第16話:【まひる】大ごと
時計を見ると、夜の九時半を過ぎたところ。こんな時間に、空上さんが私の部屋でお茶を飲んでる。
マグカップを持つ手が、足が、今日は震えてない。それでも申しわけないなと思う。
お母さんなら呼べば来てくれたはず。でも相手は男の人で、こっちも男の人でないとって。
他に頼る当てがなかったとは言え、この人には出会った最初から迷惑しかかけてない。
「今日。お仕事大丈夫でした?」
「ん? ああ全然。たまたま休みだったの」
「それなら良かった――って、良くないですよね。ゆっくりしてたのに、すみません」
完全に私個人の事情に巻き込んでおいて、良かったはなかった。そういうつもりで見れば、空上さんはくつろいだ服装をしてる。
上は私の借りた上着で見えない。けど、下は紺のスウェット。しかもかなりヨレヨレ。
――急いで来てくれたんだ。
深く、頭を下げた。
「だいじ、だいじ」
テーブル越し。私の頭を、誰かが優しく撫でた。それはもちろん、一人しかこの部屋に居ない。
「はぇっ?」
サッと顔を上げると、空上さんは笑ってた。きゅうっと口を横に引っ張って、ちょっと心配そうに目尻を下げて。
「あっ、これ! なんで俺こんな、ごめん。つい、なんかさ」
だけど私が驚いたから、彼の手も引っ込む。無意識だったみたいで、自分の手を信じられない風に睨みつけた。
「ごめん、はないです。心配してもらって、ありがとうございます」
「うん、そう。心配してる。目の前に小っちゃい頭が出てきて、ほんと。ついなんだよ、つい」
必死に弁解するのが不思議だった。それとは別に、なんだか面白く思えてくる。
ほんのちょっぴり、鼻から息が抜けた。「ふふっ」て、私が笑った。
「妹さんとか、親戚で居るんですか? 歳の離れた人」
「居ないよ」
「あれ? いつも慣れてて、条件反射かと」
窓の下。道行く誰かの、大きな声が聞こえた。ビクッと首を竦め、カーテンの隙間を窺う。
ベランダからじゃないし、ケンカをしてる様子でもなかった。「ふうっ」と、意識して力を抜く。
「そうやってさ。春野さんみたいな子が怯えてたら、どうも勝手に手がね」
「それって、わんちゃんとかイメージしてないですか?」
「あ、そうかも」
たしかに、みたいな真顔で頷かれた。どうやら彼の目に、私は小っちゃい子どもやペットとして映るらしい。
だから可愛い物も、いいと言ってくれるのかな。どんな理由だって、私の嫌なことをしないでくれるのはありがたかった。
「だいじ、って何ですか」
「あれ、言ってた? 俺の母さんの口ぐせで、大丈夫ってこと。群馬なの」
「へえ、だいじって言うんだ」
「そうらしいよ」
だいじ。大事で、大切って言ってもらった気分にもなる温かい言葉。そう言って頭を撫でてもらって、部屋じゅうが暖まったようにさえ感じる。
玄関の向こう、背中のカーテンの陰。見えない場所が怖くても、おどおどしないでいられる。
「ところで春野さん、これからどうする?」
空上さんの手が、テーブルに置いた彼のスマホに触れる。
――何か、誰かと都合があったかな。
寂しく思うけど、それは仕方がない。と思ったら、時刻を見ただけみたい。私からもすっかり見える画面に、通知のマークは何もなかった。
「これから?」
「このまま俺が居続けるわけにいかないでしょ。いや俺の都合じゃなくて、春野さんが困るだろうって意味ね。おどすようで悪いけど、さっきの奴がまた来る可能性もさ」
彼が居るから大丈夫と安心してた。改めて見れば、もう十時を過ぎてる。
言う通り、ずっと守ってもらうわけにもいかない。今日はお休みでも、明日はお仕事だろう。
「ですね……どうしよう。真由美がもう帰ってると思うから、連絡してみようかな」
「実家に帰るとかできないの?」
「できなくはないですけど、そもそも居る場所がなくて出た家なので」
家族と仲が悪いわけじゃなく、広さ的な意味で。六人で住んでた時を思い返せば、よく居られたなあとしみじみ思う。
「そうかあ、うーん」
「と、とりあえず真由美に相談してみます」
眉間に皺を寄せ、彼は悩んでくれてる。自分のことみたいに。
これは私の事情なんだから、空上さんが必死になる必要なんてない。急いで真由美にRINEを送った。
顔を隠した男に嫌がらせをされたこと。今は空上さんが一緒に居てくれることを。
「今晩くらいは泊めてもらえます。そうしたほうがいいってことですよね」
