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□奈津乃
私の隣から、せれな先生はいなくなった。
コーヒーを買いに行くと言い残していたのだけれど、それにしては戻るのが遅かった。なにか気になることがあるのだろう。本来は警察がするべき聞き込みを、個人的に行っているのかもしれない。
代わりに、隣には紗良が座っていた。彼女も、恐怖や緊張というよりも面倒臭さが勝ってきているのか、時々あくびをしながら、私と話したりスマートフォンを触ったりしていた。
「奈津乃って、現場は見たの?」
じっと横顔を眺めていたのがバレたのか、彼女は思い立ったように尋ねた。
「見たけど、どうして?」
「いや、気になっただけ」紗良は息を吸ってから言った。「噂、されてるよ。網城奈津乃が犯人じゃないかって」
「は?」
耳を疑った。同時に、あいつらは私のことが基本的には嫌いだったな、と思い出す。
紗良は、目立たないようにしながら、生徒の集まりを指で差した。
「例えばあいつらとか、あんたが犯人だって決めつけてた。さっき聞いたんだよ」
紗良の言う方を、私は睨みつけるように見た。女が数人集まっている。それはどのグループだって同じだったが、それ以上の特徴を、見出すことは出来なかった。こそこそと、何かを話していた。
時々、私を見ているような。
紗良に言われたから、余計にそう思ってしまうのだろうか。
「なによ。言わせておけばいいわ」私は足を組んで、更に腕まで組んで座り直した。「せれな先生に直接教えてもらっていて、仲まで良い私のことを妬んでるんだわ、きっと」
「まあ、銀川先生と奈津乃が知り合いなのは、この前の外部演奏会でみんなわかっただろうしね」紗良は目を合わさないようにしているのか、ずっとスマートフォンから目を離さなかった。「……銀川先生に憧れている生徒だって、何人かは見たことがあるよ。三年前の特別講師の時も、それなりに人気だったみたいだし。変に目をつけられてる奈津乃が、あの先生と関係あるって言うと、面白くないって思うやつらだっているんだろうね」
「ふん……醜い嫉妬心ね」
「奈津乃がみんなのこと苦手っていうのも、知られてるみたい」紗良はどこか言葉を選んで表現した。「あいつらは奈津乃が、あいつらの犯行に仕立て上げようとしている、って思ってるみたい。だから本当の犯人なんじゃないかって」
「やつらに濡れ衣を着せようって、私が思ってるってこと?」その想像力に、私は呆れた。「そんな手間掛けるくらいなら、素直に外部犯の所為にするわよ。馬鹿が変な知恵をつけるとこれよ」
「まあ確かに、疑ってるなら証拠を出せよって話だけどね」片手で頬杖をついた紗良が、私に笑いかけた。「結局、誰がやったんだろうね。何が目的だったんだろう」
「さあ。変人の考えることなんてわからないわ」
居心地の悪さを感じる。
あいつらからの、湿気を覚えるような視線。それだけではないだろう。私を疑う人間の噂話や嘲笑まで聞こえる気がする。
自分を贔屓にしている先生の授業が、中止になった気分はどう?
