第11話:【晴男】だいじ、じゃないけど
午前零時も間近。駅前のバス通りから、路地を五分と少し。また折れて、車のすれ違いも難しい細道へ。
モールス信号で解読できそうな、明滅する街灯。他にこれって灯りはなく、人の姿も見えない。
およそ二十歩。道路から直に、階段へ足をかける。工事現場の足場みたいな、元が何色だったか分からないグレーチングの。
どれだけ気を遣っても、安くて硬い靴底が音を立てた。
二階に上がり、格子付きの磨りガラスとベニヤの扉を三セット通り過ぎる。いちばん奥の扉に空上と、サインペンで書いた名札が見えた。
鍵なんか使わなくても、たぶん力任せにガチャガチャやれば開く。もちろん自宅にそんなことしないけど。
「あら、お帰りハレくん。今日はまた遅くなったねえ」
玄関なんて高尚な物はない。板張りのダイニング――いや台所の角が欠けていて、そこが靴を脱ぐ場所。
安靴をつまんで持ち上げると、奥に二つある襖の一方が開いた。明るい部屋から出てくるシルエットは、母さんだ。
「ああ、うん。ただいま」
「あら――ハレくん、濡れてるんじゃない? どしたの、タオル持ってくるさ」
「いやいい。すぐ風呂に入るし」
痩せた身体に地味なパジャマを着た母さんは、断ったのも構わず洗面台へ向かった。
突っ張り棒で作ったタオル置き場から、バスタオルを持ってくる。そんな物で拭くほどは、もう濡れてない。
おそらく水を含んだダウンが、光って見えるからだ。
「だいじ?」
「大丈夫、大丈夫」
受け取るだけ受け取って、自分の部屋の襖を開ける。
拭かなくて大丈夫か。どうしてそんなことになったのか。きっと聞きたいのは気づかないふりで、襖を閉めた。
心配してくれるのはありがたい。でも歳下の女の子と食事して、水を引っ掛けられた。なんて、穏便な説明をする自信がなかった。
面倒と言ったら親不孝だろうけど、母さんの心配性を発揮させるのは避けたい。
「そうそうハレくん。富士山のお菓子、おいしいわあ。これ、お礼しなきゃねえ」
襖の向こうで、嬉しそうな声がする。母さんのことだ、部屋に戻ってお菓子の箱を持ってきてる。
靴と上着を棚に置いて、下着を持って、再び台所へ。ほら、やっぱりだ。
「いや、だから。取引先の人が処分に困った不良品なの。お礼なんかしたら、むしろ先方を困らせるの」
「あーね。そしたらよろしく言っといて」
件の菓子のうち、包装の完全に破れた物は台所のテーブルに置いている。どんな言いわけをくっつけても、他人にあげられない。
八箱か九箱あったと思うが、今は五箱になっていた。
「うん、その話になったらね」
納得したのか、母さんは自分の部屋に引っ込む。襖が閉じて、何やらドラマのセリフが聞こえ始めた。DVDで海外ドラマを見るのが、唯一の趣味だ。
――寂しいんだろうな。
まだ俺が小学生の時、父さんが交通事故で死んだ。住んでいたのは同じこのアパート。母さんは働いてなかった。
それが近所の保育園へ、パートに出始めた。だから保険金なんかは、まともに貰えなかったんだろう。
――俺が居なくなるとか、これ以上の親不孝があるか?
結婚したり、幸福な話で家を出るのとは全く違う。思い留まって良かったと思う。
洗面台の前で服を脱ぎ、風呂へ。湯船から掬った湯を、頭からかぶる。
温い。というか冷たい。
――いや結婚としたって、母さん一人でやっていけないよな。
バランス釜に火を点け、湯に浸かった。いい湯とは反対の意味で「うぁぁぁ」と声が漏れる。
「俺の給料じゃなあ」
母さん自身に収入があって、今の俺は家賃と食費を出している。
でもそれが家を分けて二世帯となると、さすがに賄えない。そして母さんも、いずれは働けなくなる。
でも先の話をすると、いつも「だいじ」だ。俺には何でも口出しせずにいられないくせに、母さん自身のことは話を逸らす。
結婚の予定もないし、成り行き任せでいいのかもしれない。
――そういえば。まひるちゃん、無事に帰ったかな。
だいじ。は大丈夫ってことだが、あの二人は大丈夫だろうか。
品下くんが去って、まひるちゃんは泣き始めた。「どうして?」と繰り返しながら。
俺にはかけられる言葉がなく、してあげられることもなかった。だから真由美ちゃんに謝って、タクシーに乗るまでを見送った。
謝られる理由がないと言ってもらったものの、自分が情けない。ずっと震えが止まらなかった。
――まあ、もう会うこともないか。
温まった表面の湯で顔をすすぎ、バランス釜を止めた。
*
翌日。二十七日のシフトも、朝九時からだった。
しかしそれでは開店準備が間に合わないので、八時前に出勤する。以前。あの日の前は、さらに一時間早かった。
なんというか、吹っ切れた。店長に何を言われたとしても、死ぬよりはましだ。また耐えきれなくなったら、「向いてないから辞めます」と言えばいい。
今となっては、どうして
「何考えてんだ空上。
俺はフロア担当の社員。レジ業務と、問い合わせの取りまとめ。それ以外に、お客さまの動線管理も。
つまり精肉とか青果とか、部門で分けられない仕事の全部だ。これには入り口の、目玉商品の売り場も含まれた。
ほぼ毎日企画が変わり、陳列に使う什器を入れ替えたり飾り付けたりする。
「どうにかしてみます」
「おう、どうにかしろ」
どうとでもしてやるぜ、任せろ。
と言ったつもりはない。どうにかなるようにする、と答えただけだ。
どんなに気合いを入れても、開店後のお客さまの動き次第ではまた変更する。それなら最初から、動かすのを前提にしたほうがいい。
どう受け取ったか、店長はあちこち視線を走らせながら去った。
それから夕方までに、最重要の赤丸が付いた商品は九割方売れた。赤丸なしの重要商品は半分くらいだったから、Sランク勝利を逃してAランク勝利ってところ。
そもそも商品を用意するのは俺じゃなく、菓子担当や
――これで文句があるなら、自分でやってくれ。
と身勝手に開き直れるのは、品下くんの影響だろうか。
午後六時を過ぎ、しばらく見ていたが特に問題もなさそうだった。昨日よりも早く、六時半に退勤の打刻をした。
売り場を出る時に店長の視線を感じたが、気づかないふりで。
今日もまた、夜の食事会だ。
集合は午後七時のはずだけど、もう店の前に田中さんが待っていた。
「早いですね」
「何言ってんの、空上さんが最後よ」
「えっ、マジですか」
「うん。みんな来てる」
声をかけて参加できると答えたのは、八人と聞いた。一人につき三千円のコースらしいから、二万七千円か。
限度額までおろした現金からすれば、微々たる額だ。
――来れなかった人には、また何かあげればいいや。
迷惑をかけたパートさんたちへ、せめて罪滅ぼしに。田中さんに背中を押され、上品な赤い壁の店内へ足を踏み入れた。
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