第31話:【晴男】まあ、いいか
上映中の映画館みたいに薄暗い通路。テーブルの真上の照明も、座高の高い奴なら頭をぶつけそうだ。
立ち上がれば、衝立の向こうに他のお客さんが見える。でも座ってる限り、俺とまひるちゃんの二人きりに思えた。
「だから言ってるじゃないですかぁ。春野さんじゃなくて、まひるですー」
「そうだった、まひるちゃん」
ほとんど飲みきってるけど、まだ一杯目のはずなのに。でもまあ二度も言うなら、呼び方くらい慣れるとしよう。
――可愛い妹が慕ってくれるのは嬉しいし。
なんて考える俺も、かなり酔ってる。歩き詰めだったせいか、急に回ってきた。
「でね。私のお父さん、自分勝手なんです」
「そうなの? マイペースって言うなら、悪いことじゃないけどね」
俺の
最初はお兄さんで、トコタ自動車に勤めてると。双子の弟たちは高校三年だけど、まひるちゃんは詳しい進路を聞いてないらしい。
お母さんは「優しいんですけど」だけで素通りした。会って話したから、まあ分かる。
お父さんに不満があるのかな。夜の九時に客が来ても構わず寝るっていうのは、常識的にどうなんだろう。押しかけた立場の俺には、言えることがない。
「お休みにみんなで出かけてても、電話がかかってきたら一時間とか話して」
「あー、仕事の電話かな。寂しいだろうね」
「です。分かってますけど私、子どもだったし。いまだにRINEも登録してくれないし」
――ああ、なるほど。それで俺みたいなオッサンに構ってくれるのかな。
まひるちゃんの他人を優先する気質は、お母さん譲りと思ってた。しかしお父さんを見習ってる線もあるかもだ。
決めつけるなよと自分を戒めつつ、しみじみ。ちょうどぬるい湯割りを啜る。
何だかいつになく、酒がうまい。
「なんでそんなに笑ってるんですか?」
「え。笑ってた?」
「笑ってますー。あはははっ」
まひるちゃんほどじゃないよ。なんて言葉も、ぺちぺち鳴る拍手を見てると、言うのを忘れる。
代わりにぐいっとコップを空にし、同じ物を注文した。
「空上さんのお母さんは、何のお仕事してるんですか?」
「保育士だよ。パートでね」
「へえ、いいですねえ。小っちゃい子、私も好きです。でもお仕事だと責任もあるし、大変だと思います」
自身の言葉に従って楽しげに笑い、つらそうに眉根を寄せた。頷きながらくぴくぴと、彼女はカシスピーチを空にする。
「だねえ。俺は自分の面倒もみられないから、他の人のなんかとてもとても」
「そんなことないです。空上さん、私の面倒みてくれてます」
「ええ? それはないけど。いや、保育士は大変って話だよ」
なんだか俺を全肯定してくれるし、動きが動物みたいで可愛いし、面白い。でも鉄則として、酔っ払いには逆らわない。
のに、彼女は頭をぶんぶん振った。
「違いますー。大変なのは空上さんです。お仕事忙しいのに、私の相談まで」
「それはいいの。頼ってくれるの嬉しいし」
「ほんとですかー?」
「ほんとだって」
きっぱり答えても、疑いを消してくれない。不満げにほっぺを膨らませ、怖くない眼で俺を睨む。
「だっていつも、他の人のことばかりじゃないですか。空上さんが怒るの、店員さんとか私のことだけです」
「そんなことは……あるかもね」
――見透かされてるか。
ダメ人間の俺に何をされても、何とも感じない。けど、周りの人たちにされたことは腹が立つ。
たぶん身の程知らずに、受け入れられたいと思ってるから。白々しい失笑が、俺自身の口から漏れる。
「なんでですか? 空上さんがつらいの嫌です」
「ええっと。いや、ありがと。うん、そんな風に言ってくれるの嬉しいよ。でも今、楽しいから大丈夫」
湯割りがやって来た。やけに喉が乾いて、落ち着かなくて、一気に飲む。ちょっと熱めだけど、ちょうどいいなチクショウ。
「ほんとですか?」
「ほんと」
「じゃあ、いいことって何か教えてください」
「――だからそれは」
さっき言ったばかりだ、忘れたと繰り返そうとした。が、まひるちゃんの真剣な眼を見てたら言えなくなる。
「何かあるんじゃないですか?」
