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   □奈津乃


 その警官を見た時に、私は嬉しいような悲しいような気持ちになった。

 彼が到着したのは通報から三十分後だった。それが、早いのか遅いのかも判断がつかなかったが、彼の態度から察するに遅いのだろうと私は一人で理解した。待っている間、船元が文句を言っていたが、特に擁護すら出来なかった。

 眠そうな顔をぶら下げながら警官は広場に現れた。複数で来るのかと当然思っていたのだけれど、どう見ても彼は一人だった。誰かを連れてきた様子もまったくなく、生徒をぐるりと見回すとまっすぐ船元に話を聞きに行った。

 長身で、髪が長く、目元すらもよくわからないが、制服は着崩れていた。ひと目で真面目な警官ではないことがわかった。さっきまで眠っていたのだろうか。こんなふざけた警官は、漫画くらいでしか見たこともなかったが、実際の警官なんてものは、おおよそこの程度のものなのだろうか。

 彼は面倒くさそうに口にした。

「こんにちは。えっと、現場ってのは?」

 軽々な挨拶とその口調に、船元も眉をひそめていたが、彼女は奥歯を噛みしめるような調子で、警官を案内した。せれな先生も関係者として同行するというので、私もそれに着いていった。離れることが不安だったからだった。

 現場に向かう途中に彼は名前を名乗った。「今坂」というらしい。近くの交番に務めている人間だと言ったが、階級は名乗らなかった。見た目は若い。少なくとも巡査部長と言ったところだろうか。

 現場に着くと彼は、持ってきた仕事用らしいスマートフォンで、現場の写真を何枚か保存した。その様子を見ると、本当に一人でやってきて、一人で全ての業務を行うつもりらしい。大した事件だと思われていないみたいだった。

 次に彼は発見当時の状況と、生徒は全て集めてあるのか船元に尋ねた。船元は頷いて子細に説明した。さっき数えたが、受講者は全員揃っているし、休んでいる人間もいないと彼女は付け加えた。彼女の執念が、そこまで突き動かしているようだ。

「そうですか」話を聞いた直後に、一見無気力そうに今坂は唸る。「えーっと、じゃあ一人ずつから話を聞きたいんすけど、どっか使える部屋ってないですかね。どこでもいいんで」

「どこでもって……」船元は首をかしげる。「人気の薄いところの方が良いんじゃないんでしょうか」

「ああ、そうっすね。その方が良いっす」今坂はメモ帳を取り出して、さらに胸のあたりを触った。「あれ、ボールペンがないな。うーん、困ったな、クソ」

「……あの、貸しますけど」

 船元が丁度持っていたペンを今坂に渡した。彼は礼を言うと、メモに書き始めた。

「えっと……現場が、別棟のなんとか室、ですね……事情聴取は結局何処でやったらいいっすかね」

「じゃあ……本館の開いている教室を使えないか訊いてみます」

「お願いしますー」

 そんなことはお前の仕事ではないのか、と私は内心で文句を言った。船元が職員室か何処かに電話を掛けている間、今坂は調子が良さそうな顔をしてスマートフォンを触って暇をつぶしていた。

 心配だ。

「……大丈夫なんでしょうか」

 私はたまらず、せれな先生に耳打ちをした。どう見たってこの警官は信用できない。まともな捜査が行えるとは、素人の私が見ても到底思えなかった。

「……最悪の場合、私が犯人を見つけるわよ」

 そう呟いたせれな先生の表情は、どこかあの警官にも似た、ある種の気だるさを孕んでいるように見えた。



   ■犯人


 事情聴取が始まる、と告げられた時には気が気ではなかった。私は元来小心者だったので、罪の意識を抱えたまま、自分を疑う警察を前にして、平気な顔で嘘をつけるのか、そんな自信は爪の先ほども無かった。

 広場で待たされている間、ベンチに座って腕を組みながら考えた。どう切り抜けるのが正解なのだろうか。バカ正直に動きもしないで、雑談を繰り返している生徒を眺めていても、答えは見つかりそうもない。こういう場合は、誰か私の他に怪しい人間に罪をなすりつけるのが定石なのだろうが、関係者が少なすぎるため、適した人間すら思い当たらなかった。

