第14話:【まひる】寒気のする夜
【空上晴男】すぐ行くから、絶対にカギ開けないで。外を覗くのもしないで。危ないと思ったら、すぐ警察に電話して。
もうすぐ午後八時。三十分前の空上さんのメッセージを読み返すのは、もう何度目だろう。
窓側の壁に背中を押し付けて、身体に毛布を巻きつけて、私は蹲る。
部屋の灯りは点けてない。外が暗くなっても、点ける気になれなかった。ここに私が居ると、起きて動いてると知らせるようで。
キッチンの小さな蛍光灯が、玄関の扉を私の目に映す。
見たくないのに、視線を逸らせない。その途端、誰かが押し入ってくる気がして。
――早く。お願い。
とても寒かった。ずっと座ってるのに、床は冷たいまま。窓ガラスから伝わる冷気が、毛布を貫通するみたい。
震えて細い自分の息が、寒気を増して感じさせた。スマホの時計が進まないのは、凍ってるのかと思う。
七時五十三分。アパート前の道路に、車の止まる音。それから何十秒か、ようやくドアの開け閉めも聞こえた。
【空上晴男】たぶん着いたよ。今からチャイム鳴らすね。
誰かの力強い、アスファルトを蹴る音。その後すぐ、インターホンが鳴った。
「うぅっ」
胸に強く、何かの感情が湧き上がる。「助かった」かもしれないし、ただ空上さんの名前を呼んだのかも。
とにかく良かったと、たくさんの気持ちが混ぜ合わさった。
「っはい」
「春野さん? 俺、空上」
「開けます」
解錠のボタンを押すと、スピーカーからロックの外れる音が。空上さんの声をした誰かは、さらにの返事をしなかった。
――まさか空上さんの声を真似て……。
そんなバカなと思う。でも、そうだったらどうしようって妄想が膨らむ。空上さんの顔を見ないと、信用できない。
それには、ドアの覗き穴を見ないと。
――あれを覗くの? また。
玄関に近づくのも嫌だ。だけど扉を開けなきゃ、助けてもらえない。
もう廊下を走る音が聞こえ始めた。胸を押さえつつ四つん這いで、ゆっくりと床を進む。
部屋を横断したところで、玄関のチャイムが鳴った。やけに甲高い、鉄琴みたいに。
流しを頼りに立ち上がり、よたよたと。もつれる足で扉に近寄る。その間、扉の向こうから声が聞こえた。
「春野さん。ドア、開けられる? 慌てなくていいから、もう大丈夫だから。ゆっくり、少しだけ頑張って」
モタモタしてるのを、見えてるみたい。ひと言ずつに、私は頷く。
――間違いない、これは空上さん。
結局私は目で見ることなくチェーンを外し、鍵を開けた。
「春野さん。俺、来たよ」
「そっ、そらっ……う、うえぇぇぇぇ」
遠慮がちに開いた隙間から、空上さんの顔が見えた。靴を脱ぐ隙間にへたりこんだ私は、涙を堪えられない。
助けに来てくれた彼を、呼び捨てたみたい。でもそれだけ、ほっとしたんだ。
「ええと、このままだとアレだから。ごめん、入っても大丈夫かな」
「うっ、うっ」
うん、とさえ声が出ない。頷くと空上さんは、扉を大きく開けた。
なぜか扉の外で靴を脱ぎ、その場に置く。それから私の肩をまたぐように、家の中へ。
そうか、私が邪魔で入れない。
「あの、立てないみたいだから。引っ張るよ」
「あい……」
空上さんの靴を置き去りに、音を立てて扉が閉まった。彼は私の背中側から、腋を抱えて引っ張り上げる。
力強くて、つかむのがちょっと痛かった。でも私が立つと、「ごめんね、歩ける?」と優しく聞いてくれた。
「だっ、だいじょ――」
「いいよいいよ。まず落ち着こう」
空上さんの腕にしがみつき、彼も反対の手で肩を支えてくれた。歩き始めたばかりの赤ちゃんみたいに、「よいしょ、よいしょ」と励ましてくれる。
怖くて点けられなかった照明も、あっさりとスイッチが入った。二度またたくのに目を細め、「はあっ」と息が漏れる。
すると胸が、どっどっと脈打ち始めた。強く、とても強く。しばらく忘れていた分を取り戻すみたいに。
「靴、取ってくるね。あんなのあったら変だし」
「あっ」
私をベッドに座らせると、空上さんの離れる気配がした。咄嗟に引き止めると笑って、彼はテーブルのティッシュを取った。
そんなの、どうして私に渡すんだろう。
「大丈夫。すぐ戻る」
ぽんぽんと肩を叩かれ、頷いた。玄関へ行く背中を見送っていると、鼻が苦しい。ちょうど手もとにあったティッシュを当てると、びしょびしょになった。
慌てて手でたしかめる。ほっぺも鼻の下も、涙だか鼻水だかでびしょ濡れ。サッサッと何枚も重ねて、ティッシュを取った。
*
「電話に出れないって言うし。結局よく分かってないんだけど、誰か居るって?」
話せるようになるには、二十分くらいかかった。その間何度か「迷惑かけてすみません」と謝ろうとしたけど、舌が回らなくて。
カーペットに座った空上さんは、半分心配の苦笑で頷き続けていた。
「インターホンが鳴ったんです。返事をしたけど誰も何も言わなくて。その後すぐ、郵便受けに何か突っ込む音がして」
ベッドからは見えない玄関に、顔を向けた。すると空上さんは「うん」と扉を見に行く。
うちの郵便受けは、扉の内側に金属のポケットが付いている。だから蓋を開けても、中が見えない。
「でもこの建物、下にも郵便受けがあるよね」
「そうです。だからそこには、管理人さんがメモを入れたことがあるくらいで」
ポケットを開け閉めする音がした。夕方、私はあれを見下ろした。ポケットの上はスリットになってて、中を覗けるから。