そう面と向かって言われているみたいな、吐き気にも似た気分に陥ってくる。
あの集団も、
あの集団も、
そこの集団も、
みんな、私のことが嫌いで……
「奈津乃はさ」
急に紗良の声が耳に入ってきて、我に返った。
「これまで、変な謎にすごい推理を聞かせてくれたでしょ。私なんて、奈津乃は本当に探偵なんじゃないかって思ったんだから。それで、あいつらは奈津乃が気に入らないんだと思う。受け入れてくれた子も結構いると思うけど、同時にああいうのも生じるのは、仕方がないことなんじゃないかな」
「……私だって、そこは諦めてるわ。全員に好かれようなんて、最初から思っていないもの」
「……奈津乃は、自分に良くしてくれてる人のことだけを、考えてたら良いと思う」
「そんな事言われたって、嫌な記憶のほうが、ずっと残っているんだから、無理よ」
「あんなの下らない嫉妬だよ。気にしなくていい。他人が自分より優れているのが、気に入らないんだ、そういう奴らって」
私は、ふん、と鼻を鳴らして、その言葉の悪い部分だけを手のひらに書いた。
■犯人
中兼由麻部長の隙を見て私は、食堂にこっそり向かった。
あまり動くなと言われているが、警察官は取り調べに忙しい。見張っている者はおらず、船元美空も銀川せれなも、生徒を取り仕切るような立場に立っているわけでもなかった。
広場から少し離れた本館の一階に、食堂は存在する。何の変哲もない、大学によくある食堂だった。値段も安いが、味も相応なのであまり利用はしていない。
正面入り口や、本館の内部から入るのが普通だったが、今は食事が目的ではなかった。外から裏へ回ると、厨房の脇に通じる扉があることを、私は入学当初から知っていた。
ここから扉を開け、中の様子を確認すればいい。人が薄そうならこっそりと入って、小麦粉を、そっと棚に押し込むか、人に渡そう。なんなら食堂のゴミ箱に入れても良かった。食堂に捨ててある分には、不思議な物品でもなんでも無かったからだった。
入り口を無視して裏手に回ると、
後ろから声をかけられて、私は口から胃液を戻してしまいそうになった。
「――さん、なにしてるの? 用事?」
死を覚悟してからゆっくりと、首を回して振り返る。私の名前を呼んだのは、船元美空顧問だった。きつい眼光が私だけを捉えていると、切腹のために腹に短刀を刺しているような幻痛すらしてくる。
なぜ彼女がこんなところにいるのだろう。
取り調べで、私の順番が来て、私を探しにここまで来たのだろうか。
「そっちに行っても厨房しかないわよ。ひょっとして、まだ大学に慣れてない?」
広場を離れた私を怒るでもなく、悪気も疑いもなさそうに、彼女は私に尋ねた。元来、このくらい世話を焼くのが好きな性格なのだろうか。そうなのかもしれないが、普段はつまらなそうに授業をする姿ばかりが目立っていた。
どう答えるのが正解なのか。なんとかしてここは、穏便に切り抜けるのが一番いい。
ならどうする。道を間違えたとでも言おうか。いや、そうすれば、広場に連れ戻されるだけだ。そんな所を見られたら、名前も知らないあいつらや、あの目ざとい銀川せれなに、変に疑われるだけだろう。食堂に用事があったことにするのが、一番良かった。
――実は、食堂でいとこが働いていて、昼過ぎに仕事が終わったら一緒に出かける約束だったんですけど、こんな事が起きたので直接言いに行って、断ろうと思っていました。
という嘘を、私は口から吐き出した。
こういう嘘を吐く時は、内容よりもいかに自然に口に出来るかの方が大事だった。本当のことを言う時に、変な所で詰まったり、演技がかったりするはずがない。私は頭の中で食堂で働いているいとこを生み出して、その女と仕事終わりに都会へ遊びに行く約束をしていた、というエピソードを半ば本気で信じながら、そう言った。
上手く通ったのか、船元美空は「へえ、そうなの。大変ね。いつ終わるともわからないから」と授業をサボることを堂々と口にした私を咎めるでもなく、同情しながら立ち去った。
