第12話:【まひる】おひとりさま

 私の働く居酒屋さんは、陵さんに昨日会った場所のすぐ近く。ビルの二階で、いつも串焼きの匂いが立ち籠めてる。


「春野ちゃん、生追加ね」

「はーい!」


 決まって月曜日、カウンター席に夫婦で来てくれる常連さん。店員さん、でなく。私の名前を呼んでくれる。

 そういうお客さんは他にもたくさん居るけど、今はこのお二人だけだった。


「お待たせしました、生お二つです!」

「ありがとー。今日、元気に輪がかかってるね。何かいいことあった?」


 薄くなった白髪頭を丸坊主にした、四角い顔の旦那さん。必ず話しかけてくれるわけじゃなくて、それだけに何か変だったかなと思う。


「いいことってほどじゃないです。でも、そうです」

「あー、いいねえ。若いうちに、そういうのたくさん経験しとくといいね」

「ありがとうございます!」


 丸顔の奥さんも、隣で笑ってくれてる。うまく笑い返せたか自信がないけど、おじぎでごまかした。

 あれからずっと、頭の中を疑問がぐるぐる。考えないようにしなきゃ、次はあっちのテーブルを片付けて、そろそろお皿を洗って、と。意識的に別のことを考えていないと、立ち止まってしまう。


 ――なんで? どうして?

 陵さんは私を好きって言ってくれた。このお店で、一目惚れって。真由美の彼氏さんと、何回も来てくれた。

 真由美と四人でご飯に行って、大事にするって。凄く、凄く、一所懸命に。


「春野さん、もう上がって」

「あっ、はい!」


 若い、と言っても空上さんと同じくらいの店長さん。言われて気付くと、もう午前零時が近かった。

 あのご夫婦がいつ帰ったかも意識にない。たぶん精算は、店長の奥さんがしたんだろう。


「春野ちゃん、これ持って帰って」

「いつもすみません!」


 その奥さんが、タレに浸けた端切れのお肉をくれた。野菜やモヤシと炒めれば、五、六回分のおかずになる。「いーのいーの」とギャルっぽさの残る口調が優しい。


「だけどさ、なんかあった?」

「え、いえ。何も」

「なら、いいけど。今日ちょっと頑張りすぎ? って思って」


 やっぱり考えこんで、表に出てたみたい。おかしかったろうけど、奥さんは叱る雰囲気じゃなかった。


「すみません。次はちゃんとします」

「えっ、ちゃんとしてたし。しすぎてて、倒れるんじゃない? って」

「ありがとうございます」

「ううん。もし、こっちで相談乗れるんなら聞くし」


 もう一度お礼を言って「大丈夫です」と。たぶんこれは、うまく笑えた。

 厨房裏の倉庫でエプロンを外し、うす茶色のコートを着る。リュックを背負えば、もう帰り支度は終わり。


「お先に失礼しまーす」

「お疲れさまー」

「気ぃつけてねー」


 店長さんと奥さんと、残ってたお客さんが見送ってくれる。出口ののれんを店内に入れて、目の前のエレベーターに乗り込む。

 掃除の行き届いた小さな箱から出ると、そこは夜の街だ。頭の上にはまだ照明があるけど、五歩も進めば暗い空の下。


 ――信じてるんだよ。

 ビルの通路と歩道の境。右を見て、左を見て。交通安全教室でも、こんなにしなかったはず。

 歩道を走る車は居ない。だけど駅まで、百メートルくらいのスタートを切る勇気がなかなか出なかった。


 ――なんで嘘吐くの。

 私でも、陵さんのお仕事が嘘と分かった。どんな職業だって、彼をどう思うかとは関係ないのに。


 ――私バカだから、どれが本当か区別がつかないよ。

 お土産物の棚を蹴るのはダメ。だけど私が怒らせてしまったから、って信じてたのに。


 嘘を吐くんだと思ったら、身体が震える。いつまた、あの怖い声で呼び止められるか。あの足が私を踏みつけるか。

 光の届かない暗がりが怖い。目の向いていない、背中が怖い。


 ――氷水、冷たかったよね。

 コップにいっぱいの水を浴びて、年末の夜道を帰る。想像しただけでも鳥肌が立った。

 昨日は取り乱して、空上さんに謝れなかった。あの人がまたタクシー代を出してくれたのも、見ていたのに。


 心のどこかで、私でなくて良かったと思ってる。私のせいで迷惑をかけたとも考えてるのに。

 なんて身勝手なんだろう。


【春野まひる】お仕事終わった。今から駅に行くとこ


 歩き出せなくて、なんとなくスマホを出した。自然に指がRINEを開いて、気づくと真由美にメッセージを送ってた。

 何かあったら、真由美に分かってもらえるかなと。


 ――何か、って何。

 自分の妄想に、背すじがゾッとした。思わずぐるっと回って、そこらじゅうを見る。


「ねえ、もう最終?」

「まだだけど、早く帰りたい!」


 目の前を二人、スーツ姿の女性が駅へ走った。あっちはヒール、私はスニーカー。今だと覚悟を決め、私も冷たい夜の道を走り始めた。


 *


 聞き慣れた音楽で、目を覚ました。毎朝七時に設定してる、スマホのアラームだ。

 でも。たしかに目を開けたのに、辺りが暗い。瞬間に身体が強張らせ、記憶を辿ってみる。


 ――ゆうべ家に帰っ、たっけ?

