第10話:【まひる】震えていても

 知り合いの居酒屋さんを出て、小路を歩いた。日曜だからか、昨日より人通りの少ない気がする。

 それでもあちこち、賑やかな声が聞こえるけど。


 売れ残りのケーキや誰かへのプレゼントを抱えた人も、昨日は見かけた。でも今日は居ない。

 寒そうに背中を丸めた人たちを見て、年末だなあって思う。


 向かって来る人と、お見合いになった。

 私の足下が危ういのは、いつも一杯のお酒をお代わりしたから。なんだかおいしくて、つい。

 すれ違った風が、氷で撫でられたみたい。おかげでかなり醒めてきた。


「にゃははは。まひる、しっかりー」


 支えてくれる真由美の声で、耳がキンとなった。空上さんが変な人と感じたら、きっとこんなになってない。

 私を助けてくれた人だから、変なはずもないか。良かった、って。私がほっとするのは、おかしいのかな。


「すみません、これで」


 と。空上さんがタクシーを止めて、料金まで先払いしてくれてる。運転手さんも受け取ってて、遠慮するタイミングがなかった。


 ――次の時、何かで返さなきゃ。

 と思ったけど、次なんかないことに気付いた。私はお金を返すのと、改めてお礼をしに来た。空上さんは、それを受け取りに来た。

 それだけ。


 この人のお話、もうちょっと聞いてみたいな。なんて、今日もペラペラのダウンを眺める。

 そうしたら、忘れ物が自分の手にあると思い出した。


「空上さん空上さん!」

「はい、なんでしょう」


 声量の調整がうまくいかない。まあ、聞こえないよりはいいや。なんでしょうって、スーパーでの接客はこんなかなと笑っちゃう。


「これ忘れてました!」


 消臭のスプレーをした、空上さんの上着。これを着れば、きっと寒くない。サイズの合わない私でさえ、とっても暖かかった。


「嵩張るのに、悪いね。ありがとう」


 良くしてもらったのは私なのに。「悪いね」なんて、どうして言ってくれるのかな。「ありがとう」も、私こそどれだけ言っても足らないのに。


 ――そうだ。どんないいことか、まだ聞けてない。

 今からじゃなくても、また聞かせてとお願いするのは良くないのかな。


「お礼を言うのは私のほうです!」


 だからまた追加でお礼の機会を。って、それはさすがにおかしい。

 続ける言葉が見つからなくて、空上さんの手に押されるまま、タクシーに乗ろうとした。


「おいっ!」


 びくっと、背中が固まった。

 誰かが怒鳴ってる。怒ってる。目の前を流れる車の音より、周りを歩く何十人の誰より。尖った大きな声が突き刺さる。


 ――陵さん?