あとには、私しか立っていない。
息を吐いた。長い痛みから開放された時に似ていた。
なんとか切り抜けた。さて、あとはこの小麦粉の処理だ。
悩むな、さっさと済ませるのが一番良かった。
私は扉をそっと体重をかけて、押して開けた。鉄でできた、重苦しいドアだったが、開くのにそれほど力も必要無かった。そればかりか、軋みを立てることもなく、抱きしめる時くらい自然に私を受け入れる。
厨房だった。人の気配はあるが、昼にはまだ早い。忙しくもなければ、従業員だって少ない。これはまさに千載一遇だとしか言えなかった。
早々にゴミ箱の位置を確認すると私は、身体を滑り込ませて、腕を伸ばしてそこへ小麦粉を投下した。大きな青い長方形のゴミ箱だった。そんなものに救いを覚えたのは、生まれて初めての経験だった。
厨房を抜け出して、私は笑った。口元に浮かぶ微笑みを、隠しきれなかったからだった。
やった。
私は成し遂げた。
もうこれで、危険な要素は私の周りから排除した。
課題は、残り一つ。どうやってあの部屋を掃除するか、だった。
掃除をする必要があるのかと問われるかもしれないが、私の中であの部屋をそのままにしておく選択肢はなかった。もう授業の中止が決定している以上、何事もなかったかのように見せたほうが都合が良かった。
事件なんて、そもそも起きていなかったと。
そうすれば、警察だって諦めて帰るに決まっていた。
だって、被害を受けた痕跡がなくなっているのだから。
□奈津乃
せれな先生は、缶コーヒーを片手に鼻歌を歌いながら帰ってきた。
その様子を見るに、なにか良いことがあったのだろうかと思って尋ねると、「なにもないわよ」と平然と彼女は答えた。嘘ではないようだったけれど、時々この先生のことが、わからなくなる時があった。
「でも面白い話を聞いたわ」彼女は熱いのか冷たいのかもわからない缶コーヒーを啜った。アイスだとは思う。「改装工事でなにか事故があったらしいのよね。奈津乃ちゃん知ってる?」
「さあ……知りません。いつの話ですか?」
「今朝よ」
犯行時刻と同じくらいだ。私は首をひねって答えた。
「その時は家にいましたし、起きてからすぐ先生の家に行ったので、わかりません。人がそういう話をしているのを、聞いたこともないです。事故って、どういうのですか?」
事故という字面から想像するものは、かなり物騒な光景だったけれど、本館の方に目をやっっても、そんな深刻な様子は見受けられなかった。
期待をしたというのに、先生は首を振った。
「知らないのよね、どんな事故なのか。現場の人が話しているのを聞いたっていう子が、そう言ってたんだけど、中身までは知らないって。あの時間帯に、ここにいた人じゃないとわからないかな。美空にでも訊いてみようか」
船元の仏頂面が思い出された。多分、尋ねた所で答えてはくれるが、静かにしていると釘を刺されるかもしれなかった。
工事現場で作業が始まっている。生徒の多い昼間に行うなんて、工事が始まってから今日まで一度もなかったというのにどうしたのだろう。期限が迫っているのだろうか。確かに工事が始まってから、もう何ヶ月にもなる。
「さっきふと思ったんだけど、現場の赤ペンキって、工事現場のものかしらね」と、先生が呟いた。「あの壁を赤に塗るのかと思うと寒気がするけれど、そこで入手するほうが、一番手軽じゃないかしら」
「盗んだってことですか」
「そうね。いや、もしかしたら買ったのかもしれないけど」先生はコーヒーを飲み干す。味わう暇すら、無かったんじゃないかって思った。「まあそんなことは、どっちでもいいわ」
そこまで言って、寂しくなったかのように首をきょろきょろと見回す先生。
「ねえ、紗良ちゃんって何処行ったの? あの子からこの前みたいにいろいろ仮説を聞いてみたいんだけど。参考にはならないけど、突拍子もなくて面白いこと言うのよね」
「ああ……あの人、推理ごっこみたいなの最近好きですからね」
