さよなら、ソフィスティケイテッドされた助骨
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久しぶりに訪れた部室からは、私の嗅いだことのない臭いがした。
誰かが煙草でも吸っていたのだろうか。けれど、そんなことはどうだって良かった。
扉を開けた私の顔を、部員たちが一斉に睨んだ。その、侮蔑や恨みや、私への見下しが含まれた視線を感じると、私はつい立ち止まってしまう。
その理由は明確だった。私がこの間、彼女たちが聞いているところで、こいつらをバカにしたからだった。切羽詰まっていたとはいえ、軽率だったとは思う。紗良が止めてくれたっていうのに、こいつらはそういう部分だけを、ナメクジが這った痕みたいに覚えているようだった。
無視して私は、広くは内部室の、空いている席に向かった。どうでもいい、と割り切ってしまえば、私に対する当たりの悪さなんて、もはやどうだってよかった。
そうだ。どうだっていい。
こんな奴らと、一緒になんてされたくなかったのは、私の願いだったではないか。一時的にでも受け入れられて、のぼせ上がっていた時代は、私の人生に於ける恥部でしかないはずだ。
席について、スマートフォンをいじった。いつも持ってきていたギターなんて、しばらく触っていない。今頃は部屋の隅で、埃を被っているだろう。あの日以来、どうしてもギターなんて下らないものを、触る気にはなれなかった。
それでも、何にも興味を持てないという状況が、こんなに苦しいとは思わなかった。
少し寒い。暖房が効いていない。窓は半分、カーテンが引かれていた。もう十一月だった。私が、あの部屋で小麦粉を撒いた日から、しばらくの月日が流れていた。何もしていないので、死ぬ直前までの時間のように、無駄に長く感じていた。
人の話し声が、防音室から聞こえる下手な練習の音と同時に、耳に入ってきた。私を見下す連中が、私のことをバカにしているのか。そんな疑念だけが浮かんでくる。怒って立ち上がる勇気すら無かったし、本当に私の悪口を言っているのかわからない。ただただ人の笑い声が、不快で仕方がなかった。
帰りたかった。帰りたい家もないのに、ここから出たい。
なんで部室に顔を見せたのだろう。私はひどい後悔に押しつぶされた。誰に頼まれたわけでも、練習があるわけでもなかった。最近は、ほとんど部活動は休んでいたが、たまに顔を出さないと、本格的に私の居場所が無くなる気がしたから、気まぐれで訪れただけにすぎない。
部室に、私の友達は誰もいなかった。紗良も、美保子も、由麻も今はいない。せめて彼女たちがいてくれれば暇を潰すことも出来た。ここにいてもいいという理由になったのに、これでは餓死する寸前みたいな気分だ。
その彼女たちも、私がこんな扱いを受けていることに対するフォローを、特にしてくれているわけでもない。その事実を目の当たりにすると、妙な悲しみが胸の内からこぼれ落ちた。
部長の由麻が、なにか言ってくれれば良いのに。
紗良がなにか言ってくれれば良いのに。
美保子もなにかすれば良いのに。
そこに至るまでの考えを、私はここ数週間で千回も走らせた。結論はいつも同じだった。
――お前なんかを救う価値がない。
顔を伏せた。耳を塞いだ。音楽を聴く気にもなれなかった。
それでも、背中にずっとスポットライトを浴びせられて、毛穴の一つ一つまで観察されているんじゃないかという不快感を、晴らすことが出来なかった。
見るな。
私をバカにするな。
黙れ。
私はお前たちとは違う。
でも、
私を受け入れてくれた時に、どうして嬉しさを覚えてしまったのだろうか。
助けてほしい。でも、こんなに辛いのに、本当に頼る人もいなくなってしまった。
せれな先生とは、未だに連絡を取っていない。
「奈津乃。起きなさいよ」
いつの間にかうたた寝をしていた私の耳元に、声が響く。誰だろうと一瞬だけ考えた。けれど、声の質や、そもそも私の邪魔をして起こすような距離感の人間は、一人しかいなかった。
「……由麻」
私は顔を上げて、心配そうに私を見下ろしている、ジャズ研究部部長の中兼由麻を認めた。
いつもと同じ、手間を掛けて仕上げていそうな、巻いた髪。そして部分部分が赤い、なんだかドレスみたいに派手な服装だった。この女は、いつも変わった格好をしている気がするのだけれど、もう慣れてしまったのか、おかしいとも似合っているとも思わなかった。
