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 オーナーは、体格に頼もしい部分のない男性だった。

 頭は丸坊主にしていたが、そこからにじみ出る厳つさや威圧感は微塵も感じられなかった。僧侶や囚人だとか、そんな印象のほうが強かった。暑いのか、半袖の黒いシャツを着ていた。街を歩いていると、さっと二、三人くらいは似たような人物とすれ違うだろうという風貌としか言いようがなかった。

 その彼が今、私やせれな先生、そして船元をカウンターの前に集めて、小声で注意を促してきていた。その顔は、怒っているようにも焦っているようにも見えた。

「ちょっと、騒がないでって言いましたよね……?」オーナーが、船元に耳打ちするように言う。「さっきみたいな騒ぎがあると、困るんですよ。お客さん、帰っちゃうし」

「すみません」船元は顧問らしく口答えもしないでさっさと頭を下げた。その様子が、私には気に入らなかった。「網城さんも、謝って」

 なにか言ってやろうと思ったけれど、大人の男性に文句をぶつけるような勇気が私にはなかった。黙って頭を下げようとすると、せれな先生が私を止めた。

「待って下さい、この子は被害者ですよ。黙ってろって言うんですか?」

「そういうわけじゃないけど……演奏会で会場を貸してやってるんだから、言うことくらい聞いてもらいたいんですよ。無事に終えたいでしょ? ただでさえスケジュール変更があるっていうのに……」

「終わってからお前たちでやれってことですか?」せれな先生は腕を組んだ。「来客の住所まで把握できるんですか? 帰っちゃったら、誰がやったかなんてわからないでしょ?」

「それは……」オーナーは口ごもる。「とにかく、静かにしててくださいよ。うちだって、経営が厳しいんですから、今日みたいな催しが稼ぎ時なんですよ。いつも来ないお客さんも来てくれるし……。それにただでさえL女子大に睨まれてるんですから」

「睨まれてるって?」

 せれな先生が言及すると、オーナーは口を滑らせたのか黙り込んでしまった。

 かわりに、船元が先生に説明する。

「数年前に揉めたのよ、この店。うちの大学と」少し恥ずかしそうな彼女。「毎年ちゃんと申請してるんだけど、一回だけ学校に許可取らないで演奏会開いて、しかも夜遅くまでやってたから、それをオーナーが追求されたの。その時はなんとか収まったんだけど、次なにかあったら、それこそ演奏会がなくなるか、最悪の場合、このお店が潰れるかまでは行くんじゃないかしら」

 そんな事があったとするなら、このオーナーのふざけた態度に対しても、納得を覚えないでもなかった。それを許せるかどうかは、全く別の問題だけれど。

「うちの大学、結構地域と密接だから」船元は面倒くさそうに髪を触る。「そこと揉めてる店なんて、周りから見たら、単なる悪にしか見えないでしょうね」

「でも、それで納得なんて出来ないでしょ」せれな先生はオーナーを睨んだ。

「……だから、頼みますよ」弱々しい声を急に出しながら、オーナーは頭を下げた。「弦の代金も、ナットの代金も、修理代も出します。だから、その、大人しくしててくださいよ」

「嫌ですよ!」ついに私は我慢ができなくなった。「明らかに、誰かが私のギターを傷つけたんですよ! おかしいですよそんなの!」

「まあまあ、奈津乃ちゃん」

 私はせれな先生になだめられた。それだけで、少しの怒りが足先から地面にこぼれ落ちるみたいだった。

「騒がず、目立たなければ良いんですね」

「……そりゃ……」

「良いんですね?」

「…………はい。他のお客さんの迷惑にならなければ」

「じゃあ奈津乃ちゃん」せれな先生はにっこり笑った。「一旦外に出ましょう。そこなら、目立たないわ。良いですよね、オーナー?」

「……そうですね」

 私はせれな先生に連れられて、外へ出た。受付の人間に、お帰りですかと尋ねられたが首を振った。



 店の外は、ベランダのような形になっていた。

 私の胸くらいまでの手すりが、この階全体を覆っていた。手すりと天井までの間にはなにもない。外から風が吹き込んで来て、涼しい。手すりから身を乗り出すと、決して華やかではない夜景が見えた。

