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 せれな先生が、突然頭でもおかしくなったようなことを口にしたので、私は彼女の頭を殴れば元通りになるんじゃないかと思って、手頃な棒や灰皿を探した。そのどれもなかったので、私は彼女に向かって首を傾げた。

「……先生、何言ってるんですか」

「帰りましょう、奈津乃ちゃん」

 先生は正気だった。ビールで頭をやられたわけでもなかった。

 由麻も、口を挟むことなくじっと彼女を見ていた。疑っている目つきでもなかった。

「でも、犯人、逃げちゃいますよ?」私は身を乗り出して尋ねた。

「ああ、それは大丈夫」何の自信があるのか知らないけれど、彼女はそう言った。吐息にアルコールの匂いが色濃く残っているような気がしたが、やっぱりそれでも正気らしかった。「その心配はないけれど……ちょっとね」

「犯人、わかったんですか……?」

 期待を込めて尋ねる。彼女の返事はイエスだった。

 オーナーが何も知らないかのように、ずっとギターソロを弾いているのが聞こえる。

「でも、ちょっと整理がつかなくて、一度考えたいの。そうだわ、明日うちでギターの修理をしましょう? 弦の換えもあるし、私がやると早いわよー」

 変に明るい態度を取るせれな先生を、少しだけ変だなと思いながら私は頷いた。そうするしかなかった。

 オーナーのバンドの演奏が終わった。由麻は機械的な拍手を送った。私も、ギターを借りた手前、あんなふざけた態度を取られたという私怨はあったけれど、それは置いておいて彼を褒めた。良いところなんて、一つも思い浮かばなかったのに、そう筋肉を動かしてしまえば、素晴らしい演奏であったかのように感じられた。

 音楽を楽しむ心に隔たりはない、なんて絶対嘘だなって思いながら、私は必死で手を動かしていた。

「奈津乃、次はちゃんと勝負しましょう」

 由麻が立ち上がって言う。

「……ねえ。あいつらって、本当に犯人じゃないの?」

 あいつらとは、長浜と堀切だった。

 まだ言うの、と若干呆れながら彼女は答えた。

「バンドメンバーだもの。それは信じるわ。あいつらじゃない」由麻が笑う。「あんたのギターを壊した犯人、早く見つかると良いわね。心から、そう思ってる。手負いに勝ったって、嬉しくなっていうじゃない? 今そんな気分よ」

 とにかく由麻が犯人ではないことだけは、彼女の言葉を聞いて理解できる。

 オーナーの挨拶が終わって、部長の挨拶、顧問の挨拶。そして締め。

 客が、帰っていく。

 私も立ち上がった。

 ひどい忘れ物があるような感覚を、無理やり持ち上げて。



 先生、紗良、美保子と駅に向かった。先生は別に電車に乗る必要はなかったが、大人だからという理由で私達を見送りに来た。てっきり顧問の船元と、更に別の店に飲みにでも行くのかと思ったけれど、船元がさっさと帰る様子を店から出る時に確認した。無責任な顧問だな、とも思った。

「じゃあ奈津乃ちゃん、また明日、レッスンでね。ギターはその時直しましょう」

 言われて思い出した。翌日にそんな予定が入っているのを忘れていた自分を恥じた。

「はい。一日くらい我慢できます」

「休むのも大事って言うでしょ」先生はそれから、思い出したように付け加えた。「そうだ。その時に教えるわ」

「何をです?」

「今日の事件の犯人」

 だったら今すぐ教えてくれても良かったのに。文句の一つもぶつけたくなったが、とにかく教えてくれるというのなら、私は従う以外にない。

 整理がつかない、と彼女は言っていた。私なんかでは収集できないほどの情報量が、彼女の頭の中に埋め込まれているのだろう。

 先生と別れて改札を抜けて、ホームに降り立った。美保子と紗良は私を気にかけてくれた。普段より入念に、私の演奏を褒めてくれた。そんなことをされたって、もう何も感じなくなっているっていうのに、私を蘇らせる儀式みたいに、彼女たちは私を労い続けた。