部員も少なくなっている。ばらばらに並べられた椅子には、嫌な思い出だけが乗っている。奴らは、ほとんど帰ってしまったのだろうか。それとも私を置いて、何処かへ行ってしまったのだろうか。文化祭が近いから、根を詰めて貸しスタジオにでも消えたのかも知れない。
それはこの女も同じなのに、練習もしないで、どうして私に話しかけているんだろう。
「おはよう。この間の私達の演奏、どうだった? そういえば感想、あなたからまだ聞けてなかったわ」
その話をされるまで、記憶から消えていた。由麻には悪いけれど、思い出したくもなかったからだった。自分の惨めさを、ただただ突きつけられるだけに終止していた。
先週くらいに、由麻のバンドと後輩のバンドが、大したことのない街のコンサートホールで演奏をすることになった。年に何度かは、ジャズに関するそんな催しがあるらしく、代表者が我がL女子大学ジャズ研究部から二組ほど来て欲しい、と直接依頼に来たという。私は当たり前だけれど、そのときは部活にすら顔を出していなかったし、そんなどころではなかった。
由麻は部長だから当然だとしても、後の一組は、どうも私のバンドだったようだが、あんなことがあって私のバンドに対する熱意が全て燃え尽きてしまっていたために、その次に有望だった後輩に出演してもらう手はずになった。そういう風に、私の知らないところで話がまとまっていた。
そのコンサートは、立地的には遠かったけれど、由麻が呼ぶならということで、紗良や美保子と一緒に見に行った。けれど、始まって数分したところで、いたたまれないほど悲しくなってしまい、私は演奏を聞いているふりをしながら、早く終わってくれとずっと両手を重ねて祈っていた。
「すごかったわ。完璧だった」
まるで覚えていない演奏内容を、適当に褒めちぎると、嘘だっていうのに由麻は、何処か顔を赤くして照れた。
「……私は、練習通りに粛々とこなしただけよ。でもありがとう」由麻は言いながら他所を向いた。「でも、もっと上手い人っていっぱいいたでしょ。奈津乃がいたら、私なんて評価すらされてなかったんじゃないかって、思ってるわよ」
「それは言いすぎよ」
私は笑った。自虐的な意味合いで笑ったのに、愛想笑いにしか、捉えてもらえなさそうだった。
由麻はこんなに頑張っているのに、私は何をやってるんだろう。埃を被ったギターが、毎朝私を追い詰めるみたいに、視界に飛び込んでくる。その光景を、一日中ずっと、気が狂うまで思い出している。
私は、左手をこすった。
「私が呼ばれたって、ひどい失敗をしてるだけよ」
「奈津乃なら……大丈夫よ」
「私のことは、私が一番わかってるわ」
由麻から目をそらせた。
今日はなんだか、彼女の服装が妙なくらいに目に痛かった。
翌日だった。今日は部活をサボろうと決めていた日だったのだけれど、文化祭を前にして部室の片付けをするから、奈津乃も来て欲しい、と由麻に呼び出された。
まあ友人である由麻部長の頼みであれば断れないのだけれど、文化祭の出し物も聞いていない私からすれば、なんで手伝わないといけないのだろうという思いしか無かった。それでも私は、バカ正直に部室へ向かった。
部室では、名前も知らない部員が数名と、中兼由麻が集まっているに過ぎなかった。文化祭の準備だというのだから、部員全員が集まっていてもおかしくないと覚悟を決めてきたのに、これでは拍子抜けと言うか、騙されたような気分だった。
私くらいしか、使える人間がいなかったのか。由麻の顔を見ると、彼女は舌を出して私に可愛らしく謝った。
部員たちは、部屋の隅に置かれた段ボール箱を物色していた。そういえば、そんなものが昔から置かれていたような気がするが、触ってはいけないものだと認識していたのか、中身を見たことも動かしたこともなかった。
他の場所すら片付いていないのに、どうしてそんなところばかりに注力するのか、私には理解できなかった。由麻に尋ねて、私は別の、防音室の近くに散らかっている備品などを手にとって動かし始めた。どの程度片付ければ良いのかすら、私にはわからなかったけれど。
「なんだろうこれ」
と部員の一人が声を上げた。さっきから彼女たちは、箱の中身を机の上にフリーマーケットでも開くみたいにして並べていた。それでは余計に散らかしているだけだ、と私は思っていた。
