第8話:【まひる】犬とウサギ
色んなことがあった次の日。私は八玉子駅に居た。朝起きてすぐ、真由美に誘われたから。
【真由美】今日のこと今日でごめん。ゆうべの件、会って話さない?
彼女が急な予定を立てるのは珍し――くない。私の都合が合わなかったら、砂浜の波より早く引っ込むけど。
お昼の十二時ごろ。と、ちょっと曖昧な約束。必ず私が先に着いても、十分以上待たされた記憶はない。
「お待たせー」
なんて言いながら、北口の高架広場に上がってくる。
昨日の雨はやんで、空は雲が八割くらい。ラズベリーブリッジ、だったかな。白い高架橋の湿った床に、赤いコートが眩しい。
「はい、こっちですよー」
ベリーショートの、薄っすらピンクっぽい髪。私より十五センチも高くて、目の前でターンするのがモデルさんみたいと思う。
まあ耳にぴったり腕を上げて、手首だけぴこぴこと動かすのが台なしだけど。
「連絡あった? ないでしょ」
「う、うん。ない」
ちょっと歩いて連れて来られたのは、パン屋さん。ここは前にも来たことがある。
ふわっふわ・ぶらんじぇり、という名前。赤白チェックの内装。店名通りに、ふわふわのパン。どれもこれも可愛い。
「アレに聞いたらさ。学部は同じでよく顔を合わせたけど、仲が良かったわけでもないって。ふざけてるよね」
「ああ、そうなんだ。でも誰も悪くないし、ね?」
彼氏さんはまだ、アレ呼ばわりらしい。遠回しにやめてあげてと言ったけど、真由美はぶんぶんと横に首を振り回す。
「悪いの。よく知ってるって言うから信用して、あんたを紹介したのに。適当なこと言って、まひるを危ない目に遭わせたの許せない。でも信用したあたしが、もっと悪い」
洗濯の匂いがするテーブルクロスに、真由美は額をぶつけた。震えたコップを、私は押さえる。
「悪くないよ、嫌なら断れたんだし。陵さんとお付き合いするのは、私が決めたんだよ」
「百戦錬磨の姐さんが言うんならだけどね。あんた、二人目でしょ。小学校までは含めずに」
「そうだけど、悪くないでしょ」
言ってる真由美は、同棲している彼が一人目だ。高校生からなんだかんだ文句を言いながら、危機らしい気配を感じたことがない。
別にそれを皮肉ったわけじゃなく、誰でもそうだと言ったつもり。お付き合いの人数を、増やせばいいってものでもないでしょと。
だけど彼女はパッと顔を上げて、恨みがましくジロジロ睨む。
「ど、どうしたの」
「悪いよ。あたしが結婚したら、あんたを養女に迎えるの。その時余計なコブは要らない」
「またふざけて」
「ふざけてない。法律の壁が問題なだけ」
泣きべそっぽく、眉を寄せる。分かってる、こうして心配の気持ちを見せてくれてるって。
「法律は問題ない気がする。知らないけど」
「え、ほんと? じゃあ予約ね」
「はいはい」
クスッと、笑わせてもらった。そうしてたら奥の厨房から何か運ばれてきた。
クロスと同じ柄のトレイに、私の顔くらいありそうなクロワッサン。真っ白なお皿にも、ほわほわ湯気の立つのがおいしそう。
「お待たせしました、ふわっふわとろとろです」
「とろとろ?」
このパンがお店の一押しで、ふわっふわという名前なのは知ってる。でもどこを見ても、とろとろ要素がない。
同じのを目の前にした真由美が、わけ知り顔で「お願いします」と。すると店員のお姉さんは、トレイから搾り袋を持ち上げた。
「生クリームをね、今だけかけ放題なんだって」
真っ白なリボンが、三日月に縫い目を付ける。切れ目なく、一本が繋がったまま折り重なっていく。
止めるまで、そのままなんだろう。二往復しても、真由美は口を開かない。
「んー……ストップ!」
三往復半で、やっと。最後に可愛く、角が付けられた。あれ、こんなところにマッターホルンが。
「死ぬ気? って言うか、殺す気なの?」
「あんたは要らないの? なら、すぐに止めればいいんだよ」
「くぅぅぅ」
パンの熱気で、白く尖った山が崩れていく。ゆっくりと、海に落ちる氷河みたい。
「ではこちらも行きますね」
「あっ、はい!」
無慈悲に、店員さんが搾り袋をかざした。答えるとすぐ、またリボンが伸びて落ちる。
一往復。無難なのはこれくらい。でもクロワッサンが大きいから、物足りない感はある。
一往復半――ううん、二往復。慌てて手を出し、声をかける。
「す、ストップで」
「はい、ありがとうございます」
最後に角が付いて、二往復と半分の半分。こんなことなら、昨日のお菓子を真由美に食べさせるんだった。
でもお皿にある以上、粗末にはできない。観念して食べると、バターと生クリームが暴れ回る。
