第4話:【まひる】とてもいい人
「はあ? 売り場がなんだよ」
怖い。
チクチク。イライラ。陵さんの声が。
「言われても、なんだか分からないんだろ? じゃあ無茶しないでくれ」
痛い。
誰かの背中で目の前が塞がって、陵さんの手が引き剥がされた。
ビリッと、本当に何か千切れたみたいに。
「なんだよ突然。急に出てきて、なんだってんだよ」
「なんでもいい、ここは買い物するところなんだ。元気が余ってるなら、そこの山にでも登ってくれないか」
「はあぁ?」
怒ってる。今まででいちばんに。ごめんなさいって謝りたい。
でも私からは、彼が見えない。上も下も真っ黒な誰か。私を庇ってくれてるの? でも謝らなきゃ。
「陵さん――」
「ハッ、わけ分かんねえ!」
座ってしまってた台から降りて、顔を覗かせる。だけど陵さんは、もうそこに居なかった。
自動ドアが滑らかに開き、彼は出て行く。ズシンズシンと、地響きを立てるようにして。
「陵さん!」
追わなきゃ。怒らせたのは私だもの、謝らなきゃ。
踏み出した足の下で、何か壊れる嫌な音がした。思わず目を瞑って、おそるおそる見下ろす。
富士山の写真が入ったお菓子の箱を、完全に踏み潰してた。それだけじゃなく、床に散らばったのが何十個も。
お店の商品をこんなにして、頭が真っ白。すみません、ごめんなさいって、それだけがぐるぐる回る。
でも声が出ない、首を締められてるみたいに。
「……通報したほうがいいわよね」
――通報って、おまわりさん?
私のせいで、陵さんが捕まってしまう。それはダメ、と。思った途端、喉が通る。
「ごめんなさい。私が悪いんです!」
「ええ? あなたは悪くないでしょ」
レジの人だと思う。中年の女性が「ねえ」と、隣の人に同意を求めた。白い制服を着た、CAさんみたいな女性もうんうんと頷く。
二人だけじゃなく、私の周りに十人くらいが囲んでた。サービスエリアの人も、他のお客さんも。
みんな怒ってる。怖い顔で、陵さんの出て行ったほうを睨んでる。
「ええっと、あの……」
何かすればいいのかな。もっと謝ればいいのかな。足がガクガク。もうどうしていいか、全然分からない。
「あの、怪我はないですか」
「えっ。あ、えと、はい」
上下真っ黒の人が振り向いた。私よりだいぶん高い位置にあった目が、すすっと低くなる。
男の人だ。正面になった顔が、心配そうにあちこち向く。たぶん背中とかお尻とか、脚とか。
「あっ、ごめんね。これセクハラだね」
伸びかけていた手が、サッと引っ込む。その先を見れば、私の袖に埃が付いていた。なのに男の人は生真面目な感じで、頭まで下げる。
「い、いえ。大丈夫です、痛くないです。それより、彼は悪くないんです。私が怒らせちゃって」
「悪くない? ええとさっきの、彼氏さん?」
「そうなんです」
驚いた風に、目が丸くなった。やっぱりこの人も、陵さんが悪いと思ってる。「そうかあ」と出口を見ながら、次に何を言うんだろう。
お願いだから、彼を責めないで。
「分かった。でも商品がさ、ダメになっちゃってるから」
「だからそれは」
「うん、大丈夫。全部俺が買い取るから」
「えっ?」
――買い取るって何を?
ああ、そうだ。壊れたお菓子は、弁償しなきゃ。でもそれを、どうしてこの人が?