彼女が手に持っていたのは、なんの変哲もないCDだった。販売されているものではなく、個人の家で好きなデータを入れて焼いたものだった。如何にも古臭そうで、ところどころ黄ばんでいた。再生できるのかどうかも、一見しただけではわからなかった。
そもそもその箱はなんなのだろう。よく目を凝らしてみる。そこには、「船元 私物」と書かれていた。あの顧問が、雑にそんなところに押し込めているから、私達の仕事が増えているのかと憤りを覚えた。
「船元先生のじゃないの」由麻がそのCDを、摘んで眺めながら言う。「普通の音楽CDみたいだけど。手書きでバンド名が書いてあるわ。テレパスだって。聞いたことある?」
「無いよ」女生徒が首を振った。「気になっただけだよ。文字が書かれたビデオテープとか、部長も気になるでしょ?」
女がよくわからないことを言っていると、隣で箱を整理していた別の女が口を開いた。
「テレパスって言った?」顔を、由麻の方に向けた。「そのバンドならここにもあるよ」
彼女が箱から持ち上げたのは、別のCD。今度は市販されていてきちんとしたパッケージに入っているものだった。よく見えないけれど、さほど格好良くもないジャケットデザインをしているようだった。ここからでは、ジャンルもよくわからなかった。
由麻がそのふたつを、両手に持って見比べる。やがて、唸りながら言う。
「このふたつ、全く同じ物みたいね。誰かにあげるために焼いたのかしら」
「船元先生、そんな友達とかいるの?」
「いるでしょそりゃ……。でも、誰かにあげるためのCDが、どうしてここにあるのかしら」由麻は首をかしげる。「そして、どうしてこんな箱の中に突っ込んであったのか」
箱の中身が広げられている机の上を観察する。大昔の雑誌や、使わなくなったような楽譜、教材。カセットテープ。古くなったイヤフォン、マイク。明らかに船元にとって、必要のなくなった物ばかりがそこにあった。それらと一緒に押し込められていたそのCDに対して、船元はどういう感情を抱いているのか、勝手に考えたってわかるものでもなかった。
「確かに、気になるわね、これ。船元先生が入れ込んでいた、謎のバンドのアルバムっていうのが」由麻が興味深そうに言う。「バージョンが違うのかしら。それで内容に差があるとか……。聴いてみましょうか、これ」
「お、部長。わかってくれる?」嬉しそうに女が答えた。「ならもっと人を集めてみんなで聴いてみようよ。船元先生の秘密みたいで面白いじゃない?」
「ああ、良いわねそれ」
由麻も乗った。それから、私の方に近づいてきて、肩をたたいて話しかける。
「ねえ、奈津乃も聴いていかない? 気になるでしょ」
「別に……興味ないわ」
ただ同じCDが二枚あるだけという以上の意味を、私は感じ取れなかった。
「紗良も美保子も呼ぶから。彼女たち、この後暇みたいだし」
「……どうでもいいわ」
早く家に帰りたかった。いや、家になんて帰りたくない。何もしたくなかった。いつも学校から出ると、ただただレコードショップや本屋などを回って時間を潰しているに過ぎなかった。家に帰る頃には、すでに咎められるような時間になっているが、母親も諦めたように、最近では小言一つ言わなくなっていた。
それでも由麻に説得されて、CDを一緒に聴くことになってしまった。
私は長い溜め息を吐いた。こんなに、ストレスを感じるのはなぜだろう。
紗良と美保子が現れると、必然的にバンドの話になった。
私のせいで何も出来ていないことを申し訳なく思いながらも、こんな状態を理由に活動を再開するという選択肢は、頭の何処にもないというのもまた事実だった。
他のバンドが、防音室を使っている様子をずっと眺めている今では、なおさらそう思う。私なんかが、私達なんかが演奏しなくたって良いじゃないか。
「奈津乃、そろそろバンドやらない?」他のバンドとも掛け持ちしている紗良が、私に直接そんなことを投げかけてくるのは、もう何度目だろうか。「やっぱり奈津乃のギターで演奏したいし、美保子だって、ドラムを叩きたいでしょ?」
「そうよ」美保子が頷いて同意する。「家だと、あんまり練習もできないもの。スタジオでも行く?」
私は、座らないで立ったまま話している彼女たちから目を背けて、つぶやくように言う。腰掛けて、身を丸くしながら。
「…………ごめん、まだ無理」
「しょうがないなあ、奈津乃は」と紗良が笑いながら口にした。「先生にふられたのが、そんなに利いたの?」
