2/4
控え室には、被害者の私と死んだギターと、せれな先生と紗良と美保子だけが集まっていた。
ギターは、あの時確認した時と全く同じ姿でそこに存在していた。まぶたを閉じれば実は気の所為だったんじゃないか、という期待を捨てずにはいられなかったが、どれだけ視線を逸らせても、ギターは死んだままだった。
「じゃあ、美保子ちゃん」
部屋の中央に立って、ずっと掛けている古びたメガネを触りながら、せれな先生はスマートフォンを片手に持ちながら、まずは美保子に質問をした。
「あなた、ずっとこの部屋の外にいたわよね」
「はい」入り口の近くにいた美保子は、壁にもたれながら頷いた。
「どうして?」
「あんまりこういう場に慣れてなくて、飲み会でも居心地が悪いなって思っちゃうんです。嫌ってわけじゃないですけど、特に本番前は緊張しますし。控え室前の通路に、短いベンチが置いてあるんで、オーナーにも許可をもらって座ってました。駄目だったら、紗良のところにでもいるつもりでした」
「じゃあ美保子ちゃん、控え室に入る人を見てるってこと?」
「そうですね、私の前を通る必要がありますから、覚えきれているかわかりませんけど」
その言葉に、私の心に陽が差したような気分になった。
だったら、犯人の特定なんて容易いんじゃないか。
「なるほどね……」せれな先生はスマートフォンにメモをした。「えっと、じゃあ奈津乃ちゃん」
「はい」急に呼ばれて、私は姿勢を正す。自分のギターのそばに立っていた。
「あなたに恨みを抱いている人間は?」
「……恨みですか」
そんなの考えるまでもなかったが、わざとらしく時間を取ってから、ひねり出したように私は口にした。
「私、あまり部内で好かれていないと思うんです」
「それは、どうして?」
あなたの推理を勝手に披露して注目されています、と正直に言うつもりにもなれなかったので、顧問の船元と仲の良い外部講師に気に入られている、卓越した技術をひけらかす目障りな女だからだ、という設定にした。まあ、間違いでもないだろうと思った。
それを聞いたせれな先生は、否定するでも驚くでも興味を示すでもなく、小さく唸って機械的にメモを取った。
「あの、銀川先生」と隅でしゃがんでいた紗良が口を挟んだ。「私、本番の前に控え室に入ったんですよ。その時は奈津乃のギターが無事だったんです」
「まあ!」嬉しそうにせれな先生は声を上げた。「いつのこと?」
「十九時半ぐらいです。間違いないと思います」
「奈津乃ちゃんが発見したのが、えっと……」
「二十時ちょっと前くらいですね。テーブルで、五十五分に時計を見てるので」私はすぐに答えた。そんなことばかり覚えている。「だとすると、この時間……三十分間に控え室に近づいた人間が犯人ってことですよね」
「可能性としては、そうね」せれな先生は頷いた。「美保子ちゃん、この時間に控え室に入った人って、覚えてる?」
美保子は腕を組み、考え込む。思い出すと言うよりも、言うべきか迷っているような様子にすら見えた。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……堀切と長浜だけです、私の前を通ったの」
「堀切さんと、長浜さん? 部員?」
その名前を聞いた私は、自然と舌打ちを漏らしていた。
あいつらか。
私といえど、名前を聞いただけで彼女たちの顔は、空中に思い描けるほどすぐに浮かんだ。
なぜなら、彼女たち二人は、由麻のバンドメンバーだったから。
「他には誰も?」せれな先生が、念を押して尋ねる。
「はい。この二人だけでした。一般のお客さんも、この時間帯は誰も通ってません。私、ずっとスマホを見てたから、時間は間違いないと思います。あ、でも、トイレに行ったか、控え室に行ったかはわかりません。廊下の先が暗くなってるんで……」
「通ったのが、あいつらだけなら……」私は低く声を漏らした。「あいつらで確定じゃないの。紗良、今すぐ長浜と堀切を連れてきて」
「まあまあ奈津乃ちゃん」せれな先生が私をなだめた。「まだ判断するのは早いわよ。もっと決め手があればいいけど、今のままじゃ、その二人が控え室に入ったのかトイレに入ったのかすらわかってないわ」
「あの……」紗良が小さく手を上げた。「多分ですけど、トイレには誰も行ってないと思いますよ」
「なにか知ってる?」
「はい」紗良が頷いた。「さっきも確認したんですけど、トイレットペーパーが、私が最後に入ったときから減ってないんです。もう無くなりそうだったんですけど、まだその状態だから、堀切と長浜は、トイレには行ってないと思います」