 自信はなかった。だけど振り返れば、やっぱり。

 私たちと違う方向から、彼はやって来た。つかつか、のしのし。右足と左足を競争させるみたいに。


 振り上げられた手が、ひゅっと伸びる。言葉の通り鷲づかみに、私の手首が握られた。


「今日は俺が帰ってくるの知ってるだろ!」


 思わず耳に、指を突っ込んだ。きゅっと首も、勝手に竦む。


「ど、どうしたの。陵さん、どうしてそんなに怒ってるの」


 知ってると言われても。たしかに、日曜まで実家へ居るとは聞いたけど。それからのことは聞いてないし、会いに来るとも思わなかった。


「せっかくRINEしてやったのに。こんなとこで何してんだ!」

「えっ、RINE?」


 腕を引き寄せ、のしかかるように。彼の顔が真上に思えた。

 片手でバッグを探り、スマホを取り出す。冷たい手で、操作がうまくいかない。


「ちょっとあんた、うちの子に何してんの」


 私の腕をつかんだままの、陵さんの手。そのまた上を、真由美がつかむ。


「ああっ? ――ああ、真由美さんか」

「真由美さんか、じゃない。いきなり何してくれてんの。周り、見てみなよ」


 クイッと、真由美のあごが動く。促されて陵さんだけじゃなく、私も見た。

 広くもない歩道を、私たちが通せんぼしてる。何人かはすぐ傍で止まって、訝しい顔で覗き込む。


 少し離れた所でも、見ている人が。スマホを向け、撮影してるっぽい姿まで。

 陵さんの目が右から左、左から右。何度か往復して、最後に舌打ちした。ゆっくり、私の手首に血が通っていく。


「あの。時間とらせてすみません、乗れなくなったみたいなんで」

「大丈夫? 警察呼ぼうか?」


 待たせていたタクシーの運転手さんに、空上さんは謝った。白髪だらけのおじさんは心配そうに、空上さんと私を見比べる。


「……ええと、何とかなると思います。ご迷惑おかけしました」


 空上さんの視線が順番に。真由美と私と、陵さんを見た。

 私はどんな顔をしてたかな。分からないけど、正面から見返すことができない。

 陵さんはまた舌打ちして、走り去るタクシーに頭を下げた空上さんを睨みつける。


「おい。お前、この前の奴だろ」

「え、ええと。話は移動してからにする? また通報されそうだし」


 こっちへ向いた空上さんに、すぐ陵さんは言った。でも目を合わせてもらえなくて、イライラと頭を掻きむしる。

 怖くて俯いた私の目に、震える空上さんの脚が見えた。


 *


「どうしたいわけ?」


 四人掛けのテーブルに、私と空上さん。真由美と陵さんが並んで座る。五分くらい歩いた喫茶店は、お酒も飲める大人なお店だった。


「なんでこいつが、そこに座ってるんだ」


 真由美はたぶん、いきなり現れてどうしたいかと聞いた。けど陵さんは、空上さんに指を突きつける。


「こいつって失礼。あんたが壊した物の弁償をしてくれた人よ」

「俺が壊した?」


 四つ頼んだコーヒーは、まだ来てない。陵さんはお冷やを飲み干して、何の話だ? って顔をした。


「二日前のこと、もう忘れたの」

「……ああ」

「ああ、じゃない。店を壊すほど暴れて、まひるを置き去りにして。今からでも警察に行く?」


 思い出してくれたみたい。気まずそうに、陵さんはまたコップを傾けた。中身がなくて、小さな氷を噛み砕く。


「それを全部、この人が助けてくれたの。あんたはお礼を言っても足りないの。それを何? まひるが浮気でもしてると思った? それが本当でも、あんたに文句を言う資格はないけどね」


 さっきまで酔っ払ってたのが嘘みたいに。厳しい真由美の言葉が続く。


「あんたに紹介する時、言ったよね。まひるを泣かせたら許さないって。冗談だと思ってた?」

「泣かせてないし」

「はあぁ?」


 私はぼうっと、お風呂でのぼせたみたいだった。吐き気がして、くらくらして。何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。


