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   □奈津乃


 誰だって良かった。

 疑いをかけられる、適切な容疑者であれば、もはや誰だって良い。なのに、その一人すら私はもう思いつかなかった。

 何が足りないのかもわからない。

 すがるような思いで、私は広場に戻った。すれ違う人間を、睨みつけた。どこかへ行っていた私を、咎めるつもりだった人間も、睨みつければ黙っただろう。

 誰か。

 誰か。

 私の疑いを引き受けてくれる、誰か。

「奈津乃」

 聞き覚えのある声がした。私は、足を止めて、彼女の方を見た。

「……紗良」

「どうしたの、凄い顔してるんだけど……」紗良に顔のことを指摘されると、死にたくなった。「慈光さん、見つけたの?」

 説明した。慈光が、犯人ではなかったと口にすることが、こんなにも苦痛だとは思わなかった。

 だから、誰か怪しい人間を見繕っていたと弁明をした。それを聞いた彼女は、私を憐れむような表情をした。今最も見たくない顔だった。

「なんで、そんなに必死になってるんだよ」

「だって……先生が侮辱されてるのよ」私は、この感謝してもしきれないほど信頼をおいている友人を、殴り倒したくなるような思いを抑え込んで口を開いた。「許せないのよ! この中に、そんなふざけた輩がいるっていうのが、気に入らないのよ! この中の薄汚いバカどもの誰かに決まってるのよ! だからお前たちのことなんか嫌いなのよ! いい加減にしなさいよ!」

 わけもわからず、ほとんど八つ当たりのように私は叫んだ。

 その声が、広場中に響いていた。

 生徒が、薄汚いバカどもが、私を見つめている。

 刺殺されそうな視線が、私に向けられている。

 紗良はそれを察知したらしく、私の手を引っ張って連れ出した。抵抗するつもりもなかった。広場から、あのバカどもから離れたかったのは同じだったからだ。

 別棟の裏。あの教室の、窓の真下あたりで立ち止まった。私達しかいない、殺されても文句も言えないような、人気の薄い場所だった。フェンスの向こうに、気味の悪い森が広がっていた。学校が管理をしているわけでもなさそうだった。

 フェンスにもたれかかって、紗良が言った。

「みんなを敵に回すから、あんまり変なこと言っちゃ、駄目だよ、奈津乃……」

「……だって……あいつらが……」

 私が反論しようとすると、紗良は手のひらを私の口に向けて静止させた。

 悲しそうな、全てを悟ったような目を向けて。

「あの中にいるっていう証拠だって、無いでしょ? そんな程度のことは、今までの謎に対して答えを聞かせてくれた奈津乃なら、わかるよね?」

「…………」

「頷いてよ」

 私は、首を一ミリだって動かさないで、黙っていた。

 紗良。

 その答えを聞かせてくれたのは、せれな先生なのよ。

 そう告げてみたくなった。

 自虐願望みたいな欲求を抱えている自分を自覚した。

 ああ、疲れているのかも知れない。



   ■犯人


 あれだけ真っ白だった部屋の一部分が、もう私の手に因って本来の美しさを取り戻している。

 そう、私は掃除に成功した。多少の計算違いはあったけれど、最終的にここまでの状態に帰結したことに対して、私は凄まじい安堵を覚えていた。これで、全てが元通りになる。銀川せれなの授業も中止になっているし、警官も諦めて帰るに決まっていた。

 私は、手に持ったタオルを、鞄に入れて丸めた。

 先程、運動サークルのことを思い出した。あいつらの活動内容から察するに、当然こういったタオルの類が多めに用意されていることだと、思い立ってからは早かった。下の階に降り、テニス部かなにかも部室を開けて、そこに束ねてあったタオルを二枚ほど盗んだ。それだけでは足りないと思って、その隣にあったバスケット部の部室から、さらに二枚、タオルを持ち出した。

 水道もここにあった。私はタオルを濡らして、水滴が垂れないくらいに絞って、慎重に現場まで持って上がった。水を吸ったタオルは、背筋に嫌悪感が走りそうなくらいに、微妙な重みと、なんとも言えない奇妙な感触をしていた。

 現場では、その濡れたタオルを使って、小麦粉を拭った。徒労すら覚えるほど、あっけなく床や机から、小麦粉の跡が消えていった。文字を書いた、赤いペンキはどうなるのだろうと心配はしていたけれど、小麦粉と一緒にあっけなく消えた。