関係ないのにと考えるうち、男の人はお菓子を集め始めた。
「彼氏さん、悪くないそうなんで。なかったことにしていただけませんか。棚とかも壊れてたら、俺に言ってください」
「はあ、いいんですか? あなたもいいの? あんなひどい人、庇わなくても……」
店員さんたちは、いいのかなと迷うように顔を見合わせた。でも取りあえず、一緒にお菓子を拾ったり棚を戻したりし始める。
「すみません、私も」
「大丈夫? どこか痛むんなら、座ってて」
「平気です。というか、お金も私が」
「うーん。まあ、まず片付けてみようよ」
その人はたぶん、笑おうとした。とても不器用に口角を上げようと、眉尻を下げようとした。
「すみません」
謝って、私も近くにしゃがんだ。すると口から、ほうっと息が溢れる。
その次に吸った息は、胸いっぱいに染み込むみたいだった。苦しかったのに、どんどん楽になっていく。
すみませんじゃなく、ありがとうだった。
*
「すみません。必ず返します」
二十分くらいで、元通りになった。棚は壊れてなくて、責任者という男性も「なかったことに」と言ってくれた。
でもお菓子の買い取りが四万円を超えた。私の財布では全然足らなくて、黒い服の人に借りるしかなかった。
「気にしなくていいよ。今日は俺の使いたいように使うって決めたの。俺が食いたいって思ったの」
「三十箱もあるのに……」
フードコートのテーブルに、お菓子の山ができた。ただ落ちただけのは構わないと言ってもらえて、箱が歪んだりした物を。私が踏み潰したのは、私の手に。
「まあまあ。それより彼氏さん、戻ってこないね」
「あっ」
「駐車場、行ってみる?」
「は、はい。こんなに待たせちゃって」
幼なじみとの約束に遅れると、陵さんは急いでた。それなのに、ここへ来てからと考えれば三十分くらい経つ。
しかも今、言われるまで私は忘れてた。
自動ドアを出ると、黒い服の人も着いてきてくれた。走る私の後を離れて、ゆっくり歩いて。
いつの間に。
しとしと雨が降り始めてた。慌てた私の足下で、泥水が撥ねる。ベージュのスニーカーが小さく、でも真っ黒に汚れた。
いやそんなことより、陵さんに謝らないと。駐車した位置へ向かう、けど途中で私は足を止める。
車があるはずの辺りに、赤い色はなかった。
――移動したのかな。
そんなことをする理由がない。のに、駐車場の全部を見渡してみる。赤い車があれば目を凝らして、陵さんを探す。
でもやっぱり、二度繰り返しても、彼の車は見つからない。
「あー。彼氏さん、急ぎだったかな。取りあえず濡れるから、中に戻ろうよ」
二歩後ろで、黒い服の人が言った。怒鳴るでも、イライラと声を低めるでもなく。
「ええと……」
「いやその格好だとさ、寒いでしょ」
「それは別に」
言いかけて気付いた。すぐに建物に入るからと、コートを脱いだままだった。ついでに傘も、陵さんが持っていった。
「俺も寒いし。これ、ぺらっぺらなの」
黒い服。言う通りにぺちゃんこのダウンをめくって、ひらひら振る。
下に白いワイシャツが見えて、お葬式の帰りかな。それなら上もきちんとするはずだけど、変な人だ。
ちょっと面白いと思った。噴き出しはしなかったけど、震えてた足は治った。
「あの、ありがとうございます。そういえば、お名前聞いてもいいですか」
「教える教える。だから中に入ろう」
息の白さが濃くなった。この人が震えるのも、わざとじゃないみたい。薄着に気付いて、私もぶるぶる。
「空上晴男っていうの。晴れ晴れしすぎてて草、って笑われるんだけど」
「そんなこと。晴れ男って書くんですか? 素敵な名前と思います」
「え、そう? 実際は晴れ男じゃないけど」
お菓子の席に戻ってきた。空上さんは、暗くなった出口に指を向ける。
「私、春野まひるです。晴れ男じゃなくても、空上さんはいい人です。人を見る目には、自信があります」
「えっ、そう? そんなこと言われたら照れるけど」
言うわりに全然照れてなさそうに、空上さんは目を逸らした。何かと思って私も向くと、柱にポスターが貼ってある。
「春野さん、昼飯食った?」
「いえ、まだです。ここに来たのも、ご飯食べようって」
「俺もまだなんだけど、あれ食ってみない? 凄いうまそう」
「ええ、おいしそうですけど――」
イクラとかエビとか、豪華な具材がきらきら。おいしいに決まってるけど、千八百円と値段も豪華。
――三日分を一食で食べられないよ。
「私はいいので」
と、ポスターから目を戻した。でも隣に座ってたはずの空上さんが居ない。
あれ? と見回せば、もう食券の自動販売機の前だ。まさかと思って駆け寄った時には、もう海鮮丼の食券が二枚出ていた。
「うわ、うまいね」
「おいしいです――後でお金払います」
観念して、出来たての海鮮丼をいただいた。ホタテの貝柱が、するする解けてなくなる。
「本当にいいんだって。それより春野さん、どこに住んでんの? いや変な意味じゃないよ、どうやって帰るのかと思って」
「
高速道路って、歩いて外に出られるのかな。新幹線の駅まで、バスとかあるのかな。
コンシェルジュと書かれた窓口に、白い制服の女性が居る。あの人に聞けば分かるかもしれない。
「うーん。もし良かったら、だけど。俺が送ろうか? 八玉子の駅とか、都合のいいとこまで行くけど」
どうしよう。正直な気持ちは、とても助かる。お金がどうこうの前に、知らない場所から一人で帰るのは怖かった。
だけど選択肢がもう一つ、目の前をちらちらよぎった。
スマホを取り出し、RINEを開く。でも、陵さんからのメッセージはない。
一緒にお買い物へ行った友だちから、楽しんでる? なんて来てたりして。どうにも言葉が出てこない。
「すみません、お願いできますか。ガソリン代とか、お支払いするので」
「だからそういうのは大丈夫だって。八玉子なら、俺もあひるの市で隣だし」
良かった。それならお礼をするのにも困らなそう。
空上さんを信用していいのか、は悩まなかった。だってこの人は、私のお願いを聞いてくれた。
陵さんを責めないでって。それからひと言も、悪く言わずにいてくれる。
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