この間私は、彼女が流行りの推理小説を読んでいるところを見てしまった。きっとせれな先生や私の影響なのだろうが、彼女は私が少しも推理なんてしていないことを知ったら、一体どんな顔をするのだろう。私を殴り倒すのかも知れない。
私は答える。本館の方を指差しながら。
「さっきまでここにいたんですけど、Y教授に連れて行かれました。今日提出のレポートに不備があったみたいで」
Y教授の名前に覚えがあるのか、せれな先生は眉をひそめた。私だって、Y教授のことは好きではないし、授業も一度取っただけであとは避けるようにしていた。男性で、七十歳ほどの見た目をしていて、陰湿な性格から生徒の不評を買っていたけれど、そんな悪い評判を積み重ねながらも、学校を追い出される気配はまるでなかった。
「ああ、あのクソじじいね……」せれな先生の口から、また聞きたくないような単語が飛び出した。「わざわざ、こんな時に関係者をレポートのために呼び出すって、信じられないわ。警察に見つかったら、どうすんのよ。紗良ちゃん、事情聴取はもう終わってるんだっけ」
「終わってます」私はY教授のことを、頭の中でボコボコに殴りながら答える。「レポートの方も、大事なやつだったみたいですよ。紗良、先週からなかなか出来ない、どうしよう、単位を落とす、って嘆いてましたから。美保子も手伝って、結局今日の朝まで掛かってたみたいです」
「ふうん。だからちょっと眠たそうだったのね」先生は膝を打った。「それってどんなレポートなのか気になってきたわ」
そんな話をしていると、引き寄せられてくるのか、本館からY教授と紗良が出て来て、広場に向かってくるのが見えた。遠目から見ても、紗良の顔はうんざりとした表情をしているのがわかった。
Y教授は広場の生徒達に、今更気がついたように睨みつけた。そして、その中にいる大人、つまりはせれな先生のもとにゆっくりと近づいてくると、大きなため息を吐いてから話しかけた。
面倒な爺だ、と私は思った。
「は。君か。一体何の騒ぎだ」Y教授は座っている先生を見下した。「いつも君は大学に迷惑をかけるが、なんで船元くんはこんな女を執拗に呼ぶんだろうね。部外者だろう、君は」
「はあ、そうですけど」先生は明らかに、聞こえるような舌打ちを漏らした。「船元からなにも聞いてないんですか? 教授」
「さっき来たところだよ。なにがあったんだ」
「教室に小麦粉が撒かれていたんですよ」先生はそれだけを端的に告げる。「警察も来てます。生徒にはここを動くなって伝えてあるので、勝手に連れて行かれると警察から何を言われるかわからないんですけど、あなたはその辺りを理解しています?」
「失礼。さっき来たところだと伝えたが?」
二人は黙った。
辺りで喋っていた生徒達も、二人が醸し出す空気の悪さに押し黙ってしまう。腕に縄を巻き付けられて、それを引っ張られているみたいな痛々しさすら覚えた。
「どうせ……」Y教授は煙草を取り出して吸おうとした。「君が招いた災いだろう。この前君が来た授業は、何年前だったかな。あの時は、僕の教師人生の中で最低だったよ。君が来ない間は平和だった。迷惑だなあ、こんな騒ぎまで起こして」
「三年前ですよ、おじいちゃん」先生がにこりともしないで口にした。「あの時は、自分たちの授業の無益さが、生徒さんたちに伝わってよかったじゃないですか。授業全体の出席率すら下がったって聞きましたけど。おかげで、外でやってた私の講習の受講者が増えたんですよね。教授もお受けになります?」
「忙しいものでね。遠慮しておくよ」
「教授も人間である以上、教育を施す必要があると私は思いますけど?」
そこまで言われると、Y教授はバツの悪そうな顔をして、広場の芝生を蹴るようにして消えた。
その後ろ姿に、先生は中指を立てた。
「もう先生、子供っぽいこと止めて下さいよ」
私が手を押さえると、先生は笑って「ごめんね」と謝った。