 吸ったことのない煙草でも吸いたい気分だ。私はとりあえず、今の所は疑惑の外側にいるのだろうけれど、居心地の悪さはずっと感じていた。親しくない人間の家に通されて、自由に待っていろとでも言われている心境に、近いものがあった。

 ふと、私の頭に浮かび上がった。

 もし誰かが、あの時間帯に私を見ていたとしたら。

 事情聴取でそれを警察に告げたなら、私はその時点で終わってしまう。細心の注意だけは払ったし、見られていたような気配は感じなかった。けれど、絶対になかったと証明できない以上、私の疑念が洗ったように消え落ちることも決して無かった。

 誰かが私を見ていたのだろうか……。

 不気味なくらい、私に視線を感じない。

 ここにいる全員が、私が犯人であることを知っていたとしてもおかしくはない。

 爪を噛んでいると、私の前を男性が数人通った。

 見かけない人間だったので私は驚いたが、見ているとなんてことはない。改装工事に入っている業者だった。彼らは話しながら、広場に集まっている私達を気にも留めずに通り過ぎる。工事は朝と放課後にしか通常行われないはずなのに、なんでこの人達が今ここにいるのだろうか。

「さて、遅れてるけど、気をつけないとな。朝みたいに事故るぞ」

 男の一人がそう言っていた。

 何があったのかは、教えてくれなかった。事故と言っていたが、現場や校舎に、そんな騒ぎの残り香みたいなものは感じられなかった。第一、その時間といえば、私が別棟で犯行を行っていた時だったはずだ。

 そういえば別棟には、工事の音も聞こえなかった。案外、防音性が高い建物なのだろう。ジャズ研究部も軽音楽部の演奏の騒音も、特に本館の教員たちから注意を受けた過去はなかった。

 その事実を、なにかに使うことができればいいけれど。



   □奈津乃


 事情聴取、というか取り調べは本館の三階で行われた。

 広場からは結構な距離がある。その教室に向かうのに、一定の疲れを覚えてしまうほどだった。私はその場所すらもよくわからなかったが、船元が案内してくれた。彼女は、あの不良警官に良いように使われているみたいだった。さっきから、生徒を迎えに来て、三階に送り届けていた。その顔には、不思議なほど疲労感が見受けられなかった。自分の体調なんて、もうどうだって良いのかもしれない。

 私が呼ばれたのが、十一時ちょうどを指したときだった。取り調べ自体は、時間にして五分程度しか無かった。関係者の数が多いという問題もあったのだろうが、私がハナから疑われていなかったという理由があるのかもしれない。

 取り調べに使われた部屋は、教室というより教授の研究室だった。本当の研究室よりも広いが、私物の資料が山のように積まれていた。生徒が入る椅子も少なめにしか置かれておらず、ここを使ってどんな授業が行われているのか、全く想像がつかない。

 私は通されると、大量に資料が詰め込まれている本棚の前にある、九〇分座っておくのには辛そうな椅子に腰掛けさせられた。不良警官の今坂は、教授がいつも使っているのであろう高そうな椅子に鎮座していた。

 尋ねられた内容は、私の名前と身分。その時間に何処にいたかということ、それを証明してくれる人がいるかということ。そして銀川せれなに恨みを持つ生徒は知っているか。たったそれだけだった。

 緊張をして損をしたと、終わったときには素直にそう思った。あの不良警官も、最初に目にしたときには信用ならない態度だったけれど、実際そうやって話すことになると、案外その性格が良い方向に響いたのか、取り調べとは思えないほど柔和な雰囲気があった。その方面の才能だけはあるのかもしれない。

 本来、先生たちの特別講義が始まっていた時間が、遠い過去のようだった。この一時間だけで、もう全てを投げ出して寝込んでしまいたくなるほど、いろいろな事が起きていた気がする。

 ふらふらと、取調室の外で待っていた船元と一緒に、広場まで戻った。せれな先生は広場で暇そうに、芝生の上でくつろいでいた。こんな日だが、天候だけは良い。そのまま横になって眠ってしまいそうな雰囲気だってあった。船元は彼女なんて無視して、次の生徒を呼びに行った。

「どうだった?」

 既に事情聴取を終えているせれな先生が、私が姿を見せると微笑みかけながら言った。私は彼女の隣に腰掛けた。そうすると、本当にピクニックにでも来たような気分になった。

「疑われてはいませんでした。正直に、事件の時は授業が二時間目からしかなかったから家で寝てて、そのあとせれな先生の家に行って……。恨んでる人なんて知りませんって答えて……。そんなもんです。先生も同じですか?」