 この階にはこの居酒屋しか入っていない。あとは階段と、エレベーターがあるだけだった。ほとんどの人間が、階下のコンビニに立ち寄るだけで終わるので、もしかすればこの店の存在自体が、一般的にはさほど知られていないのではないか。そんなことを心配したって、意味なんてないのだけれど、私はそこまで思いを巡らせた。

「全く、なんなのよ、あのオーナー。あんな男だったかしら」せれな先生は、手すりに背中を預けて、暇そうに真上を向いて身体を逸らせていた。気持ちよさそうな声を漏らしながら。「警察に駆け込んだら、注意の一つぐらい受けるでしょうね。じゃあ行ってみましょうか、警察」

「行きたいくらいですよ」

「でも、そんなことをしたらオーナーが困るし、店が終わってしまうかもしれない」せれな先生は長い髪の毛をいじる。「店の命運なんてどうだって良いんだけど、ギター本体には傷すら増えてなかったわよね。取り替え可能な弦と、ナットだけ。器物損壊だとは思うけど大した事件だとは思われなさそうね」

「…………」

 私はふてくされて、階下の人間に唾でも吐くつもりで眺めた。私の感情は、こんなことをしても収まらないのはわかっていたのに、それでも無関係の他人にぶつけないといけないような強迫すら覚えた。

 何故か、コンビニの前に結構な人だかりができていた。なんだろう。

「先生、あれ、なんでしょう」

「何?」先生は身体を手すりに向けて、下を覗き込んだ。

 よく見る。止まった車と、その前で話す人。それから、横たわっている人間の足先のようなもの。

「たぶん、事故ね」驚いたように彼女は言う。「店にいたら、全く気が付かなかったわね。救急車も停まってるわよ。警察もいるわ。私達も密告しようかしら」

 店内は当然ジャズがずっと流れているから、音では気が付かないだろう。見事に真下にある店だと言うのに、不思議なものだった。

「この事故、いつ頃あったんでしょう」

「さあ。今は、二十時半か。大きな事故じゃないみたいだけど……店にでも突っ込んだのかしら。そうなると結構拘束されるのよね……十九時ぐらいには起こってたっておかしくないんじゃないかしら」

 経験があるかのように言うせれな先生のことが、少しだけ怖くなった。

「さて、じゃあ念の為調べるわ」

「何をです?」

「トイレの窓のことよ。鍵が開いてたんでしょ? それを美空にでも調べてもらうわ。店の外にいながら調査ができるという構図になってるわ」

 と言って彼女は突き当たりの手すり、つまり建物の側面に当たる部分から身を乗り出して、そこにある窓を確かめた。指で、地面からの距離をなぞっていた。まさか、本当にここから人が侵入して、私のギターを傷つけたことを証明でもするのだろうか。私も覗いてみたが、決して不可能とは言えない高さだった。

 続いて彼女は、スマートフォンを使って、船元美空顧問に電話を掛ける。

 先生は、トイレの窓がいつもどうなっているのかを従業員にでも聞いて調べて欲しい、と頼んだが、船元は『いつも来てるから、私でもわかるわよ』と答えた。

『いつもきっちり閉じてるはずよ』

「そうなの」

『オーナーが花粉症持ちで、あんまり換気をしたがらないの。開いてたって言うなら、誰かの閉め忘れでしょうね。オーナーが見たら、怒るとまでは行かないけど、鼠でも踏んだ顔をするんじゃないかしら』



