第二幕:だいじなものは?
第7話:【晴男】これから、どうすれば
「何考えてんだ、空上……」
スーパーマーケット、アルファス。あひるの店には、事務所と呼べるだけの独立した部屋がない。
搬入された荷物を置くバックスペースの端を、パーテーションで区切っているだけだ。
たった二つの事務机がL字に並べられ、
今はパソコンから目を逸らし、後ろへ直立の俺に振り返る。
「すみませんでした」
深々と、身体を二つに折るつもりで頭を下げた。
既に、午前十一時過ぎ。朝一番に顔を合わせた時は、何も言われなかった。
盛大な舌打ちが聞こえたし、ひと言どころでなく十言も二十言も噛み潰したのは明白だったが。
それがついさっき、開店前後の荷受けと品出しが落ち着き「ちょっと」と呼び出された。
でも最初の決まり文句に、お説教が続かない。いつもなら、よくそれだけと感心するくらいの語彙で怒鳴られる。
もう頭を上げてもいいだろうか。空気が変わらないので、タイミングが分からない。
L字の横棒に座る事務担当の女性が、無言でキーボードを叩き続ける。デタラメを打ってるだけでしょ、と言いたくなるような速度で。
「休憩入りまーす」
売り場に通じるドアが開いて、パートの女性が入ってくる。にこやかだったのが、すぐに重い空気を察して真顔になった。
そそくさと小走りで、荷置きスペース側へ向かう。そこにまた、長机を置いた休憩スペースが区切られている。
「頭、上げろ」
猪口店長は「すうぅっ」と聞こえるくらいに大きく息を吸って、「ぶふうっ」と唾を飛ばしながら息を吐いた。
従うといつの間にか、まっすぐ俺に向いていた。
「昨日は急病だった」
「え?」
「ほとんど気絶って感じで、電話もできなかった」
「いえ、あの――」
突然、誰の話か戸惑う。目の前で話す俺は、富士山付近までドライブに行っただけだ。
「有給の事後申請、出しとけ。お前に無断欠勤とかさせちゃ、こっちが困るんだ」
「あ、ああ――分かりました」
「すぐな。ついでにお前、休憩に入れ」
上目遣いにジロッと睨んで、店長はバックから出て行った。「変わらんなあ」と、ぶつぶつ言いながら。
怒鳴られるのとは違う、胃袋の底を溶かすようなダメージがつらい。
空いた椅子に座り、パソコンの決裁画面を立ち上げる。
有給の事後申請には、事後になった理由を記入しなければ。猪口店長の言ったシナリオに従い、三分もかからず席を立つ。
――あ、休憩って言われたのか。
ぼんやりそのまま、売り場へ戻るところだった。ふっと思い出し、更衣室に足を向けた。空上と名札の入ったロッカーから弁当を取り出し、休憩スペースへ。
先に休憩していたパートさんが、苦笑めいた表情で会釈する。たぶんそれがこの人なりの「ご苦労さま、ゆっくり休んで」だろう。
俺も真似て、首をひょこっと動かす。空いている七つのパイプ椅子の、どれに座るか考えながら。
「休憩入りまーす」
また別の女性の声。パートリーダーの田中さんだ。たしか一回りくらい年上で、この店の在籍は俺より長い。
「あっ、空上さん。おつー」
「お疲れさまです、田中さん」
二つ並べた長机が、二列。先に居た女性は奥に居て、田中さんは迷うことなくその隣に座った。
「ねえねえ、プレゼントって何にした?」
「うちはもう、適当にセーターとか」
同年代同士。田中さんは気さくに問い、相手もミートボールを咀嚼しながら答えた。
邪魔してもなと思い、俺はいちばん手前の椅子に触れる。
「空上さん、なーにやってんの。ここでしょ、ここ」
「えっ、はあ」
すぐさま、田中さんの咎める声。と言っても冗談ぽく、対面の椅子を指さしながら。
仕事でもサッサッと判断の早い人だ、逆らえない。いや意地悪な人ではまったくなく、頼りにしてるけど。
「今日もお母さんのお弁当? 凄いよねえ、ずっと作ってくれてるんでしょ」
「ええ、まあ。三十も過ぎて、恥ずかしいんですけど」
指定の席に座り、高校生から使ってる弁当袋から、同じく青い弁当箱を出す。当時はこれにおかずだけ入って、ご飯の箱が別にあった。
「そんなことないって。お昼代もバカになんないもん」
「ですね、助かってます」
「だよねー。お母さんに何かあげた?」
「あ、いや思い付かなくて。今日何か買って帰ります」
クリスマスと言えばプレゼント。なんて発想が、今年はなかった。まあ例年、二人暮らしの母親が好きな刺し身を買うくらいだ。
「だね。良かった」
「良かった?」
電気ポットから急須に、お湯が注がれる。それは店の備品だが、緑茶や紅茶のティーバッグは違う。田中さんが毎月、みんなから百円ずつ集めて買った物だ。