「似たようなもんよ」先生は呆れた様子を見せる。「今坂さん、かなり適当だから心配になってきたわ。それに美空もヒステリーを起こしてるし。警察沙汰にするほどのことかしらね。器物損壊はそうだけど、犯人は明らかに生徒よ。出来心だったんじゃないかしら」

「なんで生徒って言い切れるんですか?」

 そう尋ねると、普段とは違う歯切れの悪さで「ああ、まあ……勘よ」と彼女は答えた。

「でもそうね、生徒だけとは限らない。講師連中だって、私を嫌ってる人間ばっかりよ。美空が時々、私に授業を手伝わせていて、それで生徒の評判が上がることが多いから……嫉妬してるのよ、奴ら」

「特別授業って昔は何回か、あったんですか?」

「まあ美空が新人の頃から、そう頻繁ではなかたけれど、あったわよ。奈津乃ちゃんは今回で初めてだったわよね。前回が多分、三年前くらいだったから」

 そしてせれな先生はため息を吐いた。

「私の存在なんて、何処で知ったのかしら、犯人は。いつの間にか恨まれていたと思うと、気分が悪いといえばそうよね」

「明確に先生のこと、追い出したいみたいですね」私はあの赤ペンキで書かれた文字を思い出した。どんな文面だったかは忘れたが、憎しみが表現できていた。「じゃあ大学の教員じゃないんですか。先生のこと嫌ってるって今言ったじゃないですか」

「私のことを知っているって言うなら、美保子ちゃんや紗良ちゃんだって当てはまるわ。もちろん由麻部長だってそうだし、この前の外部演奏会で目にしたって言うなら、長浜さんや堀切さんも例外じゃない。四年生なんて、前回の授業を受けているかもしれないし、私のことをどこか別の場所で知っている人だって、この中にはいるんじゃないかしら」

 揺れ動く生徒達の頭を、じっと見つめた。

 彼らにも人生があって、それぞれ意思を持って動いているし、私の知らない所でいろいろと知り得ている。当たり前だ。そんな当たり前のことが、私にとっては怖くて仕方がなかったから、あまり意識なんてしたくなかった。

 船元がまた忙しなく通りかかった。せれな先生は彼女に声をかけて呼び止めた。迷惑そうな顔を隠そうともしないで船元美空は、せれな先生の側まで足を重そうに動かしてやって来た。

「せれな。何?」

「ごめんね、忙しいところ」先生は座ったまま、船元を見上げながら尋ねた。「他の教師って、犯行時刻に何やってたかわかる?」

「そんなこと訊いてどうすんのよ」船元は眉をひそめながら、それでも考えもしないですぐに答えた。「全員授業中か授業の準備中だった。そんなにあなたが思うほど暇じゃないわよ、教員なんて。疑ってるんでしょうけど、小麦粉なんて撒く暇はないわ」

「まあ、そうよね」先生は残念そうな声を漏らした。「私って、明らかに教員に嫌われてるでしょ? だからもしかしたらって思ったのよね」

「もしかしたらで私の同僚を疑わないでよ」船元美空が怒る。「そりゃ……あなたがいい顔をされていないのは、私が一番わかってるけど、そんな陰湿な人間はいないわよ。でもあんたが疑うと思って、彼らのアリバイは真っ先に調べておいたわ」

「そっか。ありがとうね」嬉しくもなさそうに、せれな先生は言った。「怪しいと思ったんだけど、そうか……。今回だって、美空が無理を通して私を呼んでくれたでしょ? だからいつも以上の軋轢があるんじゃないかって」

「それで板挟みになったって、あんたを呼ぶ価値があると思ってるからそうしてるの」

 言った船元は、何処か恥ずかしくなったのか、くるりと踵を返して、生徒を呼びつけてから本館の方に消えた。

「よくわからないわ、あいつも」

 そう呟くせれな先生は、少し寂しそうだった。



   ■犯人


 取り調べを前にして、私には処理しなければならない問題がいくつかあった。

 その一つが、鞄の中にある。巻いた小麦粉の残りと、それが入っているパッケージ袋だった。全てを撒こうとは思っていたのだけれど、いざその現場に立って白く染まっていく様子を見ると、少し怖じ気づいてしまった。全てをここでぶちまけるほどの度胸が、私にはなかった。