そこに見えたのは、人間の指。どうするつもりか、ぐいぐい手を突っ込もうとしてた。
「誰か。たぶん男の人の手が見えました。ドアを開けようとしたのかな」
「ああ――」
言葉に詰まった風の空上さんは、「何も入ってないね」と戻ってきた。私の足下へ元通り座り、意味もなく頷く。
「他にも何かあった?」
「ええと。私、悲鳴をあげちゃって。そうしたらドアの外で声が聞こえて。咳払いみたいで、誰の声とかは分からないですけど」
「うん」
「怖いけど、たぶん陵さんと思ったんです。だから覗き穴を」
だんだんと、空上さんの表情が険しくなっていく。怒ってるんじゃなく、悲しそうに。
彼自身も気にしてるみたいで、何度も目の辺りをごしごしこすった。
「でも真っ暗だったんです。いつも夜中でも廊下は明るくて、見えないことないのに。それで向こうからも覗いてるんだって分かりました」
「うーん……まあ、そんなことしても見えないと思うけど。怖いよね」
「怖かったです。しゃがんで、じっとしてました」
うん、うん。と彼は、いちいち首を動かしてくれた。唇を噛んで、自分が怖い目に遭ったように。
「しばらく。たぶん二分とか、三分とか。階段のほうへ歩いていく気配がしました。覗き穴からも、廊下の明かりが見えました」
「そうか、怖かったね……」
ふうっとため息を吐き、空上さんはまた玄関を見つめる。その姿を見てると、動悸が鎮まってきた。
「ええと。まだ続きが」
「ええ?」
「今度は窓から音がしたんです、十分以上経って。何か小さな物の当たった、コツッて」
サッと彼の首が反対を向く。畳半分の幅しかないベランダに出る、大きな窓へ。
「見てもいい?」
「えっと……」
まだあの男が居るんじゃ? そう思えて、窓を開けるのは怖かった。
むしろ空上さんにも、姿を見てもらったほうがいい。それは分かるのに、勇気が出ない。
「ああ、洗濯物とかあるんなら」
すまなそうに、彼は頭を掻く。下着を干してると思ったらしい。
そんなわけないのにと、ちょっとズレた心配にがっかりした。だけどなんだか急に、じゃあいいやと思える。
「あ、いえ。それはないです。なので、開けてください」
「いいの? うん、じゃあ失礼して」
勢いよく、片側のカーテンが開けられた。カラカラカラと、安いサッシの音。私はベッドの上を、外から見えないほうに動く。
「お向かいです。同じ階から、誰かこっちを見てて」
前の道路の向こうにもアパートが建つ。あちらの廊下は壁がなく、私の家から並んだ玄関扉が見える。
「ニットの帽子で、手袋をした手で顔を隠してました。私カーテンの間から覗いて、男の人としか分かりませんでした」
「……今は居ないよ」
陵さんかと聞かれたら、答えに困る。背格好は似てたけど、それだけでは何とも。
隅から隅まで見逃さない感じで、空上さんは外を睨みつけた。ゆっくりと首を動かし、見える範囲の全部を見てくれているみたい。
「三回だったかな。小石みたいのを投げてきました。結局最初の音がしたのと、もう一回しか当たりませんでしたけど」
「うーん、それっぽいのはないね」
しゃがんで、ベランダも注意深く見てくれる。本当に小石かも分からないのに、それほど几帳面に掃除もしてないのに。
「すみません、汚くしてて」
「えっ、全然きれいだけど?」
「真由美、今日はお仕事で」
「ん、ああそうなんだ。俺は別に、全然」
少しずつ冷静になるにつれ、申しわけなく思えた。誰かが郵便受けに手を突っ込んで、窓に石をぶつけた。たったそれだけなのに。
「お父さんもお仕事で。他に誰かって考えても、当てがなくて」
「いやほんと、気にしないで。というかまだ役に立ってないし、俺が悪いなと思ってる」
男の人の大きな手が、ぶんぶんと振られた。真剣な顔で私を見て、また外にも目を向けて。
――知り合えて良かった。
「そんなことないです。もう誰も居ないって見てもらえただけでも」
「いやあ、そんなので?」
振り返った顔が困ってた。役に立ってないって、本当に思ってるみたい。
たしかに解決ではないけど、私がどれだけ怖かったか。
「それはともかく、通報はしといたほうがいいのかな」
「そうなんですか? 私の勘違いだったら」
「勘違いの可能性、ないでしょ」
「それはまあ――」
言いながら、空上さんはベランダに出た。カーテンを閉めている側に、身体が隠れる。
不安になって、腰を浮かせた。
「何かあったんですか?」
「いや何も。見落としのないように、かな」
――そうよね、これだけ見てくれてるんだから。
もしまだ、どこかへ隠れてるとしても。男性が駆けつけたのは、向こうも分かったはず。
だからもう、何もしてこないかも。ちょっと気持ちが楽になった。
「あ、大丈夫?」
「はい。空上さんが居てくれるなら」
「それはいいよ」
私も窓ぎわに立って、外を眺めた。ベランダにまでは出ないけど。
お向かいの廊下は明々として、誰か潜んでるようには思えない。道路も街灯が切れ目なく照らし、人影は一つも――
「そ、空上さん。あそこに誰か」
「えっ」
お向かいのアパートの隣を走る道路沿い。ブロック塀の陰に、誰か居た。
真上に街灯があって、顔は見えない。だけどかぶっているニット帽が、あの男に間違いなかった。
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