第22話:【まひる】消えない痕
「じゃあ、春野ちゃんのために。ぼんじり追加ね」
「はっ、はい。ありがとうございます!」
あの日以来。と言っても居酒屋さんは一月四日からだけど、こんな注文を時々もらう。
注文を受けたら「ありがとうございます」とは前から言ってた。でも私のためにと加えられたら、どこにお礼を言ってるのか曖昧になる。
しかもだんだん、常連さんだけでなく他のお客さんも。たぶん何も知らないで真似てるんだろう。
やめてと言うのもおかしいし、店長さんと奥さんも苦笑い。そもそも年越しの件とは関係ないのかもだけど。
一月五日のお仕事は、午後九時までだった。着替えて、楽しんでるお客さんの合間を抜け、のれんの外に出る。
お先に失礼しますって、言えない。前はどんな気持ちで、どんな声の大きさだったかな。
そのまま家に帰るのはモヤモヤして、「お仕事終わった?」と真由美にRINEを送った。京玉線、桜が丘駅に向かいながら。
【真由美】お茶する? 京玉の駅前で待ってるよー
彼女もお仕事で、九時終わりと知ってる。でも真由美は終わったよじゃなく、京玉線の八玉子駅まで行くと言ってくれた。
明るいコンビニから目を背けつつ、足早に駅へ急ぐ。
頼れる幼なじみと会うには、二十分足らずで済んだ。どこで話そうと相談することもなく、彼女の住処に近いファミレスへ。
十個くらいのテーブルのうち、半分が埋まってた。
「晩ごはんの時間、とっくになのにね」
私たちもだよと言うべきところを、うっかり「そうだね」と答えた。
スタンドPOPに悪魔のブラウニーサンデーとかいうメニューがあって、気付かないふりでドリンクバーを頼んだ。
大したこともそうでなくても、見てみぬふりはお腹に溜まる。
「んで?」
ベーコンとほうれん草炒めを、二人で両側からつつく。上品ぶってローズヒップとか飲みながら。
「辞めようかなって。居酒屋さん」
「え。なんで?」
なぜと聞きつつ、真由美は意外そうな顔をしなかった。私が言い出すのを、ある程度予想してたみたい。
――さすが。
昨日と今日。お客さんの様子を話すと、彼女は「うーん」と呻る。
「フォーク。咥えたまま、危ない」
「あれでしょ。お客さんだけじゃなくて、お店にも申しわけないとか思うんでしょ。年越しイベントを壊しちゃって」
次に話そうとしたのを、的確に言われた。私は頷き、ついでにベーコンを噛む。
真由美のフォークは口から出て、コーヒーカップをぐるぐる。
「そう思うなら、なおさら続けなさいって話もあるかな。一般論でだよ」
「分かる。お客さんが言うのだって、ちょっとの間だろうし」
何週間かで、誰も気にしなくなる。分かってても、なんだか嫌だ。
「でも気になる?」
「うん。私が汚しちゃって、凄くくさいのに我慢させてるみたいな。分かる?」
「そんな臭い、すぐ消えるけど。痕がね」
心の中でモヤモヤしてたお化けに、真由美が形を与えてくれた。
そう、痕だ。みんなが忘れたふりをしてくれても、私が覚えてる。このお店に変なシミを残してしまったって。
「分かるけど。んー、おばさんには?」
「まだ言ってない。私がどうしたいか決まってないのに、何をお母さんと話すか分からないでしょ」
賛成か反対か、決めかねるらしい。真由美は温かいコーヒーを飲み干し、ちょっと噴き出す。
「ぷははっ」
「もー。汚い」
「やっぱりあんた、ズレてるよね。そのきっちり区切るとこ、奴に向ければ良かったのに」
「奴って?」
真由美の視線がどこか、あさってのほうを向いた。つられて見ても、誰も居ない。
目を戻せば彼女は席を立つところだ。「何でもない」と笑ってドリンクバーへ。
――おかしなこと言ったかな。
お店に迷惑をかけたのに。自分が嫌だから辞める、のはたしかにおかしい。要は逃げ出すってこと。
でも恥ずかしくて、どうにか許してもらいたかった。
「ねえねえ、まひる」
今度はアイスコーヒーを持って、真由美が戻ってくる。心なしか、声を弾ませて。
「どうしたの」
「ええとね、どっちが正解とも言えないかな。だからあんたの思うように決めればいいと思う。あたしは、ね」
子どものころ。ガラス瓶のラムネをくれた顔。中身が水と入れ替えられてて、私が気付かずに飲みきった時の。
「あたしは、って。他に誰か居るの?」
「聞いてみるのもアリと思うよ。今まで相談したことない人に」
「それって――」
誰のこと、とは聞かなかった。もしかすると違ったのかもだけど、私の頭には空上さんの顔が浮かんでいたから。
*
六日は朝から、真由美とお買い物に出かけた。八玉子駅の周辺へ。
家を出る前、ちょうど八時にRINEのメッセージを送って。お昼休みとかに見てもらえればいいなと。
突然の雪に文句を言う彼女を宥めながら、どうにか目的の品物を買った。
軽くお昼を食べ、持ち帰りでカフェラテを飲み歩く。そろそろ真由美はお仕事に行く時間。
空上さんから返信があったのは、そんな時だ。
「場所の希望とかある?」
「それは全然分からないし、空上さんに運転してもらわないといけなくて。近場でいい所、ありませんか?」
「いやあ、俺もキャンプを始めようってとこだから。でも探してみるよ」
そうだった。相談するのもだけど、またお礼もしなきゃいけない。だから彼の好きなことをと思ったのに、うっかりしてた。
「あっ、すみません。お出かけするなら別のことがいいですか?」
「ううん、いいよ。揃えた道具がムダにならないし」
予定変更? と、真由美の口が動く。首を横に振り、二人してほっと息を吐いた。
「良かった。食事は私たちが用意するので、場所選びお願いします」
「ごちそうしてくれるの? いいのかな」
「いいに決まってます」
どうにか予定は大丈夫そう。あとは不意打ちにならないよう、肝心のひと言だけ。
「あのそれで、お話したいことなんですけど」
「うん?」
「空上さんに教えてもらいたいことがあるんです。でも大したことじゃないので、気にしないでくださいね」
「え――ああ、うん。分かった」
ではお邪魔しましたと電話を切ると、真由美がクスクス。「何かあった?」と聞くと、さらに笑われた。
「あははっ。気にするなって言われたら、気になるでしょ」
「そ、そうかな」
またおかしなことを言ったらしい。でも昨日より、胸が軽くなった。真由美はもちろん、空上さんにも聞いてもらえると思うと、それだけで半分解決した気分になる。
そのまま真由美はお仕事へ向かった。私もお仕事があるけど、一旦家へ。せっかく買った物を持ち歩いて、壊したくない。
出がけには薄っすらかぶせた程度だった雪が、戻ると二、三センチも積もってた。
真っ白の景色は、とてもいいことの前触れに思える。でも降り続いたらキャンプに行けない、と考えれば歓迎できなかった。
悩みつつ、アパートの入り口で郵便受けを覗く。すると一通、封筒が見えた。
取り出してみると、公共料金とかではなさそう。普通の茶封筒で、消印のある切手が貼られてた。
お手紙なんて、誰からだろう。裏返すと、差出人の名前がなかった。
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