 電車に乗ると、道路に寝そべるような孤独を感じた。これから、明日のレッスンの時間まで、私はずっと一人だった。ギターの死体とも呼べるものを、背負いながら電車を降り、帰りの道を歩いた。

 街灯の少ない道は歩き辛い。そんなに深い時間でもないというのに、家から明かりが漏れている住宅も少なかった。

 息が切れてきた。酒が回っているせいもあるのかもしれない。普段は、面倒だし変な出費だから一滴だって飲まない。もう成人しているというのに、母親にそんなところを見られでもしたら、何を言われるのかわからなかった。不良娘が、と私をぶつのかもしれない。

 家に帰ると、また母親になにか言われそうだったから、さっさと部屋に逃げ込んだ。風呂なんて、母親が寝た後に深夜にこっそり入ればよかった。今、母親の顔を見れば、本当に殺してしまう恐れだってあった。

 ギターをケースのまま置いて、ベッドに横になった。

 眠った。



「こんにちは、奈津乃ちゃん」

 昨日は結構飲んでいたと思ったせれな先生だったが、いつもと全く変わらない様子で私を出迎えた。私は待ちわびた気持ちを捨て去ることが出来ないで、一瞬靴のまま室内に上がりそうになった。

 レッスンに使う部屋ではなく、リビングに私を通すと、せれな先生はいつものようにコーヒーを淹れた。飲みたくなかったし、さっさと犯人を聞かせて貰いたかったのだけれど、なんだかせれな先生を邪険にするみたいだったので、それも口にできなかった。ただただ待った。

 先生は、何の前置きもしないで話し始めた。

「結論から言うと、犯人は美保子ちゃんよ」

「み…………え、なんですって?」

 私は、耳を疑ってコーヒーをこぼしてしまいそうになった。

 そんな私を笑いながら、先生は続けた。

「美保子ちゃんしかいないでしょ? 容疑者は、彼女の目撃証言から二人に絞られた。それが長浜さんと堀切さん。でも昨日も言ったけど、彼女たちは犯人じゃない。犯行時刻の関係から、だったら残る容疑者は一人しかいない。美保子ちゃんよ」

「そんな……美保子は、そんな子じゃないです」

 私が訴えると、先生は指を立てた。

「じゃあ、最初から説明するわね。奈津乃ちゃんが、自分のギターがあんな風になっているのを発見した時間が、十九時五十五分ぐらいだったわよね。そしてその前、紗良ちゃんがギターの無事を確認したのが、十九時三十分。自ずと、この二十五分の間に、控え室への通路を通った人間が容疑者ってことになるわよね?」

「そんなのはわかってますよ」

「そして、通ったのが長浜さんと堀切さんなんだけど、これは除外される。証拠はバイト君の証言。それが嘘だったらわからないけど、とりあえず信じましょう。バイト君は彼女が控え室に来て、ドラムスティックを持っていくのを見ているわ」

「ギターを壊していたのを、そのバイトに見られて、逆にそう証言するように長浜が言ったんじゃないんですか?」

「バイト君にそんなメリットはないし、ちゃんとそう証言してくれるっていう保証もないもの。変なリスクを負うだけだわ。彼女は除外していいと思う。ナットが彼女の席の近くに落ちていたってことも加味すると、考えづらいわ。ナットなんて、さっさと捨てれば良かったのに」

「……じゃあ堀切はどうなんです?」私は眉をひそめながら言った。「長浜はいいとして……あいつのほうが怪しくないですか。先生、昨日言いましたよね、ちゃんとした証拠を見つけるって。見つかったんですか?」

「彼女は色盲だったのよ」

 色盲?