Y教授がいなくなったというだけで、緊張が解けていく。じっとしていた生徒達が徐々にまた下らない雑談に戻り始めた。元の弛緩が、水面に垂らしたインクみたいに広がっていった。
「ほんと嫌なやつよY!」と紗良が頭を掻き毟りながら、泥を口から吐き出すみたいな勢いで、文句を言った。ついでに芝生も踏み鳴らしていた。「銀川先生も嫌いなんですか、あいつのこと」
「嫌いっていうか……」反省したのか、少し小さくなりながら先生は答えた。「向こうが嫌ってくるから返してるだけよ。こっちはただ、順当に頼まれた仕事をやってただけだったのにさ……美空も、なんで私なんかをまだ呼んでくれるのか、不思議なのよね」
「先生。三年前の授業って、なにを?」
気になったので、私は尋ねた。本当は、先生と船元の馴れ初めの方を知りたかったが、どうも訊く勇気がなかったので、その質問で自分を騙した。
「別に、今日と同じよ」先生は足を組んだ。「人類の歴史と、音楽。このネタだけで何回か仕事が来たことがあるんだけど、三年前ここでやった授業は、何故か妙に好評だったのよね。で美空に尋ねてみると、生徒達も授業の質に不満を覚えてたみたいだったのよね。ちゃんとした授業の面白さに気づいたのよ。別に、私は特別なことをやってるっていう意識はないんだけどね」
嫌味でもなく、そう口にする彼女が美しかったので、私は何も口にできなくなった。
「船元先生も、見習ってほしいですよ」と紗良があたりを見て、船本がいないのを確かめた後に、そう話した。「あの人の授業も、なんだかひどくつまらなくて……銀川先生、うちで教員やりませんか?」
…………。
「あはは。無理よ。そうなったら、きっと小麦粉を撒かれるだけじゃ、済まないわよ」自嘲気味に、先生は笑った。「美空も……まあ、なにか考えがあるんでしょう。あの子だって、自分の授業が面白くないってことくらいは、多分、自覚してるんだと思うわ。でも、教授の目がある以上、あの形式を崩すわけにも行かないでしょ? それを、私みたいな部外者が破壊して、美空の立場まで危うくしちゃうなんて……悪いことをしてるんじゃないかしら、私」
「そんなこと、ないですよ」私は、身を乗り出すように言った。「船元先生とは……付き合いは、長いんですか」
今しかないと思って、私はそれを口にした。
先生の方は、特に話したいわけでも、隠したいわけでもないようだった。「別に、長いってほどじゃないけど、旧友よ」と自然に答えた。言い淀んでいた私が馬鹿みたいだった。
「美空とは、同じ大学だったの。ここじゃないわよ。もうちょっと遠いところだったんだけど。その頃からの付き合いよ。何年になるか、数えたことはないけど……。でも当時の私は、あの子が教師になるなんて、少しも読み取れなかったわ。あの子こそ、音楽で稼ぐタイプだと思ってた」
先生はこう見えても、音楽で金を得ていたのか、と私は話の主題とは関係のない、そんなところで感心した。
「きっと、隣の芝が青く見えるだけよ。あの子にないものが、私にはあると思ってて、私を授業に呼んでおけば、それが自然と補えるっていう考えが、あの子の中にはあるのよ、きっと」
せれな先生は、それから遠くを見た。手も届かない空を、妬くように見上げているみたいだった。
「本当は、逆なのにね。私にないものばっかり、あの子は持ってるんだから」
「あ、あの」
と聞き慣れない声がしたと思って、不思議に思って首を持ち上げると、名前も知らない生徒が、せれな先生の前に立って、彼女に呼びかけていた。あまり、見られる光景ではない。
誰だろう。紗良ならこの女のことを知っているのだろうか。横目で紗良を見ると、口の動きだけで『こうはい』と私に告げた。後輩と言われたって、私には見覚えすらない。
髪をうなじの辺りで結んでいる、一見すると気の弱そうな女だった。私は自分を見ているみたいで、変な苛立ちを覚えた。
「銀川先生、ですよね。今日あるはずだった、特別授業の……」
銀川特別講師、というチラシに書いてあった仰々しい名前が、私の頭に浮かんだ。本当に特別講師としか書かれておらず、経歴もどんな人物なのかも書かれていない。その簡素さは、船元の趣味だろうか。