 由麻が店の外に出てきた。

「奈津乃……と、ああ、えっと、奈津乃の先生」彼女は私達を見つけると、少しだけ面倒そうに口を開いた。「もうすぐ私の出番なんだから、手短に頼むわ」

「中兼由麻さん、訊きたいことがあるわ」

 せれな先生は由麻に言う。こういう時の彼女の態度は誰に対しても、一流の先生であるかのように、私には見えた。本当に、由麻の先生であるかのようだった。

「長浜さんが控え室に入ったのって、何時ぐらいだった?」

 夜風で髪が揺れた。まだ階下の喧騒が聞こえてくる。

 由麻は、当然そんな質問をされると予想でもしていたかのように、考える時間すら設けないですらすらと答えた。

「確か、十九時四十分ぐらいですね。奈津乃のギターになにかしたかは知りませんけど、本人はドラムスティックを取りに行ったって言ってました」

「あの子、ドラムだったわね」

「はい。見てるうちに叩きたくなって、席で練習したくなったみたいで。見る時は黙って見てろって言いたかったんですけど、まあ本番も近かったので、特に注意はしませんでしたね」

「控え室に行ってすぐ戻ってきたの?」

「はい。一分もなかったと思いますけど」由麻は頭をかいた。「奈津乃のギターの弦を切断したり、ナットを外したりする時間がなかったわけではないと思いますけど」

 その短時間で、あれだけの犯行ができるのか。私は自分が実際にできるのかどうかを、頭の中で思い描いた。ニッパーは、控え室の誰かのギターケースにでも入っているとして、それを借りて、弦を全部切断して、ナットをくるくると回して外した。不可能ではない気もするが、長く時間が掛かり過ぎると、すぐにおかしいと思われるリスクもそこには存在した。

「一分ぐらいね」せれな先生は呟く。「手際が良ければ出来なくはないと思うけど、彼女、ギターには詳しいの?」

「人並みですよ。私が、ギターぐらい知っておいたほうが良いって教えてるんです。堀切さんほどじゃないけど、あの子もドラムのことばっかり詳しくて。教えたら覚えてくれるんですけど」由麻はそして、私達を何処か軽蔑するような視線を向けた。「あの、あれでもバンドメンバーなんで疑われるのはいい気分じゃないんですけど……そりゃ、奈津乃とそんなに良い関係ではなかったと思うんですけど」

「ああ、ごめんね。疑ってるっていうか、話を聞いて、容疑者から除外しようと思ってるの」言い訳なのか本心なのかわからないことを、先生は言う。「堀切さんは、どうして?」

「普通にトイレって言ってました。控え室には、近寄ってないみたいです」

 嘘だ。と私は思う。だってトイレットペーパーが減っていなかったから。本当は何をしていたのだろう。それを訴えようと、せれな先生をちらりと横目で見る。何を考えているのかわからない顔をして、先生は由麻の話に頷いていた。

 由麻は私の隣で、手すりに身を乗り出して、コンビニを覗いた。

「うわ、本当だわ」

「事故らしいけど」私は教える。

「ええ、そうらしいわ。あき……堀切が言ってた」

「あいつ、事故のこと知ってたの?」私は由麻の顔を覗き込んで尋ねた。「なんで?」

「さあ……」由麻は驚いた顔をする。「あの子、スマホを触ってたから……人からメールで教えてもらったんじゃないの。私なんて、全く気が付かなかったわ」

「何時ぐらい?」

「十九時過ぎってところだったかしら。あきが、下のコンビニで事故があったって言うから、あんたの知り合いでも巻き込まれたの? って訊き返したわ。でも、そうでもなかったみたい。だから、本番前に変なことに気を取られないでって言ってやったわ。彼女もそれきり話題にしなくなったし、オーナーも何も言わなかったから」

 堀切は、事故のことを知っていたのか。

 その事実が、何につながるのか、私には見当もつかなかった。せれな先生も、さして重要視していないような表情だった。

 由麻は私達の様子を見て「本番だから戻っていいですか」と尋ねた。先生は笑顔で了承すると、由麻は私を向いて「凄いプレイするから、あんたもちゃんと見ててよね」と言い残して去った。