たしかにこれは、ふわっふわとろとろだ。
「あとでドイツパン頼んで、この生クリーム付けて食べるんだよ」
「なにそれ、もう天国だね」
真由美の指さす方向に、ドイツパンと名札の付いた茶色い食パンがあった。ライ麦百パーセントって、おいしそう。
「そういえばね、ゆうべお母さんにも相談したの」
すぐにミルクティーも出てきて、三日月が二日月くらいになった。
もぐもぐしてたら、昨日のことだったと思い出して話を戻す。
「うん、なんて?」
「すぐ返しなさいって、お金貸してくれた。陵さんには、なんでそうなったかよく聞きなさいって」
「ふーん、おばさん凄いね。そんなお金、すぐ出てくるんだ」
そう思う。真由美と会う前に実家へ寄り、受け取ったけど。たぶん朝から銀行へ行ったとかじゃない。
「あたしのことは?」
「陵さんと三人でって」
「だよね。それにおばさん、よく聞けって言ったんでしょ? よく話し合えじゃなく」
「うん。お母さんも、真由美と同じ考えってことだよね」
真由美を信用してないわけじゃない。
むしろお母さんとどっちを頼るのかって聞かれたら、答えに困るくらいだ。私の中で、どっちが上でも下でもなかった。
「おばさんと意見が合うのも珍しいけど、これは当たり前」
「そっか――でもそういうの苦手だな」
二人が口を揃えて、陵さんが悪いと言う。原因は私と思うんだけど、どうも関係ないらしい。
それなら言われた通りにしなきゃ。どうして棚を蹴ったのか、どうして私を置いて行ったのか。気が重いけど、聞かなきゃ。
「あたしが聞くから大丈夫。聞くだけじゃなくって、お金も出させないと」
「えっ、それも?」
「あ、た、り、ま、え」
フォークに刺したパンが五回、私のお皿から生クリームを奪った。それはもちろん真由美の口へ運ばれる。
「奴の予定は分かんないんでしょ。またRINEしてさ、会える日決めて。あたしの予定はシフト表通りでいいから」
「なんて言おう」
「んん? 何にもなかった感じで、次はいつ会えるかでいいよ。謝ったらダメだよ」
「やってみる……」
難しいならあたしが、とも言ってくれた。でも自分のことだ、頑張ると断った。
「そういえば、おじさんは? さすがにそんな話聞いたら、怒ったんじゃない?」
「え、どうだろ。今日もお仕事に行ってたし。なんか今は、北海道で頭がいっぱいみたい」
「また旅行? おおらかなのか適当なのか。おじさんらしいけど」
小さな設計事務所を経営してるお父さん。お母さんも事務員で、共働きと言うんだろうか。
他人の家ばかり建てて。と、お母さんは笑う。私の上にお兄ちゃん、下に弟が二人。六人で三部屋の家に住んでいたから。
貧乏ということも、きっとない。お兄ちゃんと私が家を出るのに、学費や引越し代は心配するなとお父さんは言った。
でもお兄ちゃんが自分で賄ったから、私も真似した。今は同じ家に四人暮らし、高校生の双子はどうするのかな。
「あ、そうだ。空上さんだっけ、その人の日程もだね」
「うん。連絡してみる」
「どんな人?」
どんな。
うーん。と思い出す間に、真由美はドイツパンを注文した。私はまだ、ふわっふわを食べきってないんだけど。
「わんちゃんみたいだった。大きくなくて、小さい子」
「子って」
「私が行くとこ、黙って着いてきてくれるんだもん。たぶん誰かに注意するのとか苦手なんだよ、震えてた。でも私を心配して、着いてきてくれるの」
暖かい上着も返さないと。クリーニングまでするなって言われたから、リセッチュかな。
「ふーん、何歳?」
「三十歳は超えてると思うけど、聞いてない。どうして?」
「いや、なんでも。範囲外だなと思っただけ」
「範囲外って何が」
首を傾げ、「ん?」と。紅茶を口に入れた真由美は、ワインみたいに中で転がす。
そうしてるとドイツパンがやってきて、やっと飲み込む音がした。口をゆすいだみたいで、なんか汚い。
「あんた猫派でしょ」
素手で千切ったあつあつパンで、テーブルに載せていた私のハンカチを示す。隅にニッフィーの刺繍が入った、お気に入りの。
「関係あるの? それにこれはウサギです」
「ないね、言ってみただけ。まああたしはいつでもいいから、連絡お願い」
「はーい」
話すべきことはだいたい話して、それからすぐ解散とはならない。空上さんにRINEのメッセージを送ったあと、アルバイトの時間まで、ぶらぶら歩き回った。
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