 全てを終えた私は、現場を後にする。

 清々しい。

 こんな気分になんて、もう何年もなったことがなかった。

 このまま、私は黙って粛々と過ごしていれば、全てが丸く収まる。証拠なんてもうどこにもない。犯行の現場すら、もうなくなってしまったのだから。

 口笛を吹きながら、階段を下った。

 そろそろ事情聴取に呼ばれるだろうか。早めに戻ったほうが良い。もしかすれば私が現場を片付けていた間に、私の番が回ってきた可能性だってあったけれど、その時はトイレに行っていたとでも言って、誤魔化せばいい。抜け道を用意していると、私の気がどこまでも大きくなった。

 時計を見て、時間を確認した。

 今は、

 ――十一時。

 現場の発見から、まだ一時間程度しか経っていない。

 事情聴取では、何を喋ろうか。



   □奈津乃


 事情聴取が終わった時に、その異変に警察官が気づいた。

 話を聞き終えると、最後にもう一度現場を確認して、上に報告に戻る、と今坂警官が船元に告げた。その様子を見ると、この男には犯人の目処すら経っていないのかもしれない。それ専門の、もっとプロフェッショナルに続きの捜査を投げるつもりなのだろうか。

 現場へは警官、船元、それにせれな先生が向かった。もちろん、私もせれな先生の側を離れるつもりなんて無かったから、彼女の後について行った。警官は、何も気にしていないのか、私を咎めるようなことも言わなかった。

 けれど、現場には、撒かれていたはずの小麦粉が、綺麗に無くなっていた。

 黒板も、教卓も、机も、白く染まっていたというのに、そういう業者が入ったのかも知れないと思う程に、事件の痕跡が見事なくらいに消え去っていた。

「どういうことだ?」現場に入りもしないで、見下ろしながら今坂警官は、面食らっていた。「くそ……現場に誰か立たせておくんだった。一人で行けると思ったのが間違いだったか……」

「誰かが掃除しちゃったんでしょうか」せれな先生が、被害者の一人のはずなのに、他人事みたいに言う。「美空、何か頼んだ?」

「何もしないわよ!」船元が必死な顔をして言った。「生徒には、全員広場で待っているように伝えたんだから」

 今坂警官が、しばらく頭を掻いていたが、やがて悪巧みを思いついたような顔をして、口を開いた。

「まあ……本人も反省したんでしょうかね」

「反省って……?」船元が首を傾げる。言葉の意味が理解できないというよりは、信じられないという表情だった。

「結局、魔が差してやった悪戯というわけです」今坂は自信がある風にそう語る。「犯人の生徒も、なにも本気でやったわけじゃないんでしょうな。それが警察が来て、怖じ気づいてしまった、と。逮捕なんかしちゃ、可愛そうでしょう」

「は? このまま何もなかったことにしろって言うんですか?」船元は、明らかに怒っていた。「許せませんよ、ガキじゃないんですから、こんなことは、許されないなんて大学生ならわかるでしょ」

「許してあげるのも、大人の特権ってやつですよ」

 それから、今坂からの船元への説教じみた話は続いた。聞かされているうちに、船元も、折れてしまったように、事件のことは不問にすると口にした。

 生徒は開放されて、本来行われるはずだった特別授業は全員が欠席扱いとなった。それで単位を落としてしまったら、どこに訴えればいいのかまるでわからなかった。

 船元は残された雑務に戻り、紗良と美保子は四時間目があったから、それまで時間をつぶすと言っていた。

 昼を過ぎるころに、せれな先生がさっさと帰るというので、私は彼女の隣に立って同行した。私は今日、これ以上授業を受けられるような調子を、保つことは出来ないと判断したからだった。

 先生は難しい顔をしている。

 さっきから何も話さない。

 そういう時の先生は、

 頭の中で何かを繋げ続けている。

 私は、声もかけないで黙っていた。



   ■犯人


 歩く。

 腰の痛くなるような、膝を痛めてしまいそうな下り坂を歩いた。

 掃除機の回収は明日でもいい。急ぐものでもなかった。タオルは、事情聴取前に、付着した小麦粉を洗ってから、トイレのゴミ箱に捨てた。鞄を見せろと言われたって、これで安心だった。