「うん。そうだけど、その先は?」
「様子を見て、親に相談します」
「だね。俺が金持ちなら、住む場所なんか気にするなって言えるんだけど。ごめん」
お金や家を持ってたら、私に使わせてくれるらしい。実際に用意されても、心苦しくて使えないけど。
それが気休めじゃないと、悔しそうに奥歯を噛みしめた顔で分かる。
「空上さんが謝ること、何もないですよ」
「いや、まあ。うん」
次に何を言えばいいか、会話が途切れた。すると見ていたように、スマホがRINE電話の着信音を鳴らす。
「ねえ無事!?」
「うん、被害は何もないよ。怖かっただけ」
「それが被害でしょ。今からそっち行く、今日はうちにおいで」
「え、うん。お願いしようと思ってたの、ありがとう」
矢継ぎ早の声。彼氏さんとの家なのに、無条件で来いと言ってくれた。期待して伝えたのに、じんと胸が熱くなる。
感動してばかりもいられない。じっと見つめる空上さんにも伝えないと。
「真由美が来てくれるそうです。泊めてくれるって」
「良かった。でも女の子だけで往復はどうかな。良ければ俺が送ってくけど?」
「え。それじゃあ空上さんの手間が」
「手間なんかどうでもいい、今は春野さんが安全かどうかだよ」
「は、はあ。そう言ってみます」
彼の言い分をそっくりそのまま、真由美に伝えた。彼女もそうだねと、でもやっぱり来てくれると答えた。
「あたしはすぐ出られるから、そっちに行く。あんたは今から出る用意でしょ、西八玉子で合流して、空上さんにも八玉子まで来てもらおう」
「うん。なんだか大ごとだね」
「何言ってんの、大ごとでしょ」
「そっか、ごめん。ありがとう」
真由美の声が怒ってた。間の抜けたことを言う私にもだし、たぶんニット帽の男に。きっと正体は陵さんだと考えて。
これは庇うわけじゃなく、本当に違うと思う。おまわりさんにも言ったけど、走る後ろ姿が全く違った。
「真由美、来てくれるんですけど。空上さんも八玉子まで一緒に行ってもらえますか?」
「もちろんだよ」
にっこり笑って、とはいかない。でも快諾だった。
一気に慌ただしくなって、私は出かける準備を始めた。彼にはそのまま座っててもらい、洗面台の前に立つ。
――私、ずっとすっぴんだった。
鏡の中の私が、かあっと真っ赤に染まってく。でも今さらどうしようもない。顔を洗って、髪だけといた。
メイクはもういいや、マスクと帽子で隠すことにする。
「春野さん、糊ってある?」
「ありますけど、どうするんですか」
「ちょっとね、映画で見たんだ」
着替えやメイク道具なんかをカバンに詰め、用意は五分で済んだ。その間、空上さんも玄関で何やらやっている。
終わったと言われて見ると、郵便受けの内側にティッシュを裂いた帯が貼り付けられてた。誰かが蓋を開ければ、破れる仕組み。
「大したことじゃないけど、参考程度にね」
破れていても、誰のせいかまでは分からない。だけど破れていなければ、次に見るまで誰も来なかったと分かる。
私には思いもつかない。
「空上さん、一つ聞いてもいいですか」
「何でもどうぞ」
しっかりと、鍵をかけたのを三回たしかめた。彼にも見てもらって、駅に向かう。
その短い道中、私は質問をした。
「昨日、お客さんに聞かれたんです。何かいいことあったのかって」
「昨日――ああ、うん」
おととい、空上さんは氷水を浴びせられた。その次の日、私がそんなことを聞かれるのはおかしい。
でもきっと、彼は意味を察してくれた。
「たぶん私が、いつもより元気に見せようとしてたから。気を抜くと考え込んじゃいそうで」
「偉いね」
彼は行く先を眺めたまま、ボソッと答えた。私の部屋で見せてくれた、優しい笑顔じゃなかった。
「正直に言えるはずなくて、そうですって嘘を吐きました」
「まあ、そうなるよね」
「です。それで思ったんですけど、空上さんもですか?」
出会った日。空上さんは何かいいことがあって、好きなことをするつもりと言ってた。
それが何かと聞いても、いまだに教えてくれない。こんなにも優しい、この人が。
「大したことじゃなくて、言うのが恥ずかしいんだよ」
「……そうですか」
たぶんそれ、大したことです。と、何度も言おうとした。
だけど西八玉子駅に着くまで、とうとう勇気が出なかった。
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