今日もお仕事だった。待ち構えて電話をかけ、空上さんの言ったことをほとんど話した。

 彼女にも彼にも申しわけないけど、私の胸だけに収めるのは難しい。


「あー、うん。大丈夫だから鼻かんで。またやろうって人が、あんな幸せそうにケーキ食べないって」

「ほんと? 幸せそうだった?」


 不安を口に出した途端、顔の筋肉が緩みきった。涙腺も鼻水の管も、しばらく締まらない気がする。さっきから、ティッシュをどれだけ使っただろう。


「実際どうか知らないけど。でなきゃあんなに食べないでしょ」

「そうかなあ」

「そうなの。不安な時、ごはんなんか食べらんないでしょ。あんたは食べたの?」


 今日は朝から、コーンポタージュと飲むヨーグルトしか口に入れてない。

 そう思えばキャンプの時の空上さんは、お腹いっぱいに食べてくれた。昨日の夜も、私の二倍くらいは。


「食べた」

「嘘吐くなー」

「だってさ。空上さんの家、凄く古くて。苦労してるんだなって思って。お母さんは優しかったけど」


 お父さんは、ずっと前に亡くなったと聞いた。するとお金に困ってるのかも。

 そんな人に、私はとんでもない迷惑をかけてきた。どうしたらいいか、すぐにでもお金を返しに走りたくなる。


「それは失礼だよ。何、貧乏くせーって思ったの?」

「違うよ! 私、たくさんお金使わせちゃって。私だけが困ってるみたいな顔して、頼みごともいっぱい」


 はあぁっ。と、とても大きなため息。

 それは私もだ。彼にどうしてお詫びすればいいか、見当もつかない。


「あのね、まひる。空上さんはずっと歳上の大人なんだから、自分のできることとできないことの区別くらいついてるよ」

「飲みすぎてたけど」

「……それはカッコ悪いけど。あんたと居て、羽目を外しちゃったってことでしょ。樹海へ行こうとした人がね」


 ――そうなのかな。私の前では油断してくれたってことかな。それなら嬉しい。

 空上さんの顔を思い浮かべても、薄っすら微笑んだ表情ばかりだ。

 怖いのに耐えてるのとかもあるけど、心の底から笑ったのはたぶん知らない。


「ねえ。あんたはどうしたいの?」

「悩んでる、どうしたらいいかって。タクシー代とかクリーニング代とか、お金は受け取ってくれないだろうし」


 彼が一人暮らしなら、ごはんを作ってあげたりできた。でもお母さんが居るんだから、それはまた迷惑になる。

 お金で解決のつくことじゃないけど、他に手段が思い浮かばなかった。


「そうじゃないよ。あんた、空上さんの傍に居たいんじゃないの?」

「ええ? 私、あの人に迷惑しかかけてないよ」

「だからそうじゃないってば」


 真由美は何を言ってるんだろう。たしかに彼が居れば、何をするにも心強い。キャンプも楽しかった。

 だけど負担をかけると思ったら、そんなこと言っていられない。と言ったのに、そうじゃないって。


「ああ、もう。じれったいなあ」

「ごめん。私、何かした?」

「違う違う。あたしが勝手にむずむずしてるだけ」


 苛立ったかと思えば、しゅんと声を萎ませる。なんだか今日の真由美は、いつもと違う。


「どういうこと?」

「うーん、自分で気付くのがいいと思ったんだけど。待ってたら、空上さんがおじいちゃんになりそう」


 やっぱり何のことやら。

 彼がおじいちゃんと呼ばれるようになれば、私たちもそれなりの歳になってる。

 そんな頃にもキャンプとは言わないけど、どこかお散歩に行けたら楽しいのに。


「まひる、初めてでしょ」

「何が?」

「生まれて初めて、自分から誰かを好きになってんじゃないの」


 また。誰かを好きにって、そんなことない。今は違うけど、品下陵のことも本当に好きだった。しかもそれは二人目だ。


「ええと、お付き合いは――」

「違うよ。あんたを好きってのはたくさん聞いたけど、あんたから言い出すのは聞いたことない」


 ああ、そういうことか。高校生の時も、たしかに告白されてお付き合いした。

 好きと言われたら嬉しくて、不安もあってお友だちからと。だけどすぐ、私も好きになった。

 真由美の言う通り、私が先に誰かを好きと感じたことはない。もちろん恋愛の意味で。


「私、空上さんのこと好きなの?」

「聞かないでよ。そうじゃないかって、あたしが聞いてんの。いや絶対そうなんだけど」

「そんなこと――」


 そんなことあり得ない。

 とは言えなかった。頭に何が浮かんで、思い留まったわけでなく。唇が勝手に、否定の言葉を拒否した。


「たぶんあんた、迷惑かけて悪いなって思ってないよ。空上さんの困ってんのを、自分のことと同じに感じてるんだよ」

「そう、なのかな」


 はっきり言われても、自分の気持ちなんて見たことがない。真由美の気持ちなら、きっと私も同じように言える。

 大切な幼なじみの言葉を疑わないけど、すぐに「そうだよね」とは。


「あんた何でもやってあげたいでしょ。あのカス男と付き合ったのだって、それだよ。他人のやりたいことを叶えてあげたら嬉しいって、どこの天使よ」

「ええと、うん」


 天使ではないけど、言われた中身を否定できない。目の前の誰かが喜んでくれたら、自分が疲れたとか損をしたとか関係なくなる。


「だけど空上さんには違う。困ってるとか関係なく、あの人の喜ぶことを。まひる自身がそうしたいんだよ」


 ――そうなのかな。

 サービスエリアで出会った、全身真っ黒の彼。ちょっと疲れた笑顔で、私を助けてくれた。

 大きな声で怒鳴られても、冷たい飲み物をかけられても。彼は何度だって、私を守ってくれた。だから私も、助けてって言えた。


 それは今もだ。先行きの見えない私を、とても温かく見守ってくれる。励ましてくれる。

 そんな彼が弱音を吐いて、家まで送ることになった。


 聞いたことにびっくりして、どうしていいか分からない。だけどどこか、嬉しい気持ちがある。

 ほら、やっぱり同じ。彼の困ったことのお手伝いして、感謝されたいだけなんだ。


「私って偽善者なのかな」

「何言ってんの、怒るよ」

「ごめん……」


 私には分かる、本気の声。いやそもそも、こんな時にふざける真由美じゃない。わけが分からなくてごまかそうとしたのは、私のほう。


「ああ、そうだ。あんたにはこう聞けばいいのか」

「何?」

「空上さんが本当に貧乏で、今日のごはんにも困ってるとする。それを超お金持ちのあたしが、夫になるなら助けてあげる」


 真由美は普通の家の子だよ、と突っ込むことはしない。そういう話じゃないのは分かってるし、そういう気分でもなかった。


「どう、本当にそうなったら祝福できる?」

「ダメだよ」

「なんで? 空上さんが助かるならいいでしょ」


 私が即答して、分かってるくせに。きちんと言葉にしろと、幼なじみが厳しい。

 でも私自身、そうすれば気持ちがはっきりすると思った。


「ダメだよ。空上さんは私が助け――ううん、助けるとかじゃなくて。傍に居てもらえたら嬉しい。本当に物凄い貧乏でも」


 言いきると同時に、胸の奥から息が抜けた。熱く、重い、私の気持ちそのものみたいな。

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