「そうだけど、私のファン?」
先生が悪戯のように尋ねると、生徒は首を振った。
「いえ……あの、私、犯人に心当たりがあるんですけど」
思いも寄らない答えが、この女から飛び出した。
犯人の心当たり。
「本当?」先生は飛びつくでもなく、疑うような視線を女に向けた。「確証はあるの?」
「そんなにはっきりとはないんですけど……」女は申し訳無さそうに言う。「赤いペンキで、銀川先生は来るなみたいなことを、書いてあったって聞いたので、もしかしたら先生に恨みがある人なんじゃないかって思って……。私、昨日聞いたんですよ」
「何を?」
「銀川か、あいつ嫌いなんだよって、言ってる人がいて。何回も来てる先生なのかなって思ったんですけど、そうでもなくて、なんかその言葉が気になったんですよね。来てみると、こんなことになってるし……」
「それ、誰?」
「慈光沢美先輩です」
聞き覚えがある。
ジャズ研究部所属の慈光沢美のことなら、こんな私だって知っている。記憶をたどると、顔まで思い出された。確か、ポニーテールを振りながら、ピアノを演奏している姿を、一度くらいは目撃たしたことがある。
由麻よりも目立つ部員はそういない中で、慈光沢美はかなり名前が知られている方の部員だった。それは、決していい評判だけではない。
その名前を聞いた先生は、ふうん、と鼻を鳴らして女にお礼を言った。
「そうなの。ありがとうね」
女生徒は、頭を下げながら去った。
「慈光沢美さん、ね」先生が、意外でもなさそうにそう呟いた。「紗良ちゃん、この子って、普段から私を嫌ってるの? どんな子?」
「さあ……銀川先生を気に掛けてるなんて、私は初耳ですけど」紗良は決まりの悪そうな顔をして、答えた。「あの子って昔から目立ちたがりで、それが無理な方向に働いてることが、何度かあるんですけど……。正直それだけの人間です。出しゃばるわりに、発想が凡人です」
紗良が辛辣なことを言うが、私もおおよそ全く同じ意見だった。紗良が口にした通りの印象が、今私の中にはあった。
「へえ。部員には、嫌われてるの?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど……まあ普通の部員ですよ」紗良が首を回して、慈光を探した。「あいつ、何処に行ったのかな」
怪しい人間が何処かに消えている。このチャンスを逃す私ではなかった。
「先生、私が慈光のこと探してきます」
私は、先生の意見も聞かずに立ち上がった。
■犯人
食堂で小麦粉を処理して、とりあえず広場に戻ろうと思っていたときのことだった。
「おい、――、待ちなさい」
呼び止められたと同時に、舌打ちが出る。何なら殺してしまおうかとも思ってしまうくらいに、耳に障る声だった。
主は、敷地を取り囲むフェンスの上に乗って、私を見下ろしていた。どうしてそんなところにいるのか、考えても無駄だと思ってなにも尋ねなかった。
それに、彼女のことを辺境の国くらいなに知らなかった。変に目立つがそれだけの女だ、印象しかない。ジャズ研究部だったとは思うが、その名前までは浮かんでこなかった。
「お前、犯人だろ」
そう決めつけて、変な女は言った。悔しいながら、それは正解なのだけれど、こんな女に見つかるほど、適当な計画を立てたつもりはなかった。
証拠はあるのか、と私は訊き返した。すると女は、胸を張って、フェンスから飛び降りて私の目の前に立った。思うほど身長が高いわけではない。結んだ髪が、ひらりと揺れていた。それを私は、ハサミで切断したくなった。
「昨日、あんたがスーパーで小麦粉を買った所を見たわ。小麦粉だけを買うなんて、おかしいでしょ」
たまたま小麦粉を切らす場合だってあるだろう。そう言い返すと、確かにそのとおりだと女は素直に頷いた。馬鹿なのかも知れない。
「でもあんたは犯人よ。これだけは、確実に言える」
どうして?
