第6話:【まひる】私の親友
閉めたドアに背中を預け、大きく息を吐いた。狭い隙間の奥に、広い隙間が見える。私の家だ。
「帰ってこれたぁ……」
怖かった。静岡としか分からないどこかに、どっちを向けば帰れるのか分からない私が一人で。
お店に居た人、怒ってた。壊した物のお金も、全然足らなかった。
力が抜けて、しゃがみ込む。
私が立つだけでいっぱいになる、下足スペース。脇のバッグが壁を引っ掻いた。
――陵さんは、まっすぐ歩けないって笑ってたっけ。
「くちっ!」
そよそよ隙間風。私が風邪をひいたら悲しいと、空上さんが言ってくれた。
猫みたいに、のそのそ。気を付けても、バッグが流しの下をこする。だから途中で、奥に放り投げた。
六畳もない部屋。お母さんの買ってくれたベッドから、毛布を抜き取る。
包まって、床に転がった。シモムラのラグカーペットが、抱えた冷たい空気を私に押し付ける。
あの人が居なかったら、絶対にまだ帰ってない。
スマホで調べて、新幹線には乗れると思う。どこで降りるか、そこからどうやって帰るか、頑張ればできると思う。
「でも、怖かったんだよ」
呟いて、スマホを取り出す。RINEの通知が来てて、すぐに開いた。
【
【真由美】おーい
【真由美】大丈夫? 返事できない感じ?
【真由美】お願い、気付いたらリアクションして。スタンプでいいから
「あ――」
しまった。友だちからのメッセージを既読にした後、返事をしてない。合間に何度か、電話もかかってる。
でも陵さんからのは、一つもなかった。
「……もしもし」
「なに、無事⁉ 生きてる!? ねえちょっと!」
電話をしたら、秒もかからずに出た。焦った声。矢継ぎ早の問いかけ。
あれ、誰か暖房をつけてくれたかな。
「返事してなくてごめんね。でもまだ七時過ぎたとこだよ」
「そうだけど。楽しくて忘れてたとかならいいんだけどさ」
私の声で、一応は安心してくれたみたい。「ふうぅぅ」と、風船の萎むみたいな音が聞こえた。
「うん、大丈夫」
安心したのは私もだ。真由美の声を聞いて、胸の奥につかえた何かが落ちた。だからいつも通り、笑って答えられた。
「……何があった」
「え?」
「何があったかって聞いてんの。あの野郎、何かしやがったね?」
「ないない。何もないよ」
――どうして? なんで分かるの。
私は今、心からほっとしてる。声が変だったのかなと思ったけど、たぶんそれもない。
「なくない。あたしには、品質保証の義務があんの。ちゃんと教えて」
分からない。でも、こうはっきり聞かれると隠すわけにいかなかった。
「うーん、何かしたのは私のほう」
「あんたが? 何したの」
お昼からのことを、残らず話した。私は要点を纏めるのが苦手で、「なんで?」と質問をもらいながら。
「だからね、私が陵さんの予定をちゃんと聞いてなくて。それで色んな人に迷惑を――」
「だあぁぁっ!」
「えっ、どど、どうしたの」
ほとんど話し終わった時、真由美が怒鳴った。怒ったとかじゃなく、なんだろう。気合いを入れた?
「分かった」
「う? うん。だから、そう。空上さんにお礼と、お金を返さなきゃ。それに陵さんにも許してもら――」
「だあっ!」
「えっ、何?」
また。
格闘技の動画でも見てるのかな。そういうのが好きとは知らなかった。
「うん。空上って人には、きちんとしないとね。お金、なるべく早く返さないと。難しいなら、あたしも手伝う」
「お菓子代とガソリン代と、全部で五万円でいいかな? それくらいならあるよ」
製菓学校の時から、月に五千円ずつは貯金してきた。五万円は痛いけど、空上さんにはお世話になった。
だから惜しくない、と言うのも変か。返さない選択肢はないんだから。
「その人、大げさにすると嫌がりそう。だからそれでいいと思う。返しに行く時、あたしも付き添う」
「来てくれるの? うん、いい人だった」
気合いはもう終わったみたい。真由美が「いい」と言ってくれれば、問題ないと確信できる。
「それで真由美、陵さんに謝るのは――」
「だっ!」
「もう、動画まだ続いてたの?」
「動画? いや、だから。なんであんたが謝んのかって」
ああ、真由美も陵さんが悪いって言うのか。それはそうだ、彼女はいつも私の味方をしてくれる。
嬉しいけど、複雑な気分。
「行き先を私が聞き流しちゃったから。名古野って分かってからも、彼の予定に沿えなかったし」
「あのねえ。なんでもかんでも、あれの言うことだけ通さなくていいの。逆にさ、あんたの予定に合わせてくれることあんの?」
言われて、首を傾げる。私に予定なんて、あることのほうが珍しい。
服を買いたいとか漠然としたのは、時々あるけど。いつ、どこのお店に行くとかは真由美が決めてくれる。
「陵さんが楽しいところに、私も行けたら楽しいよ。一緒に居る時は、それが私の予定かな」
