第33話:【晴男】はあ、俺ですか
飲みすぎで頭が痛くても。若い女の子に家まで送ってもらっても。それを母親に「いい子だねえ」なんて勘違いされても。
変わらず仕事はある。
まあ二日酔いは昨日のことで。恥ずかしいのも、
黙々と午前の仕事を終え、午後二時過ぎ。遅めの弁当を広げつつスマホを見ると、まひるちゃんからのメッセージに気付いた。
【春野まひる】すごく寒いですね! お仕事気を付けてください!
受信は朝八時半ころ。もう仕事を始めてた。メッセージは一つだけでなく、午後零時十分にも来てる。
【春野まひる】きょうは試しに池袋に来てみてます! 空上さんも、お仕事気を付けて頑張ってくださいね。
まひるちゃんは今日も張り切ってるらしい。とか、偉そうにしてる場合じゃない。
――つーか、何て返しゃいいんだ。
家まで送ってもらっただけじゃなく、たぶん支払いもさせてる。飲み代とかタクシー代とか。
昨日、ごめんねと俺が送ったのには反応がない。その上でどう返すか、言葉が見つからなかった。
「あらニッフィー。ラブラブねー」
「ちょっ、田中さん」
いつの間にか、斜め後ろに立ってた。全く気付いてなくて、危うくスマホを放り投げるところだ。
振り返れば、田中さんの両手にはほうきとちり取りがある。搬入扉から入ってきたらしい。
「あ、ごめんね。見えちゃったんだもん」
「まあそれは別に。でもラブラブってのは」
「死語だった?」
「そんなこと言ってません」
あははっと軽快に笑い、田中さんは通り過ぎる。売り場側の壁が掃除道具置き場だ。
「好きでもないのに、定時報告みたいなことしないでしょ」
「そりゃ、嫌われてはないでしょうけど」
そのまま売り場へ戻るのかと思えば、また俺のほうへ。すぐ次の仕事にかかりなさい。と言うのが俺の役目だけど、言えやしない。
「好きじゃないの?」
「そんなわけないでしょ。だけどなんて言うか、犬が懐いてくれれば嬉しいみたいなもんで」
「そうかー、そんな感じなんだー」
なんだろう。田中さんはいかにも意味ありげに、腕組みで立ち止まる。椅子に座った俺から手の届く距離で、薄笑いの目で見下ろす。
「何ですか、怖いですよ」
「ちょっと懐いてくれるわんこにしては、色々考え過ぎじゃないかなーって」
エプロンのポケットから、小さなメモ帳が取り出された。それは普段から田中さんが使ってるもので、問題は挟んでた紙きれのようだ。
指につまみ、ひらひらと見せびらかす。正体不明の物体に、どうリアクションしていいのやら。
「何です?」
「頼まれてたやつ。洋菓子屋さんの」
「あっ」
二つ折りが目の前に下りてくる。拝む格好で取ろうとすると、サッと逃げられた。
勘弁ですよと意志を篭め、上目遣いに見上げた。しかし田中さんは楽しそうだ。
「だから、好きですよ。でも学校の先生が、うちの生徒は可愛いとか言うのと同じです」
「ふうん」
つまらん、とルビの振られてそうな声。だけどようやく、紙きれが俺の手に落ちた。開くと田中さんの整った字で、二件の連絡先が書かれてる。
フランス語かイタリア語か、聞いたことのない店名。時給も含めた、簡単な説明も。
「これって、チェーン店ですか?」
「ううん。そういうのもあったけど、それには書かなかった」
「あれ、言いましたっけ」
まひるちゃんは、新しいレシピを作れるところがいいと言ってた。だからチェーン店は難しいと、このお方に伝えた記憶はないんだが。
「うん、聞いたよ」
そう言って、田中さんはさっさと売り場へ戻っていく。酒を飲まなくても、俺の記憶は怪しいらしい。
ともあれ、さっそく写真を撮ってまひるちゃんに送る。パートさんに紹介してもらったと注釈を付けて。
すると俺が箸を持ち直す前に、既読の印が付く。しかし続いてのコメントはない。
「忙しかったかな」
立ち食いの店なんかに居れば、読むのはできても返事はできない。彼女がそういう店を選ぶとも思えないが。
まあ気にしない。ゆうべからこっち、ボールを持ってるのは俺だ。投げ返す猶予が多少できたと、ありがたいくらいで。
なんて思ってたら、メッセージが届く。
【春野まひる】できればスタンプとかでもいいので、お返事ください。何かあったかなって心配なので。
「ん?」
どういう意味だろう。誰か他の人へ送るのと間違ったのか。
首をひねる間もなく、また着信音。
【春野まひる】すごく嬉しいです! どんなお店か調べてみて、連絡してみますね! ↑のは下書きを間違って送りました、すみません。
やっぱり送信の間違いだ。納得と同時に、覚悟も決めなきゃと深呼吸する。
お金をいくら使わせたか。食べた物を戻したり、迷惑をかけなかったか。それに何か、妙なことを 言わなかったか。
何度も書き直し、やっと送信できたのは休憩時間の終わるころだ。
大仕事を終えた気分で、長机を片付け始める。それなのにすぐ、まひるちゃんの返事が届いた。
【春野まひる】だいじ、です。
