第15話:【晴男】くそ、逃げるな

「どれっ!?」


 へなへなと膝を折ったまひるちゃんは、それでも気丈に指をさした。ベランダの柵越しに、向けられた先へ人影は一つ。

 そこは間違いなく、ついさっき視線を這わせた場所。その時に見えなかった姿が、今は見える。


 聞いた通り、グレーのニット帽。赤いマークが入ってて、顔を隠した手袋も同じデザイン。

 二度会っただけの俺に、品下陵なのか判別はつかなかった。黒いブルゾンを着たシルエットが、少なくとも女性ではなさそうというくらいで。


「あいつ!」


 それでも間違いないと感じた。すると口から、大きな声が勝手に出た。まひるちゃんの指に合わせ、屈めていた膝も伸びる。


「くそ、逃げるな!」


 ニット帽の男が、背中を見せて走り去る。追いかけようと部屋に入りかけたけど、さすがに無理だ。

 立ってた位置まで、直線でも三十メートル。玄関から階段を下り、オートロックの扉を開ける間を待ってくれるはずがない。


「あっ」


 証拠を撮ればいいと思いつき、スマホを取り出す。けど、もう男は遥か向こうだ。映った画面だと、もうどこに居るかさえ。


「くそっ……」


 ――ほんと役に立たねえ。

 スマホでなく、俺自身が。こんな奴で、まひるちゃんは安心してくれたのに。

 腹が立った。俺にも、品下陵にも。

 なんでこんな子を泣かせるんだ。そんなことして、何が楽しいんだ。


「ごめん、春野さん。見つけたのに逃がしちゃって」

「と、撮りました」

「えっ」


 女の子座りで身を乗り出し、床に両肘を突いて。彼女のスマホが、男の逃げるほうへ向いている。

 ササッと操作して、画面を俺に見せてくれた。そこへはたしかに、拡大された男の姿が映ってた。


 *


 警察に電話すると、制服の警察官が二人やって来た。説明は俺がしようと思ったのに、後から来ただけと分かると「いや当事者の方が」と蚊帳の外だ。

 まひるちゃんも動作はゆっくりながら、しっかり話せていたので問題はなかったが。


 ざっと説明したのは、玄関扉を入ったところで。お世辞にも広くないのに、警察官は上がろうとしない。


 ――そうか、指紋とか消したらまずいのか。

 入ってきてないとは言え、人の出入りは最小限にしたほうがいいんだろう。

 そう解釈して、遅まきながら俺も物に触れないようにした。


「なるほど、その動画をちょっと見せてもらえますか」

「もちろんです」


 ニッフィーのカバーが付いた、いかにも女の子のスマホ。一分ちょっとに「くそ、逃げるな!」なんて俺の声が入ってる。

 ちらと、警察官の一人が、二歩離れた俺に視線を向けた。お前何やってたの、と言いわれた気がした。


「きれいに映ってますね」

「あの。これで捕まえられますか」


 一通りを話し、警察官は熱心にメモを取っているようだった。犯人の姿も見せ、まひるちゃんは当然の質問をしたと思う。

 しかし答えは「いやあ」と、否定から入った。


「ええと、彼氏さん。品下さんに事情を聞くことはできます。この人に間違いなさそうですか?」

「……いえ、違うと思います。背丈とかは似てますけど、走り方が陵さんぽくなくて」

「するとさっぱり、誰だか分からない?」


 品下陵とばかり思ってた俺には、まひるちゃんの返事がまず驚愕だった。

 すると誰だ。あの厄介な彼氏以外に、この子は妙な相手から目をつけられたのか。


「じゃあ、この時点でできることは少ないですね。何か盗られたり、壊されたわけじゃないし。いや、付近の巡回は強化しますよ」

「でもあの――動画が」

「それは消さずに持っていてください。被害届を出すことになれば、証拠の一つになります」


 取ってつけたように、巡回を強化すると。いやそれ絶対しないだろ、って危うく口に出すところだ。守ってくれるはずの彼らに、まひるちゃんのマイナスイメージを与えたくない。

