第20話:【まひる】あなたが嫌い
吐き気がする。お腹の底を、誰かがぐいぐい突き上げてる。
破裂寸前の爆弾みたいだった心臓が、今はおとなしすぎて止まりそう。ちゃんと動いてる? って、持ち主の私が聞きたくなるほど。
「俺さ。スーパーに勤めてて、問題児なんだよ。やれって言われたことの、半分もできない」
「はあ? 急に何の話してんだ、頭おかしいのか」
寒くて震えが止まらなかった。赤いコートを着せてもらっても。俯き、じっと身体を丸めても。
そのせいか、頭の中がぼんやり。陵さんの怒った声だけが靄を突き破る。ゆっくり動き始めた脳みそを、トゲトゲ針山にしてしまう。
「でもさ。自分でこうしようって決めたやり方なら、ちょっとはマシになった。ああしろこうしろって細かく言われても、俺には向かなかったんだろうな」
――これは誰?
空上さんの声で、怒ってる。大きな声を、ひたすらばらまく陵さんと違う。
遥か、水平線がうねるみたい。とても静かに迫ってくる。あの優しい空上さんが、怒るなんてあるの?
「自分が無能って話して、楽しいのか?」
「楽しかない。その言いかたなら、春野さんがとんでもない有能って話だよ。君の無茶なシナリオに、よく合わせられるなって感心する」
――陵さんに合わせてた?
私の知らないことをやろうって言ってくれるから、楽しいと思ってた。私が迷うこともすぐに、これがいいだろって教えてくれてた。
だから陵さんと居るのが楽しかった――はず。
「シナリオ? 結局俺が仕組んだって言いたいのか。何回言われてもニットの奴は――」
「今日だけじゃなくて、だよ。俺の上司はさ、俺の都合なんか気にしない。他に選択肢はないって、どんどん押し付ける。そうすれば管理してる気になるのかな? 君と似てると思うんだ」
彼の。空上さんの声は、悲しげにも聞こえた。上司の人が勝手と言っても、頼みを果たせなかったのが悔しいんだろう。
私なら、きっとそう感じる。
「おいっ!」
会話が途切れ、店長さんの尖った声が響く。たくさんの液体がこぼれる音も。みんながガタガタ、椅子を蹴立てて立ち上がる。
何が起きたか、想像は一つだけ。たまらず私も振り返った。
「ちょっと、大丈夫?」
「平気です、慣れてます。品下くんからは二度目だ」
椅子から立った陵さんの手に、ジョッキが握られてる。逆さにして、まだ雫がぽたぽたぽたぽた。
空上さんの頭が、シャンプーしたみたい。泡が付いて、びしょびしょで。店長の奥さんが、自分の腰にあったタオルで拭いてくれてる。
「いい気でグダグダ言ってんな。わけ分かんねえ、何が言いたいんだ?」
「最初に言っただろ。聞き分けろって」
空上さんも立ち上がる。わざわざ椅子を除けて、陵さんと真正面に睨み合う。
「まひる、危ないよ。座って」
いつの間にか、私もだ。もうやめてって言ったつもりだけど、声が出ない。怖くて、誰かに喉を絞められてるみたい。
よろめくのを心配した真由美が、肩を支えてくれる。
「だから分かんねえ。何がだよ」
「春野さんが君に向ける優しさ。俺なんか見たことがない、底抜けだ。じゃあ君は? どんなに無茶を言っても、俺の会社は給料をくれるって話だよ」
――陵さんからもらったもの。
それはたくさんある。だってずっと、楽しかった。本当に言いきれないくらい。
たとえばそう。
たとえば。
たとえば……?
「ついさっき、悪い奴から守ってやった。それ以上のことがあるか?」
ニット帽の男の人に、私は引き摺られた。振りほどこうとしたけど、とても力が強かった。「やめて」と言っても、聞いてくれない。
それをコンビニから出てきた陵さんが、「何してんだ」って。握った手を引き剥がしてもくれた。
でもそれだけで、ニット帽の人はどこかへ行った。少し前の私なら、とても感謝しただろう。でも今の私は、陵さんが嘘を吐くと知ってる。
ニット帽の男と陵さんと、何か事態が変わったとは思えなかった。
「ふう……君のやり方が。いいとか、悪いとか。そういう相手を求める人が、居るか居ないか。俺ははっきりしたことを言えない」
歯ぎしりしながら陵さんは、空上さんを見下ろす。大して背も変わらないのに、背伸びまでして。
「だけど春野さんには。あれだけの気持ちを注いでくれる彼女にも、何か注いであげなきゃ空っぽになる」
「ほんとムカつくな、お前」
ひと際大きく、陵さんが歯を鳴らした。同時に私は走る。
そうしなきゃいけない気が――ううん、また空上さんが嫌な目に遭わないように。
「品下くん、君と春野さんは合わない。これだけは、はっきり自信を持って言える。誰が悪いとかじゃなく、合わないんだよ」
「うるせえ」
彼の手も足も、震えてなかった。品下陵を見上げて、一歩も引かずに言った。
言ってくれた。
私は「やめて!」と、隣のテーブルへ伸びた腕にしがみつく。まだ氷の浮かぶ、薄茶色のジョッキを奪い取る。
「まひる、何してんだ!」
「やめてください」
「はあ? 俺が居なかったら、今ごろお前がどうなってたか、分かってんのか」
まだ私に恩を着せようとする。そう言う口とは別に、手がジョッキを取ろうとする。
分からない。どうしてここまでできるんだろう。
「あなたが居なかったら」
空上さんに浴びせるくらいなら。覚悟を決め、私はジョッキを高く掲げた。真っ直ぐ上げた腕を少し折り曲げ、真っ逆さまに中身を落とした。
「まひる!」
「あなたが居なかったら。私は冷たいお酒をかぶらなくて済んだと思う。みんなで楽しく年越しして、そろそろ電車に乗ってたと思う」
ウイスキーの臭い。背中を流れ落ちる、冷たい氷。床へぽたぽた、雫の音。
ずぶ濡れの私に、真由美が抱きつく。奥さんと店長さんからタオルをもらって、ゴシゴシ乱暴に拭いてくれる。
ああ、しまった。真由美のコートを着たままだった。
その間、品下陵は動かなかった。
目を真ん丸にして、上から下まで私を眺めて。お客さんも含めた店のみんなが、私を気遣ってくれるのをただ見てた。
「私、あなたが嫌いになってしまったの。お願いします、もう来ないでください」
自然に、言葉が出た。好きとか嫌いとか、実はどうでも良くて。頭にあるのは単純に、二度と会いたくないと。
「来ないでって、お前は俺の……」
ここまで言っても、まだ手を伸ばしてくる。驚きより、不満の滲んだ顔で。
これ以上、どう言えばいいのか。正直な気持ちが、私の首を横に振らせる。
「お願いします、たまには私の話も聞いてください。もうお付き合いはできません」
真由美に支えられ、深く頭を下げた。だけど返事はなくて、上げた顔を睨みつけられる。
まだ何か言おうと、もしくはしようとしたと思う。でも結局、品下陵は背を向けてお店を出て行った。
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