 聞いたことがあるが、それがどう繋がってくるのかよくわからなかった。

「赤色が見えないのよ、彼女は。黄色っぽく見えるんじゃないかしら。昨日、彼女がパスタを食べてるの、見たでしょ? トマトが嫌いなのにトマトを避けないで、気づかずに食べようとしていた」

「そういえば、そんなことがあったような……」

「トマトを食べてしまいそうになったのは、赤色が見えなかったから。長浜さんが指摘したわけだから、彼女は色盲のことを知っているの。普段から注意してるんでしょうね」

 私は頭をかいた。だからどうしたっていうのか、見当もつかなかった。

「……色盲がなんだっていうんですか?」

「彼女が犯人だとしましょう。もしもよ?」先生は念を押した。「黄色と赤の区別がつかない彼女が、控え室に行って何を目にすると思う?」

「それは……荷物とか、スタンドに並べられたギター……私のやつとか……」

 あ、と気づいてしまった。

 私の顔を確認すると、先生は続けた。

「あなたのギター、つまり赤いES335と、オーナーのギター、黄色いES330が同じ部屋に並べられているのを見たのよ」

「……っていうことは」

「ええ。彼女は、あなたのギターとオーナーのギターの区別なんてついていなかった。だってこのふたつのギターは、内部構造などが違っても、素人目で見れば色が違うだけで、ほとんど同じギターなのよ。ギター知識に疎いうえに色盲まで患っている彼女が、あなたのギターの弦を正確に切断できるとは、ちょっと思えないんじゃない? 間違って、オーナーのギターなんて切ってしまったら、ただ事じゃないわよ」

 船元が言うように、そうなるとオーナーは、学生全員を殴り倒すぐらい怒ってしまうのかもしれない。

「故に、彼女は除外される。長浜さんが指示して、堀切さんにやらせたという仮説も無理があるわ。色盲のことを知っていたのであれば、堀切さんを行かせるわけがないもの。この二人は、完全に犯人じゃないわ」

 自分の恥部を見せられている気分だった。

 彼女たちが犯人であってほしいという気持ちだけが、ずっと先行していた。

「それから、事故があった時間帯から考えると、外部犯でもないわ。窓から侵入するしかないけれど、あんな人が集まっている中で、二階の窓によじ登ろうとするほうが目立つわ。そして窓は普段閉じてあった。中から開けない限り、侵入なんてもともと出来ないわよ」

「…………」

「そして残るのは、美保子ちゃんだけよ」

 せれな先生は、それでも釈然としない表情を浮かべていた。

「……なんで美保子が、私のギターを……」

 いつも近くにいた人間から、明確な悪意を感じると、身悶えするような恐怖を感じた。

「……多分、長浜と堀切は、本当にあなたに嫌がらせをしようと思ったのよ」せれな先生は、呟くように言った。「あの古いシールドがあそこに残されていたのは、それをあなたのものとすり替えようとでも考えていたからじゃないかしら。あんなシールドでライブなんて出来ないもの。それを……多分だけど美保子ちゃんは聞いてしまったのよ」

「…………」

「だから……あなたに恥をかかせたくなかった美保子ちゃんは、あなたにライブに出てほしくなかった。あなたに直接言っても、多分聞かないし、長浜さんたちと喧嘩でもするでしょうから、お店や演奏会のことを考えると、それも出来なかった。そこで考えついたのが、ギターの弦を切ってしまおう、という発想だった」

 美保子の気持ちを、考えてみた。

 そうか。

 私のことを思ってくれたのか……

「弦を切るだけだったら、新品に交換されればライブは可能よ。それだけ満足の行く結果にはならない。だからナットも外した。そうすれば、ジャックの本体はボディの中に落ちる、つまり修理が面倒になるわけ。別のナットも必要だしね。あなたのことが嫌いだとして、だったらなぜギターを壊してしまわなかったのかという点を考えると……美保子ちゃんに悪意なんてなかったの。あなを守ろうとしただけなんだわ。ナットを長浜さんの近くに落としたのも彼女で……なるべくなら、長浜さんに疑いが行くほうが良いと思ったからよ」