「そうなんだよ。あんた、そういう子なんだよ。だからあたしも連れ回しちゃうんだよ」
「うんうん。真由美の連れてってくれるとこ、いつも楽しい。よく知ってるなあって、感心する」
新しいお店とか、穴場の場所とか。どうやって調べてるんだろう。
前に聞いたら、仕事場の人からって言ってたけど。私も居酒屋さんで同じように聞いても、真由美より詳しい人は居なかった。
「そら、あんたを連れてこうって調べて――って、そうじゃなくて。たとえばあたしが誘う時、最初になんて言う?」
「暇で死にそうって」
「そうだけど! 違うよ、あんたの休みの日。予定通りに休みか聞くでしょ」
私たちはアルバイトのシフト表をもらったら、すぐに送り合う。何か変更があったり、他の人と遊ぶのもRINEで話す。
だからお互い、ほとんどの行動を知っている。のに、たしかに必ず「空いてる?」って聞く。
「あんたの時間は、あんたの物なの。あたしに内緒があったっていいし、働く時間はあんたの生活に必要なの。それをどうこうできるのは、あんただけなの」
私のことを思い遣ってくれる。それに文句のつけようがないくらい正しい。
ただ、こうしたいと私が思うのとは違う。
「うん、ありがと。だから困ってるの。私は陵さんの予定に合わせてあげたいし、そうすると居酒屋の店長さんに迷惑かけるし」
「知ってる。でも何回でも、言わずにいられないんだよ」
「あはは、困ったね」
きちんとするには、私が陵さんの話を聞き逃しちゃいけない。でも私はそういう部分で、かなり抜けてる。
本当に困ってしまう。
「ねえ、覚えてる?」
ちょっと黙った後、真由美は聞いた。もちろんこれだけじゃ、なんのことか分からない。だけどたぶん、小っちゃいころの話だ。
「何を?」
「あたしが熱出してさ。四日目くらいかな、治りかけに見舞いに来てくれたの」
「うん、あったね。その次の日、私も熱出ちゃった」
「そうそう。で今度はあたしが行ったら、あんた遊ぼうって言い出して」
覚えてる。真由美は自分の薬を持ってきてくれた。でも、遊ぼうは覚えてない。
「えっ、そんなこと言った?」
「言ったよ、あたしがつまんないのは嫌だって。だからあたし、あんたの好きな本を読んで聞かせてさ。楽しいねって何回も言った。そしたらあんたも、楽しいってはしゃいでた」
それも覚えてない。凄くつらくて、そのわりに早く治った記憶はあるのに。
「次の日あんたケロッとしてた。で、理解した。ああ、あたしが元気にしてたら、この子も元気になるんだって。ほんと、この子バカだって」
「ひどい」
あはははって、バカ笑い。私に負けない大きな声で、いつも真由美は笑い飛ばす。
これを聞いたら、私も必ず笑っちゃう。
「うーん。奴のことはさ、ややこしいから明日にしよ。どうするか、あたしも考えるから」
「う、うん」
「それまで連絡しちゃダメだよ」
有無を言わせない、低い声。でも怖くなんかなくて、なんだか納得させられる。
「ええと、陵さんから連絡があったら?」
「あるわけないでしょ。まあ、もしあったら無視で、先にあたしに言って」
「分かった、やってみる」
早くごめんなさいと言いたい。でもきっと、まだ怒ってる。言う通り、今日や明日には連絡がないかも。
彼に怒鳴られたら何を言えばいいか真っ白になって、ますますイライラさせる。だから時間を置くのがいいんだろう。
「はあ――あんたを紹介したの、一生の不覚だよ。うちのアレにも責任取れって言わなきゃ」
「アレ、って真由美の彼氏さん? ダメだよ、責任なんかないよ」
「いいや、間違いだった。奴を庇うようなこと言ったら、殺す」
「そんなことしちゃダメ!」
オーバーに言ってるのは分かるけど、あの二人にケンカしてほしくない。同棲している部屋に何度かお邪魔したこともある、優しい彼氏さんだ。
「んじゃ、疲れたでしょ。早く寝なさい」
「分かった、お母さん」
「そう思うなら、お母さんの言うこと聞いて」
同い年だけど大人びた真由美は、それで電話を切った。私が笑ってる間に。
――早く寝ろって、まだ七時半にもならないよ。
お風呂に入らなきゃ。晩ご飯、は踏み潰したお菓子でいいか。
ごろっと反対を向いてみたけど、まだ起きたくなかった。だからもう一人、電話をかけてみる。
「もしもし、お母さん? お父さんは?」
「あら、まひる。お父さんは『北海道に行きたい』とか言って、雑誌読んでる。お父さんに用事?」
今度は本物。電話したのはスマホになので、お父さんに用事のはずはない。
ふわあっと、苗字そのままに春の野原みたいな私のお母さん。
「ううん、お母さんに相談。あのね、今日ね――」
真由美により、もう少し要領良く。同じことを話した。
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