 悪いけれど、とてもライブを鑑賞しようとは思えなかった。



 せれな先生は、また船元に電話を掛けた。

『なによ』と私の所まで、その不機嫌そうな声が聞こえた。どんな面構えをしているのか、想像がつくようだった。

「この店の喫煙所って、どこ?」

 その質問を聞いて、私は思い出した。控え室に落ちていた煙草の吸い殻。古くなったシールドの近くに落ちていた。

『せれな、あんた煙草でも始めたの? 健康に悪いから辞めなさい』

「違うわよ、もう。気になっただけよ」

『店は全席禁煙だから、煙草は吸えないわよ』船元はまだ叱るような口調だった。『従業員は、休憩所があるから、そこで吸ってるわ。打ち合わせで来た時に、見たことある』

「それって、あの控え室?」

『そんなところで吸うわけ無いわよ。あそこは、演奏会のときだけ控え室という名目が与えられるだけで、実際はただの物置みたいなもんよ。見つかったら、オーナーが真剣に怒り狂ってテーブルの一つくらい叩き割るわ』

 船元の中で、オーナーはどんなイメージなのか、少しだけ気になった。

『厨房の先に裏口があるの。そこを出たところよ。従業員は店の正面からじゃなくて、そこから出入りしてるみたい。外階段がついてるから』

「そうなのね」せれな先生はふーんと鼻を鳴らした。「控え室に煙草の吸い殻が落ちてたんだけど、それってどういうことだと思う?」

『本当? どういうことよ』船元はしばらく黙っていたが、やがて返事をする。『あー、確かスタッフに、不真面目そうなのが一人いるわ。大学生のバイトでしょうね。忙しいのにマイペースだってオーナーがネギを刻みながら言ってた』

「その子、呼んでもらって良い?」

『え? 嫌よ。怖いもの』

「頼むわ。私と美空の仲でしょ」

『腐れ縁にも程があるわ』船元は心底嫌そうな声を漏らしてから、言った。『わかったわ。ちょっと待ってて。外に行ってもらったら良いの?』

「うん。ありがとうね」

 電話が切れた。

 しばらくして、店の中から男が一人出てくる。

「……なんすか?」

 明るい茶髪で不衛生そうだが、何処か駄犬のような親しみを感じないでもない顔つきだった。不真面目そう、という船元の言い方にも、私は納得した。

「あなた、控え室で煙草を吸ってた?」

 単刀直入に先生が切り出すと、男は「げ」と漫画みたいな声を腹から出した。

「……もっと上手く捨てるんだった」男は悔しげに言う。

「吸い殻が落ちてたわ」

「いや、ね? 焦ってたんですよ、俺も。いつもはね、携帯灰皿に全部突っ込むんですけど、人が来たもんだから、慌てて床で踏み消したんすよね」男は悪びれもせずに、ゲームで失敗した程度の認識しか持っていないぐらいの、軽い話し方だった。「お願いだから、黙っててくれってお願いしたんですけど、あんたらも、もしかしてオーナーにチクるつもりですか……?」

「違うわよ」せれな先生が笑顔で首を振る。「あなたがサボっていようが、私にはどうだっていいもの。ところで、誰と会ったの?」

「えっと、お客の……あの金髪の女の人っすよ」

 金髪という単語だけでピンときた。

 長浜恵子だ、と。

「あの人に頼んだんすよね。でも興味なさそうでした。『はいはい、わかったわ』としか言いませんでしたよ。それから棒みたいなのを二本、控え室から持っていっただけです」

「確かなの?」

「間違いないですよ。あ、あんたたちも、内緒にしてくださいね?」

 男はそう言い残して消えた。

 けれど彼の証言を鵜呑みにするなら、長浜が私のギターを殺したという仮説が、潰えてしまうことになる。

 犯人は、長浜ではない?