俺の弁当を褒めてくれた当人は、うちの店の惣菜と白飯をもぐもぐ。うまそうに次から次へ口へ運び、合間に茶の出具合いをたしかめる。
十回くらいで納得いったのか、湯呑みを三つ取って回し入れ始めた。どうも俺の分もあるらしい。
「あ、すんません」
「プレゼント。普通にあげられる空気なんでしょ?」
三回目くらいの、出がらしの色だった。特に拘りもなく、ありがたく受け取る。
それより同時に言われたのが、なんと答えればいいやら。ともあれ、長机すれすれに頭を下げた。
「ほんと、昨日はすみませんでした。みなさん一人ずつに謝らないとと思うんですが、なかなか」
忙しい時間に、時間をとらせるのは気が引けた。だからそろそろ、手の空いている人を見つけて何か言おうと思っていた。
実際のところ、どんな言葉を? というのが「なかなか」の部分だ。
「店長が言い過ぎだもん、いつもね。みんな分かってるから、気にしない気にしない」
「田中さんね。昨日、店長に直談判したの」
それでこの話は終わり。という匂いをさせて、田中さんはお茶を啜った。
でももう一人の女性が、耳打ちの風に付け加えた。音量はたぶん、事務担当の人にも聞こえてる。
「ちょっとやめてよ」
「だって、そこ言わないと何がなんだかでしょ。空上さんに何かあったら、店長が追い詰めたせいだって言ったの」
「ええっ……?」
あの厳しい猪口店長にそんなことを。心底驚く俺を尻目に「もー、言わないでよ」と二人は肩を叩き合い、最後に笑う。
「まあ、そう。あのお客さま、昨日も来てくれたの。あの時の店員さんは? って」
「ええ? わざわざですか」
「普通に買い物して帰ったから、わざわざかは分かんないかな」
七十歳を超えた、おばあちゃん。初めて来てくれた人で、俺はすぐにポイントカードを勧めた。
最近どこもスマホ連動だけど、うちはまだプラスチックのカードだ。だからお年寄りにも、難しいことを覚えてもらう必要がない。
「なんだかね、凄く感動してた」
「え。俺、保険証を返し忘れたんですよ」
免許証でも何でも、コピーしたらすぐに返すのが鉄則。それをうっかり、忘れてしまった。
気付いた時、おばあちゃんはもう店に居なかった。社用の車で自宅に行ったけど、まだ帰っていなかった。
車を置いて歩き回り、店まで戻っても居ない。また自宅へ行っても居ない。
そうだ。と思い付き、経路から外れた公園に行ってみた。するとやっぱり、お仲間とのお喋りに花が咲いていた。
「返し忘れもダメだけど、フォローに時間をかけ過ぎって。店長の言う通りですし」
保険証を返してくると店長に報告してから、戻るまでに二時間以上がかかっていた。返さなきゃと思うばかりで、時間を忘れてたのは言いわけのしようがない。
「ううん、あのおばあちゃん言ってた。『この寒い中、汗だくで。年寄りが病院に行けなかったら困るだろうって。とても嬉しいことを言ってくれた』って」
「そうそう。それに空上さん、『初めて来てくださったお客さまですね』って声かけたんでしょ。いつも思うけど、よく見分けられるよね」
本気で褒められたら、そんなことないと言えたのに。二人ともニヤニヤ、「やるじゃん」と冷やかす。
これじゃあ「勘弁してください」と、ごまかすしかない。
「たまたまですよ。たまたま」
「まあね、ミスが多いのはほんとだし。一人で抱え込むし」
「あははっ――」
田中さんの顔がスッと引き締まり、太い釘を打たれた。痛すぎて咄嗟に、すみませんも言えなかった。
「でも、おばちゃんたちには人気よ。可愛いから」
「おばちゃんたち?」
件のおばあちゃんでなく、おばちゃんとは誰のことだ。しかも複数形で、対象が思い浮かばない。
「何、不満?」
田中さんと二人、おば――
「いえそんな、光栄です。いつも助けてもらってるし、その上。嬉しいです」
「なんだか無理やり言わせてるみたいね」
「ね」
「そんなことないです、ありがとうございます。あ、そうだ。今晩でも明日でもいいんで、飲みに行きませんか。俺持ちで」
鉄壁のチームワークに、もう一度頭を下げた。どうやら俺は、まだここに居てもいいらしい。その形を作ってくれたのは間違いなく田中さんで、ありがたい以外の言葉がなかった。
ただ、俺自身の意思がどうなのか。我ながら、そこのところが見えていない。
今朝。このまま休み続けるか、という選択肢も当然にあった。でも二日続けて、来るのか来ないのか分からない俺の仕事を押し付けるのに寒気がした。
だからいっそ、この人たちに相談してみるのがいいかなと。今思った。
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