「あの。二人とも、落ち着いて」

「お前に言われる筋合いはない」


 真由美に押され気味の陵さんが、空上さんには強い態度で返す。

 ずっと歳上なのは見て分かると思うけど、関係ないみたい。震えてる空上さんの手を見て、鼻を鳴らした。


「俺の勘違いって言うなら信じてもいい。けど、それは何だよ」


 空上さんが床に置いた紙袋を、陵さんは指さした。私が借りて、今日返したばかりの上着を。

 私がプレゼントでもしたと思ったのかな。それでヤキモチを妬いたのかな。

 ずっと返事がなくて嫌われたと思っていたけど、それは違ったらしい。


「ああ、これ? おととい、春野さんが寒そうにしてたから。今日、お金と一緒に返してくれたんだよ」


 濃い緑色の上着。真新しいけど、値札や包装はない。空上さんが出して見せて、陵さんは「ふん」とだけ答えた。


「じゃあなんで返事しないんだよ」

「えっ。返事、あっ、RINE」


 さっき言われて、結局まだ見てなかった。ポケットから慌てて取り出してみる。


【品下陵】今日も仕事か? 店に行く


 一時間くらい前に来てた。たぶん居酒屋さんで話してた時。


「ご、ごめんなさい。話してて、気づかなかったみたい」

「俺からの着信より楽しかったってことだろ?」

「そんなこと……」

「そんなこと、なんだよ」


 謝りたいのに、どう言えばいいのか。なかったことを責められても、ごめんなさい以外がない。


「この貧乏臭いオッサンのほうがいいんだろ? ホソタに勤めてる俺より。ほら、何か言えよ」


 空上さんは関係ない。私に腹が立つなら、私のことだけ言えばいい。

 そう思うのに、口が動かなかった。


「あの、やめ――」

「やめて? やっぱり後ろめたいんだろ」


 やっと絞り出した声も、先回りされる。

 なんでこうなるんだろう。ずっと優しかった陵さんが、あの日からすっかり変わって見えた。


「いい加減にしてよ。まひるがどう答えても、もうあんたと付き合わすつもりはないから」

「え。いや、それは――そんなの、まひるが決めることだろ。幼なじみでも、そこまで」


 陵さんとの仲を認めない。真由美に言われて、そんなと思った。私だけに言うならともかく、彼に直接聞かせたら取り返しがつかないかも。


「いやほんと、あたしには分かんない。そこまでまひるをボロカスに言って。まだ付き合えると思ってんの?」

「俺は本当のことを言ってやってるだけだ」

「言ってやってる? キモいよ、もう消えてくれない」


 やめて。真由美と陵さんと、二人が言い争うのを見たくない。心の中で、何十回も繰り返した。

 だけど声にしなきゃ伝わらない。吹雪の中へ居るみたいに、喉が震える。それを両手で温めながら、声をねじり出す。


「や、やめて。お願い」

「うるせえ!」


 怒鳴り声で、店が静まった。しばらくBGMの音楽だけが聞こえて、陵さんは知らんぷりで窓の外を見る。

 やがて元通りになったけど、その間空上さんがあちこちに向けて頭を下げていた。


「とにかく――」


 注目の薄まったのを見計らい、陵さんはさっきより抑えた声で言った。彼の出した人さし指は、私に向いている。

 ただその先を、空上さんの手が塞ぐ。


「そう人に指を向けるもんじゃないよ」

「なんだ? お前に言われる筋合いはないって、言ったよな」


 陵さんの手が、真由美のコップを取った。あっ、と思う間もなく動いて、中身が空上さんにかかる。


「空上さん、大変!」

「ああ、大丈夫。慣れてる」


 そんなはずないのに、私がハンカチを出そうとするのも止められた。

 空上さんの指は店内に向けられ、騒ぐと迷惑だからと言っている。


「俺はバカにされるの慣れてるけど、女の子にはね。それに君も、嘘を元に威張るのつらいだろ?」

「はあ? 嘘ってなんだよ」


 隣に座る空上さんの、手と足が震えてる。対面の陵さんには見えないように、必死でテーブルに隠して。


「ホソタの、なんていう部署? 本社なんだっけ」

「なんでおま、お前に言わなきゃいけ――ダメなんだよ」

「言ってもいいだろ。この二人だって、知りたいと思うよ」


 嘘を吐いてる。それが勤め先のことと。言われた陵さんは、言葉をつかえさせた。その態度が示すのは、指摘が本当だから。

 別にどこに勤めていても、陵さんがどんな人かに関係ない。だけど、そんなすぐに分かることで見栄を張っていたのかな。


「……デザインの企画担当だよ」


 私と真由美と。空上さんの言う通りに、陵さんを見つめた。すると彼は、仕方なしの感じで答える。


「デザインの企画担当。分かった、明日電話してみる。そう言えば君に繋がるんだよね」


 ――お願い、どうぞと答えて。

 黙ってしまった彼から、そんな答えは出てこない。分かっていてもしばらく、私は願い続けた。

 けど。次に陵さんが言ったのは、全然違うこと。


「俺は今、まひるのことを話してるんだ。彼女の心配して、何が悪い」

「もちろん悪くないよ。心配するのはね」


 したたる水を、まだ空上さんは拭いていた。その様子を勝ち誇って、陵さんは見下す。


「まあ今日はいいってことにする。もうまひるに近づくなよ」


 言い捨てて、陵さんは席を立った。コーヒーもまだ来てなくて、お金を払う素振りもない。


「何してんだまひる、行くぞ」


 通路に出た彼の手が、私の肩をつかんだ。だけど、私は立てない。

 ――立ちたくない。


「ごめんなさい」

「だから今日のことは――」

「ううん。陵さんの傍に居る自信、ないの。だから、ごめんなさい」


 ひと言ずつ、震える声をどうにか聞こえるように。でもたぶん聞き取れたはず。

 頭を下げた私に、陵さんの姿は見えなかった。でもしばらくして顔を上げると、彼は居なくなっていた。

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