 じゃあ堀切だ。私のターゲットは、堀切に切り替わっていた。

 そう決意していたのに、せれな先生は諦めたように、手すりに持たれていた。

「奈津乃ちゃん、聞いて」

「……はい」

「これではっきりしたわね。長浜さんと堀切さんに、犯行は不可能だって」



「そう、なんですか……?」

 私は先生の言うことを、信じたくなかった。いや、心の何処かでは、あの二人には不可能だったという推論を、立てていたのかもしれないが、私にとって、犯人があの二人であるのが最も都合が良かった。意図的に、無視をしていたに過ぎない。

 せれな先生はぼーっと空を眺める。星なんて一つも見えないのに、何が面白いのだろう。

「ええ。多分……間違いないと思うけど」せれな先生は、私に気を使ってか、はっきりしない風な口調を保っていた。「あのバイト君の証言を鵜呑みにするなら、長浜さんは本当に控え室にドラムスティックを取りに行っただけ。というか、美保子ちゃんがあそこを通る人を全員見てるのに、変な危険を冒すとは思えないわ。彼女じゃない」

「じゃあ堀切ですよ。トイレに入ったのに、紙を使ってなかったじゃないですか」

「それは簡単。見て」

 せれな先生は下を指差す。まだなにも状況が変わっていない事故現場がそこには広がっている。

「堀切さんは、事故のことを友だちから聞いたのか、知っていた。少し、ミーハーなところでもあるのでしょうけど、彼女はそれが気になった。部長さんに注意を受けるくらいに。一応、自分がいる店の真下で起こったことですから、気にならないほうが異常だとも言えるけど、とにかく彼女は全てを忘れて本番に集中しようとした。で、思いついた」

「……何をですか」

「トイレの窓を開けて、下を覗こうとしたの」

 私は声を漏らした。あの位置から見えるとは思えないが、気になっているのなら唯一の窓であるトイレから、首を伸ばして確認ぐらいはするのだろう。窓が開いていたのも、結局はそういうことだった。馬鹿な彼女は、トイレで現場を確認しようと窓を開けたが、閉め忘れたというだけの話だった。

 そんな簡単なことだったのか。

「で、でも……その証拠はあるんですか」

「まあ、あるけど、まだはっきりとしないわ」せれな先生が、首を振った。「ギターを切ることが出来なかったのは確か。その証拠は、また後で説明するわ」

 変に死刑宣告が延びたような気分になった。今すぐここから飛び降りて死んだほうが、気持ちがいいのかもしれなかった。ふわりと頬を優しく撫でる風が、痛みを和らげてくれるだろう。

「じゃあ……犯人は誰なんですか」

「それはまだわからないわ」

 その顔を見る。眼鏡の奥の瞳が、私を捉えていなかった。はぐらかしているようにも見えたし、本当にわからないようにも見えた。

「でも探してみせる。だから、安心して。全てがわかったら、堀切さんに反抗が不可能だった証拠と一緒に、あなたに真っ先に教えてあげるわ」

「……はい、ありがとうございます」

 とにかく私は、この人に全てを委ねる以外に、選択肢はなかった。そんなのは、毎度のことだった。私に、事件解決能力が微塵も備わっていないなんて、身体の皮膚が剥がれ落ちるくらい、私はよく理解していた。

 一体、誰が私のギターを……

 外部犯だろうか。私には、そのくらいしか思いつかなかった。



 私はまたトイレに行っていた。トイレの窓を、改めて確認する意味もあったが、単純にいたたまれなくなったからだった。

 店の中に戻ると、由麻のバンドが演奏を始めようとしていた。それを黙って聞いていても良かったのだけれど、彼女とは楽譜の上で殴り合うような関係だと思っているので、私が万全でなかったという事実と、彼女が楽しそうに完璧に演奏をするだろうという予測が、私を酷く苦しめ始めた。