 明日から、いつも通りの日々に戻る。

 何もなかった。銀川せれなの授業がもたらす結果なんてのは、私が潰した。安心して眠れる。

 そのはずだったのに、

 私の隣を歩いていた、

 ――銀川せれなが、突然口を開いた。

「そろそろ、言ってもいいかしら」

 その声は、怒っている。

 彼女の怒りなんて……

「あなたをそんな風に育てた覚えはないわよ」

 睨まれる。

 いやだ。

 そんな目で、私を見ないで欲しい。

 いつもの優しい目つきで、私だけを捉えて欲しいのに。

「ねえ、奈津乃ちゃん」



   □奈津乃


 私をまっすぐに見つめて、いや、睨みながら銀川せれな先生は、私の名前を呼んだ。

「どうして、こんなことをしたの?」

 先生は、立ち止まった。住宅地の間を通る、道路脇のなんでもない歩道だった。ここには何も面白いものなんて無いのに、先生はもう、私と一緒に歩くことを辞めてしまった。

 どうしてと言われても、説明もしたくなかった。

 それに、彼女なら、もう全部わかっているのだろう。どういう道筋でその結論にたどり着いたのかは、予想もできなかったけれど。

 私が黙ったままでいると、先生は呆れたように説明を始めた。

「どうしてわかったのか、教えてあげるわ。私も、自分の考えを信じたくなかったんだけど。まずは容疑者がどの程度なのかを絞ったの。参加者全員を疑わなくちゃいけないなんて、そんな面倒なこともないから。まず、あのペンキの文字に注目したの」

 ――銀川せれなを大学に関わらせるな

 覚えている。そんな文章くらい。

「この文章のおかしなところは一つ。私のフルネームが書かれていることよ。私の下の名前なんて、特別講義案内のプリントには書いてないもの。銀川特別講師とだけしか書いてないし、私が頼んでたの。これは昔からそうしてる。三年前の講義も、外部の仕事も、作曲の依頼を受ける際も。美空も、私のフルネームは普段からあんまり口にしないようにしてたはずよ。つまり、私のフルネームを知っている人間なんていうのは、ごく限られるわけ」

 そんなバカな、と呟きそうになった。

「そうやって絞られた容疑者は、あなた、そして美空。紗良ちゃんと美保子ちゃん。更に付け加えると……中兼由麻さんと、慈光沢美さんも。教員連中も何人かは知っていたみたいだから、とりあえずは容疑者としましょう」

「なんで……」私はたまらず、口を開く。「なんで由麻と慈光まで知ってるんですか」

「それは後で説明してあげるわ」

 先生は腕を組んだ。まだまだ外は明るいと言うのに、その顔だって見えなくなった。

「ここから除外していきましょう。まずは教員連中。彼らは授業中だったから、そんな暇はない。普通に考えれば、生徒なんかよりも、ずっと忙しいでしょうから。美空は動機がないってことで除外できる。教員連中の反対を押し切って私を呼んでおいて、そのうえで中止にするように仕向けるなんて、意味がわからなすぎるわ。今回のことで、彼女の今後も怪しくなったっていうのに」

 一本、指を立てる先生。

「次は生徒のみんな。紗良ちゃんは、教授に呼び出しを食らっていたわね。今日提出のレポートのことだったわよね。昨日から、あんまり寝ないで朝方まで掛かって完成させたって。どんなレポートかは知らないけど、これをやっていたのなら、今朝早くに小麦粉を撒いている時間的な余裕はない。美保子ちゃんもそれに付き合っていたんだから、同様」

「…………」

「次は部長の由麻さん。彼女から聞いたんだけど、今朝、ちょうど犯行時刻の辺りに、改装工事で事故があったことを知っていた。その事故のことを知っているのは、当然、朝にあの時間、大学に来ていたから。でも彼女は、広場でトランペットを吹いていたの。あそこにいれば当然聞こえるし、何より別棟にいると、工事の音なんて何も聞こえないってことを、教えてもらったわ。彼女だけがほとんど唯一、事故のことを知っている、という時点で、彼女が犯人だっていうのはありえないわ」

 あの女。

「慈光沢美さんは、パンを持っていたことから除外できるっていうのは、あなたであれば知っているわよね。あのパンは、朝から並んでいなければ買えないものだから。よって、慈光沢美さんは、犯人ではない。残るは――」