「それ、確かなの?」
「はい、なんなら、先生にも確認してもらったら」
そう言われると、せれな先生は控え室を出て、トイレに向かった。一分もしないうちに、また私達の前に姿を現した。大事にするなと言われたのに、せれな先生が一番活動的だな、と思った。
「残念だけど、もう使い切ってあったわ」彼女は肩を上げた。「あなたたちのライブ中に、誰かトイレに行ったのかしらね。でも紗良ちゃんが言うように、使い切ったトイレの芯が置かれてたわ」
すると、長浜たちは控え室に確実に入ったことになる。これは、疑うまでもない証拠だろう。そうに決まっている。あいつらは間違いなく、私のギターにいたずらをするために、控え室に入った。その想像をするだけで、腸が煮えくり返るようだった。
そこで、ひとつ疑問が浮かんでくる。
「そういえばさ」紗良も、私と同じことを考えていたようだった。「そこの扉って、なんなの」
控え室の入り口の、真正面には扉があった。その前には、店の経営上必要な資材がいくつか置かれていた。通れないほどではないが、普段から頻繁に使う出入り口にするには、かなり整備がされていない印象があった。
こんな扉、誰が使ってるんだ。
「関係ないんじゃないの」と私は言う。「きっと鍵も掛かってるんじゃないの。使われてないんでしょ」
私が言うと、せれな先生はまた率先して、扉に近づいてノブをひねった。せれな先生こそ、必要があれば服でも脱ぎそうな勢いだった。けれど、私達の期待に反して、鍵はかかっていないようだった。
ノブをそっと戻して、せれな先生は言った。
「この先は、厨房よ。今、隙間から見えたわ。多分だけど、物の様子を見るに、この控え室って普段は物置なんでしょうね。他に部屋がないから、こんな所しかないみたい」
言われてみると、経営上必要そうな資材は扉の前だけでなく、私達が楽器を置いている場所の背後にも積み上げられていた。何に使うものなのかは理解できないが、わざわざこれだけ備蓄してあるということは、保存の利く食材かなにかだろうか。
じゃあつまり、容疑者は長浜と堀切だけではないということになる。
気づいた瞬間、私の安心感が、足で蹴ったように崩れ去った。
「ということは……」とせれな先生。「店の人も控え室に出入りできたってことかしら。また容疑者が広がったわね。どう絞ろうかしら……」
「でも」紗良が控え室を物色しながら言った。「あの時間、っていうか今もですけど、忙しいのにこんなとこに抜け出す余裕なんてあるんですか」
「それもそうね」先生は、紗良の言葉に対して意外にも簡単に折れた。「まあ、店の人のことは、後で直接尋ねてみるわ。問題は長浜さんと堀切さんが、本当にこの部屋に入って、奈津乃ちゃんのギターにいたずらをしたのかどうか。証拠があれば良いけれど、少し探してみましょうか」
彼女の呼びかけに嫌な顔ひとつしないで、私達は殺されたギターの周りを調べ始めた。
きっちりと張っていたはずの六本の弦が、真ん中から切断されて、首吊り死体みたいにペグからだらりと垂れ下がっていた。そんな様子なんて一秒だって直視したくないのだけれど、せめて傷がないかを確かめた。ボディは綺麗なものだった。
多分犯人は、私が今日は演奏できなくなればいいと考えていたのだろう。本当に私のことを傷つけたいなら、ギターをへし折れば良いのに、そうしなかったのは、今日だけはライブに出てほしくないからだろうか。
そこまで導き出すと、どう考えても私の実力に嫉妬するものの犯行だ、と考えるのが一番自然だった。自惚れという自覚はあったが、反証もない。
消えたナットがそのあたりに落ちていないか探してみると、私のギターの後ろから異物が発見された。
「……先生」私は、とりあえず一番信頼できる人を読んだ。「これって、なんでしょう。私のギターの裏に落ちてたんですけど」
それは古くなったシールドと、煙草の吸い殻だった。シールドはジャックの部分が既にくすんでいたし、タバコは二本ほど落ちていた。当然、この部屋は禁煙のはずだろう。換気扇もないばかりか、食品が置かれているのかもしれないのに。
「それは、奈津乃ちゃんのじゃないの?」
「違いますよ」私は首を振る。「私タバコなんか吸いませんし、シールドなら、ギターのケースに仕舞ってますよ」
「嫌がらせの証拠かしらね」
「これがですか?」
「多分、そのシールドは断線してるわ」
指を差される。
私は手に持っていたシールドが、急に毒蛇のように見えてしまって、投げ捨てたくなった。手が犯されていくような感覚すらあった。