 被害届を出すことになればって、それじゃ遅いだろ。というのは「そっ」まで声が出た。


「ん、何か?」

「いや、ええと。その、指紋とかは」

「屋内への侵入はなかったんですよね?」


 どこの指紋を、何の容疑で採れと言うんだ。警察官二人の揃った苦笑が、そう告げていた。

 彼氏でも家族でもない男は黙ってろ。とまで思わないと信じたいが、「では」と会釈したのはまひるちゃんにだけだった。


「ごめんね、役に立てなくて」


 閉じた扉の向こうを、去っていく警察官の靴音が鳴る。無遠慮に、俺たちはここだと世間に知らせて歩くような。


「えっ、そんな。空上さんが来てくれて、助かりました!」

「え、そう?」


 なんだか疲れた気がして、壁にもたれる。素早く振り返った彼女の擁護にも、頭を掻くばかりだ。


「あっ、お茶。座っててください、飲み物用意するので」

「いやお構いなく。むしろ俺がやろうか?」


 女の子の部屋の物を勝手に触れるのはどうか。なんて常識くらいあるつもりでも、今の気分として「それくらいやらせてください」だ。


 でもまひるちゃんは「私も温かい物飲みたいので」と、俺を部屋に押し戻した。

 仕方なく、隅にあった小さなテーブルを持ってきて座る。どピンクで女の子らしいなと思ったら、これにもニッフィーが居た。


 目の前の、積み重ねられた衣装ケースにも。化粧品なんかを置いたカラーボックスの中にも。

 カーテンやベッドは普通に花柄だけど、やっぱりピンクと白、ときどき黄色。俺の住処では見かけない配色の物ばかりだ。


 ベッドの壁ぎわに、大小のぬいぐるみが並んでる。クレーンゲームで取ったようなのと、テーマパークのお土産みたいのと。


 ――そうか、女の子なんだよな。

 我ながら、その通りですが何か? と突っ込みたくなる。しかし実際、そう思った。


「そんなに見られると恥ずかしいです」


 マグカップ二つを載せたトレイが、テーブルに置かれた。まず俺の前に、続いて彼女自身に、まひるちゃんの手がカップを置く。

 トレイにもニッフィーが居て、それは見えなくなった。まひるちゃんが顔を隠すのに使ったから。


「あっ、ごめん! そうだよね、嫌だよね、気持ち悪いよね」

「そ、そういう意味じゃなくて。私、可愛い物が好きすぎって言われるんです。二十歳にもなってこんなの、おかしいって」


 白いプラスチック板の向こうで、もごもごと弁解がされた。部屋にまで入ってるってことは、真由美ちゃんが言ったんだろうか。


「え、そうかな。好きなんでしょ、じゃあいいじゃん」

「いいんですか?」

「逆に、何が悪いか分からない。職場の机の上とかならね、余計な物置くなって言われるかもだけど。自分の部屋なんだから」


 ――可愛い物が好きで、他人に迷惑をかけることってあるのか?

 可愛い物に限らない。納豆が好き、野球が好き、車が好き、ぬいぐるみが好き、あの歌手が好き。

 自分の部屋で、店に売ってる物を集めることの何が悪いのか、さっぱりだ。


 あの人が好き、だって問題ない。好きな気持ちを高めるだけなら。せっかく彼女になってくれたのに、こんな悲しませることをしないのなら。

 ――いや今日のは、あいつじゃなかったっけ。


「本当に言ってますか?」

「本当だって」

「『男が百人見たら、百人とも嫌がる』って真由美が」

「そんなことないよ。自分の部屋を同じにしたいかって言われたら違うけど、この部屋はこの部屋で可愛い」


 すうっと、トレイが下ろされた。まだ恐怖にひきつって、「良かった」と笑うのも疲れて見えたけど。

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