第5話:【晴男】じゃあ、またね
――いやあ、怖かった……。
やっぱりケンカなんかするもんじゃない。品下というらしい彼氏くんは、何度か拳を握ってた。
「これ、着て帰ってよ」
とワイルダーで買ったばかりの上着を持つ手が、まだ少し震える。
「あの……」
「ん?」
「えっと、いえ。これ新品ですよね、いいんですか」
ランクロの助手席に、春野さんが座る。一時間ほども駐車してたから、車内は冷え冷えだ。俺とは違う意味で震える彼女に、温まってほしい。
「いいよ。ブランケットとかあれば良かったね」
「いえそんな」
透明な包装を破いて渡し直す。するとようやく、受け取ってくれた。きっちり着込んで、ファスナーも首もとまで。かなり寒かったらしい。
濃緑のフライトジャケットっぽいのが、良く似合う。ちょっと埋もれ気味なのも含めて。
「暖かいです」
「なら良かった。すぐ暖房も効くよ」
彼女の頷くのを合図に、発進させた。忘れ物でもあればすぐ止まれるよう、ゆっくりと。
何を思うのか、春野さんは黙って外を眺めた。たぶんさっきまで居た建物を追ってる。
しかしサービスエリアに置き去りなんて、ヤバイなと思う。何かの罪になるんじゃないか? とさえ。
まあ彼女から言い出さない限り、改めて持ち出す必要もない。となると何を言えばいいやら、話題に困りもするが。
「――名古野が彼の地元で、幼なじみに紹介したいって。向かってたんです」
「え。ああ、うん」
高速の本線に合流してすぐ、春野さん自身が蒸し返した。走る先へ向いた目はぼんやりして、疲れて見える。
「私は草茄市が地元と思ってて、泊まりがけとは思わなくて。二時、三時くらいまでは遊ぶぞって、それは無理って断っちゃったんです。明日は夕方からお仕事で」
たぶん、午前二時だろう。仕事と言ってるし、やっぱり高校生じゃないのか。あの彼氏くんだと、その辺の判断も信用しきれない。
「ああ、あるある。言った言わないって、結局タイミングだよね」
「タイミング、ですか」
「うん。さあ話しますよ、どうぞお話しください。ってお互いの態勢が同時に整うこと、なかなかなくない? よっぽど意識しなきゃ、言ったつもり、聞いたつもりになるもんだよ」
答えると、大きな眼がこっちへ向いた。意識高い系の聞いてますアピールと違う、熱心な眼差しで頷いてくれる。
彼女が聞いてないと言うなら、それは相手の話し方が悪い。もしくは、そもそも言ってない。そんな気がした。
「そう思います。やっぱり私が聞き流しちゃったんだ。陵さんを怒らせて、お店の人に迷惑かけて。空上さんにも」
「いやいや。もうそんなの、どっちが悪いって言い出したらきりがない。と言うか、最後は俺が怒らせたし」
日和見の俺でも、さすがに彼氏くんが悪いとしか思えない。春野さんが何をしたとして、あれはやっちゃダメだ。
自分の彼女を殴ったり、店の物を滅茶苦茶にしたり、ほっぽり出して逃げたり。あれ、に該当する行いも多すぎる。
「空上さんは、私を庇ってくれただけです。じゃなかったら、もっとひどいことになってたかも」
「いやあ、火に油だったよね。悪かったよ」
庇われた。でなければ、ひどいことになってた。
分かってるんじゃないか、と思っても口にしない。彼氏くんは悪くないと、春野さんは思い込みたいようだから。それをあえて、いいや悪いと言う正義感は俺になかった。
「もう。空上さんは私を助けてくれたんです、褒められてください」
ランクロのエアコンが、一気に室温を上げていく。それで気持ちも解けたのか、春野さんは苦笑した。
「ええっ、叱られた」
「当たり前です。いいことしたのに、謙虚すぎます。ありがとうございました」
「いや照れるから。うん、こっちこそありがと。もういいから」
噴き出して、ますます幼く見えた。笑ってくれたから、頭を下げられたのにも冗談めいて返せたけど。
「そういえば明日仕事って何屋さん? あ、これ雑談ね。聞いて良ければ」
「いいですよ、桜が丘の居酒屋さんです」
「
居酒屋で働けるなら、少なくとも十八歳以上だ。年齢確認を完了して、口からは別の言葉を吐く。
「あっ、うるさいですか? 友だちにもよく言われます、声が大きいって」
下がった眉が真ん中に寄り、ご丁寧に両手で口を押さえる。どうも気持ちが行動に表れるタイプっぽい。
「いや全然。俺はスーパーの店員なんだけど、お客さんの声が小さいと困るんだよ。レジ袋は要るのか要らないのかって。ここだけの話ね」
「ええっ、どこのか聞いてもいいですか?」
驚くのも、両手を広げて見せる。こういう子が居酒屋に居ると、オッサン客に人気だろう。朗らかだし、保育士とかも合ってそう。
「アルファスだよ。あひるの支店」
「えーっ! 八玉子に、いっぱいあるじゃないですか。でもあひるののは行ったことないんです」
「それは残念」
「残念そうじゃないです」
「あははっ、恥ずかしいじゃん」
口を尖らせ、拗ねてますと。察しの悪い俺でも、こういう子なら会話になるようだ。
「今度行きます」
「いつでも」
「そっか、正社員さんですよね。やっぱりアルバイトと違いますね」
「んん?」
長い袖から出ない春野さんの手が、ぽんぽんとダッシュボードを叩く。それからぐるっと首を巡らせ、ランクロの中を見回した。
――違うって、収入の話か?