「すり替えられるところ、だったんですか……?」
「そうとは言い切れないけど、そんなところにあるのは変よね」
シールドを握りしめる。言われてみると、断線させようと圧力をかけたような痕があるような気がした。タバコでも吸いながら、極めてスナックでもつまむような感覚で、私に恥をかかせようとしたのかもしれない。
私はそれを、床にそのまま捨てる。
べちっと、ムチで背中を叩くみたいな音が鳴る。
やっぱり、誰かが私を陥れようとしているんだ。
せれな先生は何を考えているのか、私には何も告げないまま、私を部屋から連れ出した。控え室には、紗良と美保子が残ったままだった。現場を見張っておけ、という類のことは直接告げなかったが、そういう意味も含まれるのだろうか。
私達が向かったのは、我がジャズ研究部顧問の船元美空が飲んでいるテーブルだった。カウンターの近くにあった。彼女一人しか座っていない。特別扱いなのか、人から避けられているのかはわからなかった。
「はあい、美空」せれな先生は軽い挨拶をする。
「何よ、酒がまずくなるじゃない」
船元は、普段私達に見せる態度からは想像もつかないくらいの悪口を発した。酔っていると言うより、せれな先生とそのくらいの関係であることを、この女は誇示したいようだった。
せれな先生は、私のギターがあんなことになった事件を、小声で船元に教えた。私は、まあ顧問になら耳に入れておいても良いのか、と納得する。
一方で、船本は迷惑そうに返事をした。
「オーナーが内密にしろって言ったのに、なんで私に教えるのよ」
「ちょっと訊きたいことがあるのよね」せれな先生は、船元のテーブルに置いてあるフライドポテトを勝手につまんだ。「美空って、ここによく来てるわよね」
「ええ。常連と言ってもいいわ。私に対して、店の人間の態度が違うの」
「十九時半から二十時の時間帯って、混んでる?」
「そりゃ忙しい時間帯だわ」船本は、どこか呆れた顔を見せながら言う。「この店って、あんまり従業員もバイトも入れてないみたいだから、よく料理の提供が遅れるのよ。オーナーとしては、そこをジャズの演奏で埋めようっていう魂胆なんだろうけど」
あの忙しさから言って、私のギターに手を出す暇なんてない、ということだろうか。そうだというのなら、話は長浜と堀切に疑いを向けるだけで済むというのに。
「じゃあ抜け出して控え室でなんかやる、っていう暇なんてないのね?」
「私は従業員じゃないから知らないけど……そんなことしてたら、もっと料理が滞るんじゃないかしら」しかし船元は首をかしげる。「不可能だとまでは言い切れないけど……でも網城さんにギターに悪いことするっていう動機なんて、この店の人の誰が持ってるのよ」
「そこが問題なのよね」せれな先生は私を見た。「店に知り合いの人とか働いてる?」
「いませんよ」私は首を振った。「この店にも、演奏会でしか来ませんから。今日で三回目ってところです。店の人に恨まれるようなことは、してないんですけど……」
過去二回とも粛々とライブをこなして、後はさっさと帰るだけだった。こういう場に長くいる意味が私にはなかった。先輩や後輩のライブなんて、聞いた所で価値なんてないと思っていた。せれな先生が私を見に来るのも、今日が初めてのことだった。
それから船本は、あまり面倒を起こさないでね、と被害者の私に何故か言って聞かせた。その理由を問うと、
「オーナーとの関係を、悪くしたくないでしょう」
なんて言われた。
私のトラブルが少しだけ関係したのか、由麻の演奏が遅れることになった。理由は準備上の都合、だと告げられた。
その代わりに、後輩バンドが飛び入りで演奏することになった。さっきも、演奏会の開始早々に出演していたバンドだった。まあレパートリーだけは多い連中だったから、邪魔にならない程度の演奏なら、任せても大丈夫そうだった。そのことに対して私達の学年から、文句が出ることもなかった。この後輩たちが、三年から好かれているからだろう。仮に私が彼女たちの立場だとして、図々しくも出演すると名乗り出ていたら、余り目立つなと釘を刺されていたのかもしれない。
そんな彼女たちの上手くも下手でもない演奏を聞きながら、私とせれな先生、そして紗良はテーブルに戻った。美保子も、またトイレに通じる廊下のベンチに戻った。「ごめんね、慣れてないの、飲み会って」と十回は聞いた言葉を、彼女は申し訳無さそうに口にした。様子を見るとサークルで孤立していないか心配だったが、美保子はベンチで音楽に合わせて気持ちよさそうに揺れていた。もしかしたら、ずっと酒が回っていたのかもしれなかった。