「さっき犯人だって指摘した時、なにも動揺しなかったからよ」
その考えには無理があるだろう。私は目の前のバカ女にそう言ってやりたくなったが、ひょっとすると、ある側面では正しいのかも知れないと思って、考え直した。
犯人である自分だからこそ、犯人だと言われる可能性を、常に想定しているが故に、動揺なんてしないのかもしれなかった。そう疑い始めると、哲学みたいに、自分がわからなくなった。
「とにかく」女は、私を指差した。「お前が犯人である証拠をこれから探すから。逃げたら、警察に言うわ。広場でじっとしておきなさい」
そう言い残して、女は立ち去った。女の残り香が、鼻腔を撫でた。けれど、何の印象もない匂いだった。
何がしたかったんだろう。私を脅したかっただけか。裏を返せば、広場にいればとりあえず、あの女が警察に何かを密告するという恐れはない、との解釈も出来たが、私の方もそうじっとしていられるほど暇というわけではなかった。
私が残してきた証拠。
思い当たる上で、その最大のものが、現場のロッカーに隠してある掃除機だった。
それを回収しない限り、あの女を無視できない。現場には、警察官ひとりすら立っていないはずだ。それはそれで、管理体制を疑いたくなるが、警察には大した事件だと思われずに舐められている、という根拠がここにあった。
まったく。
ああいう女ほど、計画に狂いを生じさせるのだろう。
□奈津乃
「あーあ、めんどくさいわね」
慈光を探しに立ち上がって、広場を抜けようとしていた私に、近くにいた由麻が話しかけてきた。私を止めたつもりではないらしい。ただ暇だから、雑談相手が欲しかったのだろう。
「練習したいっていうのに、なんで取り調べなんかに応じないといけないのよ」彼女は指を口の前に持っていって、トランペットを吹く真似をした。「公開ジャムセッションも近いっていうのに。学祭もあるのよね、忙しくなるわ」
「学祭でなにするんだっけ」去年のことはまるで覚えていなかった。出ていないのかもしれない。
「そりゃ演奏よ。ジャズ研究部なんだから」由麻は首をかしげる。「出店も出したいっていう子がいるから申請しようと思ってるけど、追い出した四年になにかされそうで嫌なのよね」
学祭のことを話していると、次第に話題は改装工事に映った。学祭までにあの工事が終わるのだろうか、というのがとっかかりだった。
「そういえば工事、無事に再開したのね」由麻が、その方角を眺めながら呟く。「朝はなんか、軽い事故があって止まってたけど。これから昼間も工事するのかしらね」
その話をされて、とっさに思い出した。
「事故があったってせれな先生も言ってたんだけど、なにがあったの?」私は尋ねた。由麻がどうして知っているのか、口に出してから疑問に思った。
「うん。私が来た時……まあ朝ね。八時とかそのくらいよ。具体的になにがどうなったかはわからないんだけど、工事の音がピタッと止んだのを覚えてるわ。広場でトランペットを吹いてたから、わかるんだけど」
そんな早朝から外で吹くことに、どういったアドバンテージが有るのだろうか。尋ねてみようかと思ったけれど、やめた。
けれど、確かに事故があって止まったというのは、本当にあったことらしかった。けれど、そこから何が発展するのか。私ではさっぱりわからなかった。
「奈津乃も来ればいいのに。朝練。私しかいないけど」
「外でエレキギターなんか弾いたって意味ないわよ」私は愚痴のように言う。「それに家に居場所がないからって、早起きして学校に来る趣味なんかないわ」
「いつでも歓迎するのに」
「でも由麻」そこで私は思い至る。あの時間帯、由麻が来ていたということは、一つの可能性が浮かび上がってくる。「来てたってことは、怪しい人間を見かけたんじゃないの? 例えば……慈光沢美とか来てなかった?」
「慈光? なんで彼女が出てくるのよ」
私は説明する。後輩の女が、慈光に目をつけていたので、これから調べ上げようと思っていたところだったと。それを由麻が話しかけて邪魔をしたことも付け加えた。
「ああ、あの子って、銀川先生を嫌っていたのね」由麻は考え込むような顔をして呟いた。「確かに、私もあの子は、ちょっと問題あるかなって思ってたわ。でしゃばりなのよね、大した実力もないくせに。でもそれに対する努力は認められるから、切って捨てるには可愛そうだと思ってたんだけど」
「あいつ、犯人かな」
「それはあんたが探しなさいよ」由麻は私の胸を指差した。「広場の外れの方にいたと思うから、一度話してみたら? それとも、こういうの苦手?」
頷こうと思ったが、私は考え直して首を振った。
「いや……大丈夫。せれな先生に迷惑かけるやつなんて、私は許せないわ」
そして、私を笑顔で送り出す由麻がいた。
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