口を結んで紗良を睨んだ。彼女はばつが悪そうに軽く謝る。
「でも、レッスンっていつかは再開するんでしょ」美保子が他人事のように尋ねる。
「それはそうだけど……」私は痛みを堪えるような顔をしながら、口を開く。「まだなんの連絡もないわ……しょうがないわ、私が、こんなだから……」
防音室から音が漏れている。扉をきちんと閉めていないからだった。けれど誰もそれを注意せずに、むしろ流れてくる練習の音を、採点するような面持ちで聴いていた。
今入っているのは、後輩のバンドだったか。
「上手いね、彼女たち」紗良が感嘆と一緒に漏らした。「外のコンサートで聴いたよね、奈津乃も」
「……あんなに上手かったっけ」
酷く輝いて見えた。その技量は、私なんかをいつでも刺し殺せるようにと磨かれた刃先に似ていた。
しんどい。呼吸をすることすら疲れる。
ここにいたくないのに。
「まあ、あのコンサートの時からそんなに変わってはいないかな」紗良がすらすらと答えた。「ここで満足しちゃわないと良いけど。それより他のバンドも、あいつらに対抗してずっと上手くなってるんだよね」
そうか。
私だけが、
「私だけが取り残されてるのかしら」
「それは……」
「きっと…………もう、目も当てられないくらい、落ちぶれているのよ。指だって、少しも動かなくなってるに決まってるわ……」
耳は、簡単には塞げないから嫌いだった。
奴らの練習が一通り終わって、ようやく例のCDを聴いてみようという話になった。片付けのときには殆どいなかった部員が、いつの間にか揃っていた。
窓の外を見ると、既に夕暮れが近くなっていた。
由麻が、教卓の上に置いたCDプレイヤーにセットする。このプレイヤー自体も結構な年代物だった。もしかすると、これも船元の私物だろうか。あの女は、部室に私物を置く癖を、やめたほうが良い。ただ本体は大きく、それなりに音質も保証されているために、こういう部活動の際には、役に立つことも事実だった。
由麻が再生する前にアルバムの概要を伝えた。船元の私物で、よくわからないバンドだという。ジャケットから推察するに、おそらくはジャズ。中のブックレットは簡素で、知りたい情報が何も載っていない。
どうせ、大したことのないアルバムだろう。私はそう高を括った。消えていったマイナーバンドの中で、本当に優れた作品であれば後年にもう少し発掘されているはずだ。私はプログレでその辺の事情を理解していた。本当に埋もれている作品は、結局その程度の価値しか無いに決まっている。
バンド名はテレパス。一度だって、聞いたことがない。
由麻が再生を始める。中に入れたのは、無性に気になったのか、複製して焼かれたほうのCDだった。部員が行儀よく席についていった。私は窓際の後ろの方で、ぼーっとしていた。
聴こえてくる。そっと、私は耳を傾けてやった。
ジャズだ。
静電気を指先に受けたように、私は目が覚めた。
そこからは、演奏に意識が向いた。
余計な雑念を持つことが、失礼だと思うくらいに、優れた演奏だったからだ。
大きいスピーカーだからだろうか。不思議さを覚えるほどに耳馴染みが良かった。知らないバンドの、しかもジャズなんかを聴いて、そんな感情になることなんて、今まででも一度だって無かったのに。
このバンドは、一体何なんだろう。
編成は、ギターと、ドラムと、ベースと、サックスとトランペット。基本的なメンバー構成だとは思った。
だけど、聞き馴染みの良さは、それだけじゃない。アレンジがどう考えても突出していた。別に、普通のジャズスタンダードだって言うのに、テーマが現れるまで、オリジナル曲だとしか思えなかった。
このバンドには、頭一つ抜けた編曲者がいる。
そう確信してから、編曲者が誰なのかが明らかになるまで、十秒も経たなかった。
ギターソロが、耳に届いたからだった。
数音を聞いただけで、この人がアレンジを受け持っているのだろうと思うほどのアドリブプレイだった。
なんなんだこのフレーズ。
今まで聴いたことがない。
プログレッシブ的だと言ってしまえば簡単だが、そんな言葉では包みきれないほどの卓越した技量と、並ではない知識量と、それらが可能にする大胆な発想力が見て取れた。
すごい。
素直に、私は顔も知らない他人を褒めた。
この奏者を頭の中で捻り潰すという空想なんかでは、到底及ばないと理解していたから、褒めるしか無かった。