 指が、私を向いた。私の心臓を、見られているような。

「奈津乃ちゃん。あなた、どうしてX教授が来てるって、思い込んでたの?」

「それは……」

「もしかして、朝早くに、大学で彼のスポーツカーを見たんじゃないの?」

「…………」

「確かに彼は、今朝は大学に来ていたようだけど、その後は出掛けているわ。休講の発表が当然出てたのだけれど、みんなそれを見る前に休講だってわかってたみたいだった。それは何故か。登校した時には、赤いスポーツカーなんて止まっていなかったから。小麦粉を撒くために早くに登校して、撒いた後にさっさと学校を出た程度の時間経過では、まだそこに、彼の車は停まっていた。だからあなたは、X教授の授業が、休講であることをしらなかった。私と一緒に登校して、入り口で美空に呼ばれたことから言っても、そのときにX教授の車の有無なんて、確認しようがなかったんでしょうね」

 もう、

 返す言葉もなかった。

「…………………………はい。何もかも、そのとおりなんです」

 俯いたまま、倒れそうだったけれど、なんとかそれだけを呟いた。

「……なんでこんなことしたの? 場合によっては、怒るわよ」

 だって、

「先生を……取られると思ったんです」

 正直に話した。

「取られる?」

「あのバカたちに……先生を、取られたくなかった……私だけの先生でいてほしかったから、です…………」

 奴らの顔が浮かぶ。

 先生は、どうしてそう思うのか、私に尋ねる。

「あいつら…………あいつらのほうが、楽器が上手かったら、勉強もできたら……人柄だってよかったら……私なんか、ダメに見えるじゃないですか」と言う。「先生は、私なんかより、あんな奴らと、もっと親しくなっちゃうかもしれないって思ったら……耐えきれなくて………………耐えきれなかったんです……私には、何の取り柄もない……伸び代もない……だから……先生が、私とサークルの奴らを、比べるのが、嫌だったんです」

 いつの間にか、私は泣いていた。

 涙なんて、もう何年も出ていないのに、胃の中のものを戻すよりは涙のほうが経済的だな、と心の隅で思った。

「それで、授業を中止にしたかったって?」

 先生は、心の底からバカを見るような目で、私を見ているに決まっていた。

「あなた、前から思ってたけど、他人のことを軽蔑しすぎじゃない?」

 ――。

「見下しすぎてるから、彼女らにバカだってレッテルを貼って、安心したいのよ。別に、私があなたの言うバカどもと仲良くなろうと、あなたの先生であることを辞めるつもりなんかないわよ。ふざけないで」

「先生…………」

 手を伸ばそうとした。

 けれど、先生は地面を踏んで、私から一歩分の距離を取って離れた。

「あなた、私を自分だけの先生でいて欲しいと思ってたみたいだけど、そもそも、それが間違いよ。私の生徒だった人は、あなたを除いて以前に二人。現在も、あなたと同じジャズ研に属してる」

「え……」

「それが、中兼由麻さんと、慈光沢美さんよ。彼女たちが、私のフルネームを知っている理由は、ここだわ。彼女たちは、あなたの前に、私の生徒だったの。知ってた? 知りたくもなかった?」

 ふらついた。

 立っている意味なんて、もうない。

 私だけが一番、先生に見込まれていると思っていたし、

 私だけが一番、先生を理解していると思っていたし、

 私の知らない人間が、先生の生徒だったところで、実際のところはどうでもいいと思っていたのに、

「ああ…………」

 どうしてこんなに、気持ちが悪いのか。

 先生は、ゆっくりと、死刑を告げるみたいに言った。

「あなたは……もう少し冷静になったほうがいいわ。しばらく、レッスンはお休みにしましょう」

「そんな…………先生!」

「今日のことは……とにかく、これ以上は言いません。でもあなたは、やりすぎたと思う」

「先生! 待って下さい! 謝りますから! レッスンは! 続けさせて下さいお願いします、先生! 先生……!」

 ほとんど縋るような思いだった。

 私から、先生がいなくなったら、どうやって強くなればいいの。

 ねえ、先生……

「また、時期を見て連絡するわ」

 くるりを、どんな表情をしていたのかもわからないうちに、

 彼女は背中を向けて、私から去っていく。

「先生…………! 私は、駄目なんです! 先生がいないと、勝てないんです! みんなに置いていかれるんです! 惨めな自分を直視したくないんです! 耐えられないんです! 自分が嫌いなんです! 家に帰りたくないんです! 楽器なんて弾きたくないんです! 何者にもなれないんです! 生きてる意味なんて無いんです! 先生………………………………置いていかないで……」

 泣き崩れた。

 もう訳がわからなくなって、泣いた。

 屈むと、空が高くなったように見えた。

 は。

 まるで、死んだ蝉みたいだった。

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