 後は捨てよう。後でトイレにでも流せばいい。その時はそれで後回しにした。けれど警察が来ている今、少しでも不審な行動は自分から取りたくなかった。私は鞄を強く抱える。

 広場では、生徒が思い思いの場所で待機していた。船元美空や銀川せれなに見つからないように抜け出そうと思えば、不可能という次元の話ではなかった。けれど、軽い行動をとって変なリスクを被るよりも、もっと冷静になって一度考えたほうがいい。

 それにトイレに白い粉が落ちている、という状況も避けたかった。あの細かい小麦粉を一粒もこぼさないで、完璧に全て便器の中に投入出来るような自信は、考えれば考えるほどため息と一緒に失われていく気がした。

 そこでどんな手を取るか。試されている。これは神が私に与えた試練だと捉えたほうが、都合が良かった。

 本館には食堂がある。普段からあまり訪れることはなかった。ここからも見える。昼時にはまだ早い。ほとんど生徒も職員もいないらしいが、店自体は開いていた。

 発想を変えよう。捨てるという安心感に固執している方が、この状況下では間違いだろう。小麦粉を穏便に消してしまうには、もはやこの手しか存在しなかった。

 小麦粉を、食堂にこっそりと届けてしまうこと。

 小麦粉なんて、食堂にあって然るべきものだった。そこにこっそりとそのまま紛れ込ませるか、なんなら職員に「落ちてましたよ」と言って渡しても良かった。

 これしかない。私は自分の思いついたアイデアに、何処か惚れ惚れするように舌打ちを漏らした。これ以上のものは、私の中から出てこない。そこで職員に疑われたりするようなら、また持って帰ってくれば良い。次の手をその時考えれば良い。

「まったく、災難よね」

 ベンチに座っている私に話しかけてくる人間がいた。

 首を持ち上げてその顔を見つめた。

 中兼由麻部長だった。彼女は立ったまま、気怠そうに話していた。長浜恵子と堀切あきの姿を探したが、いない。事情聴取中だろうか。それで彼女は暇を持て余して、私に話しかけてきたらしい。

 災難なのはこっちだ。

 私は頭をかいて返事をした。



   □奈津乃


 紗良が取り調べを終えて、広場に戻ってくる。

 これで半分くらいの人間が、あの今坂警官に顔を突き合わせて、重箱の隅をつつくように話を聞かれたことになるのだろう。

 せれな先生が紗良を呼んだ。そして私の時と同じように、事情聴取の内容を尋ねた。

「大したことは聞かれませんでしたね」

 紗良はそう答えた。詳しく聞いていっても、私の時と内容は変わっていないようだった。アリバイと、心当たり。そのくらいだ。

 時間を見た。もうすぐ昼休みだ。このまま取り調べが終わらなくて、昼からの授業に差し支えるのであれば出席はどうなるのだろうか。

「昼の講義、休みにならないですよね」

 私は呟く。せれな先生は気の毒そうに笑ったが、紗良が不思議に思ったのか答えた。

「なんで? 次の授業、明らかに休みでしょ」紗良は首を傾げた。「X教授の授業だよね? あいつ、今日は学校に来てなかったじゃん。休みだよ。たまにあるでしょ?」

「え、そうだったっけ」私は顎に手を当てて思い出す。そんなことが、四月くらいにあったかもしれない。言われてみれば、なんとなく思い出された。「じゃあ、休講なのね」

「そうだよ」紗良が指をさす。「教室の前に行けば、張り紙があって書いてると思うけど、あいつの教室って遠いでしょ」

「ごめん、ありがとう」

「奈津乃探偵、しっかりしてよね」なんて、紗良は笑う。

「まったく……これで補講があったら腹が立つわね」

 私達がX教授の話をしていると、聞いていたせれな先生は私達に尋ねた。学生のくだらない話を聞くのが楽しい歳なのかもしれない。

「そのX教授って、どんな人?」

「気になるんですか?」

 私が訊き返すと、せれな先生は首を振って「三年前に私を鬼のように嫌ってたから、ずっと覚えてるだけ」と辛気臭いエピソードを話した。

「堅物おじいさんよね、奈津乃」紗良が答えた。「年齢は結構いってると思うんですけど、身体は丈夫なのか、よく校内で走ってますよ。趣味も若いって聞きました。飲みに行ったり、ゲームセンターに行ったり」