「まあ、多少はねえ」
「陵さんも、ホソタに勤めてるんです。私と五つ違いなのに、車とか持てて。私も頑張らないと」
両腕にガッツポーズを作りつつ、頬も膨らむ。奮起するのはいいと思うが、俺に関しては勘違いしてる。
ただ、それ以上に気になることがあった。
「ホソタ? どっかの販売店かな」
「本社みたいです。南青山の」
「へえ、さすが大手。連休が長いの、うらやましい」
「ですねえ。三日までだから、十一連休かな」
「うわ、凄いね」
指折り数えた彼女に、俺も驚いたとわざとらしく。だけど笑ってくれた。彼氏くんを褒められたと思って、嬉しいんだろう。
いや本当にうらやましい。嘘でなければ。
自動車メーカーが大型連休なのは、まあ分かる。しかし普通、明日からじゃないか?
クリスマスイブだからって、金曜日から冬休みに突入するものか。しかも流通の止まる工場でなく、本社ときた。
「でも空上さんも連休なんでしょ?」
「ん、なんで?」
「だって後ろにあるの、キャンプの道具ですよね。あっ、これから予定があったんじゃ……」
振り返った春野さんは、気付いた事実に顔を歪める。なんだかこういうおもちゃみたいで、面白くなってきた。
「そうなんだけど、初挑戦なの。最初が雨の中ってハードル高いから、諦めた」
「それは残念でしたね――触ってもいいですか?」
「いいよ」
自分の希望が叶わなかったみたいに、悲しんでくれる。すぐ後ろに置いていた小物を取って、興味深げに眺め回す。
可愛い子だ。十八歳としたら、俺の子どもには少し大きいか。なにより母親の当てが、生まれてこのかたないのが悲しい。
「カラフルなロープですね。キャンプで何に使うんだろ」
専用のリールに巻かれた、蛍光オレンジのロープ。いきなり本命を持ち出されて、言葉に詰まった。
「――テント、張るのとか」
「へえ。難しそうです」
「夜にさ、ロープが見えないと危ないでしょ。だから派手な色してるんだって」
「あっ、なるほど」
春野さんなりに、気を遣ってくれてるのかもだ。道具の一つずつ、何かしら質問してくる。
ペグを打つハンマーなんて、普通にある金づちとほとんど変わらないのに。
それでも話題が尽きれば、今度は彼女の家族について。一人暮らしだが、実家はすぐ近くとか。きょうだいが多いとか。
問いかけに答えたり、クイズ形式だったり。何を話題にするか、俺が考える時間は皆無だ。
退屈しないどころか、高尾山インターチェンジを降りて八玉子に入った時、「早っ」と呟いた。もちろん運転した時間が縮んだわけじゃなく。
「本当に助かりました。また連絡させてください。この上着、お返ししないと」
「別に返さなくてもいいよ」
「そんなの私が困ります」
「うーん。じゃあ、クリーニングとかしないでいいから。俺が困るから」
西八玉子駅近くのコンビニに着いたのは、午後六時を過ぎていた。銀の針みたいな雨が、まばらに落ちる。
「傘、買って帰るんだよ」
「もう走っても濡れませんよ」
「いいから。ここまで来て風邪ひかれたら、悲しいし」
小さな手に高速代のお釣りをねじ込み、手を振った。困ったなって顔で、春野さんは車を降りる。
「じゃあ、またね」
「本当に、本当に、ありがとうございました。絶対お礼しますから」
「気にしないでって」
ドアを閉める前に、深々と。たっぷり何十秒も、彼女の頭が下がる。
「やめてやめて。春野さん、恥ずかしい」
「あはっ。無理です、感謝してるんです」
一つ意地悪っぽく笑って、ドアが閉められた。「また」と顔の前で手を振った春野さんは、コンビニの中へ。
これで出てくる時にまだ居たら、ストーカーみたいだ。慌てず急いで、ランクロを動かした。
――ありがとうって。それは俺のセリフだよ、きっと。
彼女の消えたコンビニの灯りをミラーに映し、ため息を吐く。引っかかった信号で、後ろのロープを手に取る。
「二度と東京には戻らない、だったんだよ」
ロープの先をくるくるっと、首に巻きつけてみた。
――またこれから樹海へ?
春野さんの真似をして、ルームミラーに問いかける。しかし問題がまずいらしく、即答できなかった。
信号が変わり、巻いたロープを引っ張って外した。しゅるしゅると、ナイロンの表皮が首すじを走る。
「熱っ!」
火傷したっぽい。やれやれ、自分のバカさ加減にどっと疲れた。でもおかげで、どうするかも決まった。
――今日はやめとこ。
金曜の、クリスマスイブの混み合う夜道を。俺はランクロを走らせる。
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