「何かって」
「私、空上さんの役に立ちたいんです。さっきから、こっそり悩みを聞き出そうとしてるんです」
――正直なことで。
田中さんなんかも気にしてくれるが、ここまでの無理やり感はない。大人の距離感として正しく、この子は踏み込みすぎだ。
しかしまっすぐな気持ちが、熱い温泉みたいに染み入る。
「役に立つってのも偉そうだけど、助かってるよ。まひるちゃんの言う通り、嫌なことはあった。でも最近、そうでもなくなってきた」
「ううぅ」
低く唸って、威嚇する子犬みたいだ。何をやっても可愛いって、反則だろ。
このまま連れて帰って、暖かくした部屋で専用の広いケージに入れ、おいしい食事で飼育したい。
――犬だったらな。
「初めて会った時、どこへ行こうとしてたの」
「……キャンプだよ」
「嘘」
ろれつの怪しいながら、鋭い牙が俺のたわ言を噛み砕く。こうまで正面切って問われると、酔った頭では言いわけが浮かばない。
はたと声を失ったまま、しばらく。いつ頼んだやら、湯割りのお代わりが届く。
持ってきた店員さんに、居残ってくれと頼みたい。もちろん言えるはずもなく、受け取った焼酎で間を繋ぐ。
「まあ、いいか」
一回りも歳下とか、関係ない。こうまで案じてくれるんだから、少しくらい話したっていいじゃないか。
飲んでるうちに段々と、俺の中でそういう意見が台頭し始めた。
「どこっていうか、逃げ出したの。毎日毎日、朝から晩まで失敗だらけで、上司に叱られっぱなしで。居る意味なんかないって」
俯けた視線を上げられない。催眠術にかけられたみたいに、口が勝手に言葉を吐き出していく。
ぐわんぐわんと、どこか近くで寺の鐘が鳴ってる。そのせいで、見下ろしたテーブルも歪んで揺れた。
「吹っ切れてさ、人の機嫌を窺うのはやめた。そしたら楽になったよ、本当に。でも他の人たちは頑張ってて、こんな俺が居てもいいのかって気持ちは変わらない」
――あれ、辺りが暗くなった。閉店か?
さっきから一人で喋ってる。まひるちゃんは、先に帰ったんだっけ。
まあいいや。暖かいし、なんだか気持ちいいし。眠たくなった。
「空上さんが居なくなったら嫌です」
なんだか嬉しいことを言ったのは誰だ? 顔を見たくても、目の開け方が分からない。
ふわふわと波に揺られる心地で、俺の意識が閉じていく。
*
「うぅっ、痛え……」
目が覚めるなり、激しい頭痛に襲われた。いや頭痛で起きたのか。暖かい布に潜り、痛みに耐える。
――布? 俺、寝てたのか。ええと昨日は仕事が終わって、その後……。
違う。
俺は昨日、まひるちゃんと一緒だった。それがどうして寝床に? 彼女はどうした?
記憶を辿ろうにも、とっかかりがない。まひるちゃんが唸った辺りで、ぷつりと途切れてる。
あの後どうなったか、周りを見てみれば分かるだろう。しかし怖い、なんだかヤバいことになってる気がして。
痛みもシャレにならず、しばらくじっとしてた。だがやがて覚悟を決め、布団から顔を出す。
――俺の部屋?
薄暗くて幻覚を疑った。けど目をこすっても、景色は変わらない。左右どちらを見ても、俺以外の誰かは居ない。
「ふうっ」
巨大なため息を吐き、高鳴った自分の心音に驚いた。それも落ち着いてくると、襖の向こうに人の気配がする。これは母さんだ。
「あらハレくん、おはよう」
「あー、飲みすぎた。頭痛薬あったっけ」
「あるさ」
よろめきながら、助けを求める。二日酔いとか、久しぶりだ。機嫌良さげな母さんの声も、申しわけないが落としてほしい。
「ねえハレくん」
「んー」
錠剤と、肝臓のイラストのドリンク。手厚い対応に感謝するのは、痛みが治まってからだ。虚ろな返事も勘弁してほしい。
「ゆうべの女の子。きちんとしてて、いい子だったねえ」
「ああ、まひるちゃ――え?」
「まひるちゃんって言うの。可愛らしかったわあ」
情けないことをやらかしたらしい。ひゅっと息を呑むのと一緒に、頭痛の錠剤も飲み込んだ。
むせた咳が頭痛につらい。
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