「へえ。楽しそうな教授ね」先生は、両手で頬杖をついて、感心する。「私の印象とは全然違うじゃない。クソじじいだと思ってたけど」

「でも、授業はつまらないんですよね」紗良は苦い顔をした。「ずっと同じリズムっていうか、情報だけを頭に詰め込まれてるみたいで、興味が出ないんですよ」

 私はX教授の顔を思い出した。年齢は七十を越えたところくらいだろうが、輪郭も細く、それでいて肉体には十分なほどの筋肉がついていた。そして頭の毛は一本もない。剃っているのか、抜け落ちたのかは知る由もなかった。顔の作りも、年齢に抗うような若さを感じた。私はあまり好きではなかった。

 せれな先生のことを嫌っているという話を聞いて、ますます授業をサボってやろうくらいには、今は思っている。



   ■犯人


「とんでもないじいさんよね、あの人」

 まだ中兼由麻が、座った私を上から見下ろしながら話していた。話題は私達の多くが次の三時間目に受けることになっていたX教授のことだった。どちらかといえば人気のない教員だろうが、そのキャラクター性と暇つぶしの使いやすさは群を抜いていた。

「うちのじいさんも、あのくらいの元気が……とまでは言わないけど、あれの十パーセントでもあればいいと思うわ」中兼由麻が肩をすくめた。「年齢が同じくらいなのに、何処で差がついたのかしらね」

 中兼由麻の祖父のことは初耳だった。もう先は長くないのだろうか。仲が良いというわけではないのか、彼女の態度は少しも悲壮感を見いだせなかった。私はこうやって軽んじられたまま死んでいくという人間の末路を想った。

「あの真っ赤なスポーツカー、いくらくらいするのかしらね」

 中兼由麻が呟く。目の前を通ったのかと思ったが、そんなはずはない。ここは大学の敷地内、その広場だった。車両の侵入は禁止されていた。彼女が何の話をしているのか、気づくのに一分近く掛かってしまった。

 そうか。X教授の愛車の話だ。彼はいつも、真っ赤なスポーツカーに乗っていた。その値段なんて、訊かれたって当然想像すらも出来ない。

「古い車ならそれなりの値段なのかしら。わからないわ、私には。車なんて、買うかどうかもわからないもの」中兼由麻は言う。「でもあんな車を毎日乗ってきて、生徒に恨まれたらどうするのかしらね。傷つけられたら終わりよ」

 あの車がX教授のものであることを、おそらくは大学に通う人間全員が理解していると言っても過言ではないほど、広く知られていた。私も一年のころの話だが、駐車場に入って来た真っ赤な車を見て仰天してしまったが、その近くにいた生徒二人の話を聞いて理解した。

 ――X教授だよ。すごい車に乗っているって、本当だったんだ。

 それから私はX教授とあのスポーツカーをイコールで繋いだ。授業があんなにつまらない人間だったなんて、その時は知りもしなかったけれど。

「ねえ、あのイタズラのことどう思う?」

 前触れもなく、じいさんの話から急に、中兼由麻がそんなことを尋ねる。もしかして、私が犯人であると彼女にはわかってしまっているのではないか。ゆっくりと彼女の顔を見るが、そんな雰囲気ではなかった。雑談の一種だろう。肝が冷える。

「そういえばさ」中兼由麻はまた話を続けた。「銀川先生に訊かれたのよね。事情聴取の前に。いろいろと、何か知らないか、とか。あの人もじっとしてたら良いのにさ。そういう態度が、今回のいたずらを招いたのかしらね」

 私は何も言えなくなって黙った。

「あなたは、どう考えてる?」

 そしてさっきの質問に戻った。考えた挙げ句、私は、何も考えてない。多分、外部犯なんじゃないか、とだけ答えた。

 それには部長も、納得していない様子だった。

「外部の人間が、銀川先生がここで特別授業をやるってどうやって知るのよ」

 中兼由麻の目が、私を見た。

 私の被害妄想のせいなのか、私を疑っているかのように映った。

「内部犯よ。犯人は、この中にいるわ、きっと」

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