 ……まったく、

 だったらそう言ってほしいわよ。

 私は昨日までの鬱屈した気分が嘘だったかのように、急に湖に差す日光みたいな心境に変わった。

 美保子……

 私は、一人で悩んでいた彼女を、今すぐにでも抱きしめたくなった。あの茶色の髪の毛に頭を埋めたくなったし、華奢な身体を包み込みたくもなった。

「先生……美保子に、会わないと」私は焦燥すらも感じながら、言う。「レッスン、明日でも良いですか?」

 私は訊いた。

 せれな先生は頷いた。

「ええ……それでも良いわ。会ってあげなさい」

「はい。でも美保子……そんなことを考えていたなんて、全然気づきませんでした」

「そうね」

 先生は、私から視線を逸らせて、窓の外を一瞥しながら、そして一言付け加える。

「まあ、最大限好意的に解釈すれば、だけどね……」



 空が曇っていた。

 私は美保子を喫茶店に呼び出した。駅前にある、比較的居心地の良い店だった。以前、紗良に連れられて訪れたことがあったし、由麻も連れてきたことがあった。

 店内は四席ほどのテーブルセットしかない。あとはカウンターが数席。こぢんまりとした、いかにも個人経営らしい店構えだった。スピーカーからは、何故かハードロックが薄い音量で流れていた。店に適合しているとは思えなかったが、そのちぐはぐさが癖にならないでもなかった。

 微妙な時間だ。お客は誰もない。美保子は私の正面に腰掛けて、一息をついた。顔面の左側を、窓から差し込む光が照らしていた。曇っているというのに。

 この店も空気清浄機がついている。あのオーナーと同じ、花粉症だろうか。

 私達は、しばらく下らない雑談をした。さり気なくあのことにも触れようと思ったけれど、自分から切り出すのが怖かった。せれな先生の推理を彼女に聞かせると、どんな反応をするのか、予想もつかなかった。

 いつもと変わらない私達がそこにいた。外から見れば、私が彼女にギターの弦を切られたなんて、誰も想像すらしないのだろうし、美保子も私が真相を知っているなんて、思っているのだろうか。

「でも、一体だれが犯人なんだろうね」

 と、美保子が不意にそう口にした。心配そうな表情を向ける。

 犯人が美保子であることを知っている私は、とりあえず微笑み返すことしか出来なかった。何も言えない。私のためにしてくれたことなのに、口が開かなかった。

「早く見つかると良いわね」

 彼女はケーキを食べる。

 そこで、

 私の中にある考えが一つ浮かんだ。

 弦を切ったのが彼女で間違いない。

 だけど、じゃあ、本当に長浜と堀切は私を陥れようとしたのだろうか。

 古くなったあのシールドは偶然そこに落ちていただけで、

 そして推理をした先生の言葉。

 ――最大限好意的に解釈すれば。

 あいつらが私にいたずらを仕掛けたかった証拠なんてないとして、

 好意的に解釈しないとすれば、

「どうしたの、奈津乃」

 春の陽気みたいに、美保子は私に微笑みかけた。

 まさか。

 答えをはじき出したくなかった。

 ――この女が、実は私のことが嫌いで、恨みを持って弦を切断して、ライブに出られないようにしたかった。

 そうだとしても、全然、推理は成り立つんじゃないのか。

 厚い雲が、矮小な太陽をさらに覆い隠した。

 視線を、コーヒーから離せなくなった。

 手が震える。

「雨が降りそう」

 呟いた美保子は、そっと窓の外を見た。さっきよりもずっと暗くなっていた。

 揺れた髪に隠れた彼女の顔が、月の裏側みたいに、見えなくなった。

 私達の間で、空気清浄機が音を立てて動いている。

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