 寝呆けた頭が、曖昧な返答しかしない。同時に動かした両眼のほうが、正確な答えを教えてくれた。

 布団の中だ。


 炭焼きの臭いを跳ね除けると、やっぱり私のベッドの上。ゆうべ家に帰って、不安だったから真由美とRINEをしたんだった。


【真由美】おーい、寝たのかー


 十五分くらいのやり取りの後、私が寝落ちした証拠も残ってた。おやすみのスタンプが、何十個も連続で送られてる。

 悪いなと思いつつニッフィーの、おやすみなさいのスタンプを返した。

 すると十秒くらいで反応があった。


【真由美】今から寝るのかw

【春野まひる】寝落ちごめんね

【真由美】いいよ


 ゆうべの続きを話したい。陵さんに、どんな気持ちでいればいいのか。もう一度信用して、仲直りできるか。

 真由美の答えは分かってる。やめとけって考えてる。でも彼女はそんなことを、ゆうべ一度も言わなかった。


 お付き合いを始めたころの陵さんは優しかった。と言えば、今とどっちが本物と思う? って。

 あの時はたまたまで、きちんと話せばなんとか。と言えば、どうしてそこまで信じられるの? って。

 私の考えを聞いてくれて、頭ごなしに結論を決めようとはしなかった。


【春野まひる】忙しいのにごめんね、支度頑張って

【真由美】ありー


 真由美は今日もお仕事のはず。お昼からだけど、朝は彼氏さんが出勤する。

 アレ呼ばわりでも、朝ご飯とお弁当を作ってあげてるらしい。だから邪魔しないよう、お話を終えた。


 ――今日、何しよう。

 見なくても覚えていたけど、念のためにシフト表を出す。と、やっぱり私はお休みになってた。

 真由美以外のお友だちも、みんなお仕事だろう。こういう時は、行ったことのない洋菓子屋さんを探すことが多い。


 だけどそんな気分になれなかった。

 窓を見ると、薄っぺらいピンクのカーテンを陽射しが抜けた。普段は全開にしたくなるのに、今はむしろ隙間を塞ぎたい。


「ふーー」


 胸のもやもやを細く吐き出す。ため息じゃないと自分に言い張って。

 髪がなびいて、煙臭い。

 よし、お風呂に入ろう。着替えとタオルを抱え、先に冷蔵庫を開けてみた。居酒屋さんでもらったお肉以外に、野菜や飲み物もある。


 ――今日は引き篭もろ。

 そう決めると、少し。胸の奥が軽くなった。


 *


 スマホでゲームをしても、テレビを見ても、すぐつまらないと感じた。

 何かないかなって、製菓学校の教科書を開く。するとほんの一年前を「懐かしいな」なんて。

 それでも三十分くらいで閉じた。どれか作ろうとも思わなかった。こんな気持ちでやっても、ろくなことにならない。


 ベッドに消臭スプレーをしたから、ゴロゴロもできなかった。クッションを抱えて悩んでいると、ふと思いつく。

 スマホの動画サイトで、キャンプ、お菓子作りと入力してみる。


 ――あ、意外とたくさんある。

 中には本格的過ぎて、屋外でやる必要ある? と突っ込みたくなるのも。

 だけど思った通り、フライパン一つでできるケーキなんかを作ってた。


 薄力粉とバターと卵とミルク。どこのおうちにもあるような材料ばかりで、手間も手順もかからない。

 いくつか作ってみようかなって、これなら思えた。


 一人でも食べきれるくらい、ちょっとずつ。と思いながら何種類も作ったら、空いたお皿がなくなった。時刻も午後六時を過ぎて、こんなにお菓子作りをしたのは久しぶり。


 一つ、つまみ食い。ざっくり素朴な歯ごたえに、当たり前だけど小麦粉とバターの香り。これを焚き火にあたって食べたら、もっとおいしいに違いない。

 紅茶でも淹れて、ゆっくり食べよう。ケトルの蓋を開けた時、インターホンが鳴った。


「はい」


 カメラがないので、無言では対応できない。ひと言だけ返事をしたのに、誰の声もしなかった。


 ――陵さん?

 すぐに思った。

 お母さんや宅配の人なら、必ず何か言う。真由美のはずはないし、他に私の家を訪ねてくる心当たりがない。


 いや、でも。部屋番号を間違えただけかも。

 私の住むアパートは古いながら、建物の入り口にオートロックが備わってる。お客さんは用のある部屋の番号を入力し、インターホンを鳴らす。


 思った通り、もう呼び出されることはなかった。おどかさないでと思いつつ、お湯を沸かし始めた。

 すぐに、しゅんしゅんと湯気が噴く。IHの電源をピッと消すと、どこかで音がした。


 カタン、と。金属の何かを動かす感じ。

 それはとても近い距離で、たとえば私の家の玄関扉辺り。そこには郵便受けがあって、表側の蓋は金属製だ。

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