俯いた。
自分の惨めさが、更に浮き彫りにされるみたいだった。
曲と曲の合間には、興が削がれるほど無粋な観客の声が聞こえた。ライブ音源だから、当然なのだけれど、それすらも作品の一部のつもりなのだろう。私としては、そんなものは邪魔なだけだったが、あのギタープレイをずっと聴いていると気がおかしくなってしまう気がして、その観客の声が小休止のように感じた。
この客は、どうしてここにいるのか。名も知らないバンドを、なんでこんなところまで追いかけているのか。
今はどうしているのか。
どうやったら、こんなバンドを見つけることが出来るのか。
こんなにすごいギタリストは、今何をしているのか。
知りたいことと知りたくもないことが、同時に浮かび上がった。
「変わったところでのライブね」
由麻が、パッケージを眺めながら、呟いた。私も、似たような疑問を抱く。観客の音声は、ライブハウスのものとは明らかに異質だったからだ。
聞こえるのは、食器の音。
「レストランだってさ」由麻が言った。「私たちの外部演奏会とそんな変わらないところでやってるのね」
「そんなもの、商品として売ってるんですか?」後輩が、由麻に向かって言った。生意気にもこの女は、ギターソロの部分で恍惚とした表情すらも浮かべていた。「ブートレッグかなにかじゃないんですか」
「こっちに正規版があるでしょ」由麻は、手近なところに置いてあったCDを指す。「昔のジャズのライブ盤じゃ、別にそこまで珍しくはないけれど、でもこのアルバムはそこまで古くはないみたいよ。書いてないけど……録音環境から言うと、2000年代中頃くらいかしら」
「部長、聴いた感じでわかるんですか?」
「勘よ」
まだ、食器の音と話し声だけが流れている。曲はまだ始まらなかった。
それにしたって、いくらなんでも長過ぎるような気がした。楽器のチューニングでも合わせているのか、ところどころ小さくギターやトランペットやドラムの音が、聞こえないでもなかった。
まだか。
次を期待している私がいる。
悔しいけれど、もうこのアルバムを、最後まで聴かずには、家に帰ろうだなんて思うことは出来ない。
そこで急に、
悲鳴が聞こえた。
私は驚いてスピーカーの方を向いたけれど、そこからではない。
CDからは、声しか聞こえない。
部員は、私の隣くらいを見ていた。私も従って、自分の横にいる女を横目で見た。同級生だったが、名前も覚えていない女。
「ご、ごめん……」女は汗をかきながら、謝る。「でも……CDから、なんか、声がしなかった?」
「さっきからしてるじゃない」
由麻が呆れた顔を隠さないで言う。言いながら、プレイヤーの再生を止めた。
「聞こえたんだって、変な声が……」
「客がいるんだから、当然でしょ?」
そう言いながら、仕方なさそうに由麻は早戻しボタンを押して、一瞬で離した。それだけでも、一分近く戻っていた。スピーカーの向こうには人間がいるのに、そんなコントロールが効くということ自体が、私には奇妙に思ったがそんなのを考えても意味はなかった。
「何処よ」
「もうすぐ……」
耳を澄ませる。声なんてずっと聴こえているのに、この女は急に何を喚いているのだろう。
私が本気でうんざりする寸前に、彼女の言っている声がなんなのかを理解した。
「これ……」
英語だ。まず始めに感じたことはそれ。
何か英語の文章を、抑揚も少なめにして、薄暗く読んでいる様子が、かすかに聞こえた。
一度認識してしまえば、もう雑音に紛れてもはっきりと聞こえるようになった。さっきまでは、そんな怪人物なんていなかったのに。急に気になりだした前髪みたいに、意識が吸われていく。
「なによこれ」由麻が不思議そうに呟いた。「なんかの文章?」
ただただ淡々と、なんの感情もなく英語が読み上げられている。発音から推測すると、外国人ではない。日本人が、慣れない文章を口にしているに過ぎない。
声のきれいな、女性だった。
「ゆ、幽霊かな……」とさっきの女が、本気で気味が悪そうに口にした。
「幽霊なんか信じてると、バカだと思われるわよ」
由麻はそして、CDを流したまま私の方に近づいてくる。
にっこりと、期待と惰性と叱咤が混じったような顔をして、
「ねえ、奈津乃ならわかるんじゃない?」
と私に告げた。
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