 だからトイレに逃げ込んだ。由麻に、ちゃんと聞いてくれって言われたのに、向き合う精神状態には、全くなれなかった。

 窓から首を伸ばす。コンビニは、見えそうで見えない。人だかりくらいは確認できるだろうけれど、それだけだ。いくら堀切が馬鹿でも、ここからわざわざ現場を見ようと考えるだろうか。でもせれな先生はそう言った。さらに、ちゃんとした証拠も見つけると宣言した。

 窓を閉める。

 由麻のトランペットの音が響いてくる。彼女たちも、ラウンド・ミッドナイトをセットリストに入れていた。話し合ったことは一回もなく、偶然被ってしまった以上の意味合いはない。

 私だって……

 私だってギターがちゃんとしていれば、オーナーのギターでさえなければ。由麻ぐらいの演奏をすることなんて、難しいわけがない。だって私は、あのせれな先生の生徒だからだ。一介の部員とは違うに決まっている。そんな証拠は、ないのだけれど。

 由麻……。

 私のことが好きではないとは言った。冗談だと思った。彼女は目撃されていない。でも、本当に私が嫌いで、精神的動揺を与えて私の演奏が失敗するとして、それで一番喜ぶのは、由麻ではないだろうか。

 でも、言い切れるほどの材料もない。そもそも、彼女は昔からアンフェアな人間ではなかった。きっと、私が本調子でなかったとしたら、由麻もその分手を抜いて吹くのかもしれない。

 長浜と堀切……。

 犯人ではないのだろうか。いや、待て。まだ証拠が……せれな先生も気づいていないだけで、彼女たちが犯人であることを示す重要な証拠が、この店の何処かにあるのかもしれない。あるに決まっている。

 あいつらを、陥れないと……なにか探して……

 そこまで考えて、私ははっとした。

 何を考えている。これでは、あいつらと同じじゃないか。

 私は首を振って、便器から腰を上げた。



 由麻のバンドは、掛け値なしに素晴らしい演奏だった。気構えしていたが、いざ聞いてみると、そんな素直な感想が、口をついて出るようだった。

 せれな先生は、さっきからビールを飲みながらなにかずっと考えていた。そういう時は、邪魔をしないほうがいいと感覚で私はわかっていたので、黙ってスマートフォンを触って時間を潰した。

 あとは、オーナーのバンドだけか。彼は楽しそうに、ステージで準備をしていた。彼と彼のギターが上手く合致するイメージを持てなくて、彼がギターを弾く姿がどうしても想像できなかった。

 由麻が私の席に来る。カクテルを片手に持っていた。

「どう? 奈津乃。私の演奏」

「……良かったわよ、別に」

 私が暗い顔でそう告げると、彼女は同情を私に向けた。

「まあ、あんただって、演奏自体は良かったわ。ギターが本調子なら、私はあんたに負けてたかもしれない」

「……惨めになるから、やめてよ」

「ああ、ごめんね」

 彼女は私に謝った。そして隣に座る。

 オーナーのバンドの演奏が始まるので、二人で首をそちらに向けた。

 編成は、ギター、ベース、ドラム、ピアノ、そしてサックス。大学生バンドと比べれば、かなりの大所帯に映った。その音色の豪華さから言ってしまえば、私達なんてどれだけテクニックを重ねようと、吹けば拡散していく塵埃とあまり変わらないような気がしてきた。

 オーナーは、ギター歴が長いのかそれなりに上手かった。それだけだと言ってしまえばそうだったが、とりあえず心の中であっても、私は褒めた。

 セットリストは普通だった。往年のジャズ・スタンダードを並べただけだ。

 聞いていると、悲しくなんてないのに、私はさらに自分が小さい存在であるかのように感じた。私がこんな目に遭っているのに、世界っていうのは何も変わらないのだと改めてそう思った。

 と、突然せれな先生がビールを飲み干して、天を仰いだ。

 何をしているのだろう。私と由麻は彼女を見つめた。

 そして先生は信じられないことを口にした。

「奈津乃ちゃん。今日はこのまま帰りましょう」

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