ひと言だけのフキダシに、そりゃあないですよまひるさんと。言う元気も、苦笑も出なかった。
*
翌日の土曜。また次の日曜も、まひるちゃんからのメッセージがたくさん送られた。
自分は頑張ってる、と。俺にも頑張れと言いながら、気を付けてって言葉が多い。
――やっぱり頼りなく思われてんのかな。
彼女に限ってバカにしてるはずはなく、相手が誰であれ気にしてもらえるのは嬉しい。
申しわけないことにクソの付くほど忙しくて、ろくな返事もできなかったが。
「何考えてんだ空上!」
「はーい、すぐに」
正社員は全員が出勤、残業。日配担当の新人くんは、泊まり込みだ。絶賛泥縄中に手を抜くほど、俺は器用じゃない。
「店長もあら探ししてないで、自分のことに集中すればいいのに」
とは、某田中さんの言葉。パートリーダーの御方も、チェック表のチェックという言葉遊びみたいな重要任務で忙しい。
当然ながら、普段の仕事もこなしながら。
「ああいうルーティンなんですよ。言われてはかどるわけじゃないけど、言われなきゃ物足りないかもですよ」
「あらら、強くなっちゃって」
「色々諦めましたから」
なんて会話もそこそこに。一日が終わると、昼メシ食ったっけ? なんて記憶の曖昧な時間が過ぎた。
そして迎えた一月二十四日、月曜日。
業務査定の当日は、正社員もパートさんもいつも通りの人数しか居ない。だけど念入りに外の掃除なんかして、時間が押す。
それをまた店長が青筋立てて急かす中、本部のお歴々がやって来たのは午前十一時過ぎ。
部下に受けの悪い猪口店長だが、会社からの評価は高い。なにせどんな指示も、自分が最前線に立って貫徹するんだから。
その甲斐あって、業務査定は甘かった。ちょっとしたミスなら「猪口さんのとこなら、たまたまだね」と見逃される。
「次、空上さんだそうです」
「りょーかい」
一人当たり原則五分の、幹部社員による聞き取りを終えた新人くん。順番を伝えてくれた途端、力尽きて椅子に倒れ込んだ。
これでよくパワハラとか言われないなと苦笑してしまう。
売り場の確認も行われる中、店内で唯一密室となる更衣室へ向かった。そこには営業部長と人事課長が待ち構える。
長机を挟んで用意されたパイプイスが、氷細工に見えて仕方がない。
「ええと、空上くん。調子はどう?」
「おかげさまで猪口店長に叱られながら、どうにかやってます」
「あはは、猪口さんは厳しいから」
店長と歳が近く、人当たりはまるで逆の人事課長が、空気を和らげる。縦も横も小柄で、幼稚園の園長さんって感じの人だ。
事前に提出済みの自己評価表を手に、営業部長はまだ黙ったまま。こちらは全身、直線の定規だけで設計したビルみたいな顔と体格をしてる。
「そう言えば年末、急に倒れたって? 大丈夫?」
「え? ああ、あれですか。今はたぶん。ご迷惑おかけしました」
「いやいや、体調は仕方ないよ。でもお互い、気を付けようね」
意表をついてきた人事課長はそれだけで、話は終わったと営業部長に視線を送った。
――あれ?
心の中で、首をひねる。普段はこのタイミングで、こっちからの要望を聞かれるんだが。
「空上、猪口店長の話は聞いてるか」
「話、と言いますと?」
「春から、運営のスーパーバイザーになる」
「それはおめでたいですね」
全く知らなかった。が、めでたい話には違いない。複数の店舗運営に口出しするスーパーバイザーってことは、あひるの店の店長ではなくなる。
憎き俺の顔を見なくて良くなるんだから、あちらにもいい話に間違いない。
「でだ。次の店長候補なんだが」
「どなたか横滑りですか?」
店長になりたくても順番待ちの先輩方が、あちこちの店に大勢居る。一つ空くなら、もちろんその人たちと思った。
しかし営業部長は、横に首を振る。
「いや。猪口店長の強い推薦があってな、お前でどうだって話になってる。いいな」
「はあ、俺ですか……って、俺ですか!」
聞き流しそうになって、耳と脳みそを疑った。聞き違えたか、一瞬前の記憶さえおかしくなったかと。
「一応ね、責任も増すことだし。どうしても自信がないとかあったら言ってね」
「は、はあ」
断るはずがないと決めつけてる営業部長に代わり、人事課長までダメ押しをする。どうやら夢でも幻でもなく、本当に店長候補らしい。
――いやおかしいだろ、猪口店長が俺を推薦って。
「これが今後の店舗展開の書類ね」
「見てもいいんです?」
「まあ空上くんも長いし、問題ないよ」
店長の引き継ぎ書類を、断るかもしれない相手に見せていいのか。という問いに、人事課長は笑って答えた。
むしろ断る気まんまんなんだが。とはさすがに言わず、A4用紙十枚くらいの書類を手に取る。
「ええと……母と相談させてください」
「ああ、そうだね。お母さんが心配だよね」
最初のページに書かれた、重要項目の一覧。そこに目を通した瞬間、
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