まあ、私もせれな先生がいなかったとしたら、きっと美保子と同じような場所で、隅で大人しくしていただろうけれど。
テーブルについたせれな先生は、無粋にもビールを注文した。私は飲む気分じゃなかったので断ったけれど、紗良もハイボールを頼んだ。
なみなみと注がれた生ビールを片手に、せれな先生は私に尋ねた。
「その長浜と堀切の他に、こういうことする子って、誰か思い当たる?」
「そんなの……わかりませんよ。あまり好かれてないっていう自覚があるだけで」私は考えもしないで答えた。「他人が何考えてるなんて、私は知りませんけど……長浜と堀切は、私のことが嫌いなんだと思います。これは……部長と私の折り合いが悪かったので、彼女のバンドメンバーのこの二人は、未だに私を邪魔だと思ってるんじゃないでしょうか」
「ふうん。部長さんは、あなたのことどう思ってるの?」
「今は和解していますから、大丈夫ですよ」
「それは、本当に?」
念を押されると、わからなくなってくる。
「合宿まで一緒に行ってたんですよ。そこで和解しました。というより、私が一方的に好きじゃなかったみたいです。向こうは……」
――あんたのことはあんまり好きじゃないけど、そこまでするほどじゃない。
そんなようなことを言われた。そんな回りくどい表現に終止するのは、恥ずかしいからだと思っていた。
でも本当に、私のことが嫌いなのだとしたら。
今日この時のために、全てが、夏合宿についてきたのも、仲良くなったのも、布石だったのだとしたら、
あの三人が、私を潰そうと考えているのだとしたら……
「……向こうが、私のこと気になってたみたいです」
たどたどしく、それだけ口にすると、せれな先生は私を見守る親のように、安心した表情を見せた。
ちらりと、由麻を見た。
後輩のバンドの演奏を、じっと聞いていた。その周りには、長浜と堀切がいる。由麻だけが三人の予定が合わないから暇だ、という理由で合宿に来たのだが、それはそれとして、決して不仲というわけではなく、彼女らはバンドメンバーとしてのある程度の、切り離せないスライムみたいな粘着質の信頼みたいなものがあるのかもしれない。
「あの人も、何考えてるかわからないわ」
私は気がつくと、そう呟いていた。
「じゃあ、聞かせて」せれな先生は私を見る。「長浜さんと堀切さんって、どういう人なの? 奈津乃ちゃんのことが嫌いみたいっていうのはわかったから」
「どんなって……」思い出す。けれどライブすら真剣に見た記憶がなかった。彼女たちのライブでは、私はいつも由麻のトランペットを妬ましく聞いていた。「長浜は、なんだっけ」
「ドラム」紗良が補足する。「銀川先生、部長の中兼由麻はわかりますよね。彼女の横に座ってる、あそこの……金髪にしてる怖そうな女が長浜恵子です」
私も見た。さらさらの金髪を頭の上で結んで垂らしていた。もともとの髪質が良いのかもしれないが、あれではもったいないとすら感じた。それに反するように、顔つきはどこか優しげにも見える。つまり、似合っていない。
「ああ、わかったわ」先生は頷いた。「確かにドラムを叩きそうな風貌ね。上手いの?」
「どうかな……フュージョンが好きって言ってましたけど。技量は、うちの美保子とそんなに変わりませんね。でも快楽主義者です」
「サークルみんなと仲良く楽しくやれれば良いって感じの子なのね」紗良の快楽主義という端的な説明から、先生はそこまで読み取った。「バンドに一人いたら楽しいタイプじゃないの。で、その隣が堀切さん?」
「はい。堀切あき、っていう子です」紗良が言う。「ちょっと子供みたいな見た目ですけど、私達と同い年ですよ」
私も最初は堀切を見た時、どうしてガキが大学に紛れ込んでいるんだと疑ったものだが、彼女が異様に子供っぽいだけだったという事実を、その日のうちに知った。髪は適当に切りそろえているだけだが、体格とそれに合う服装を吟味すると、彼女のようになるらしい。
「彼女はピアノです」紗良が掘切を見ながら説明した。「結構激しいプレイをやってるんですけど、本人の趣味はもっと繊細なやつだって聞いたことあります。エスビョルン・スヴェンソン・トリオとか好きみたいで」
「ふうん。いい趣味ね」
「でも、その……あの子、馬鹿なので」紗良が少し小声になったもののはっきりと悪口を言った。「うちの大学にもぎりぎりで入ったみたいで、基本的には勉強も全然できません。そればかりか、あんまり音楽のこと理解してないっていうか、ピアノのこともよくわかってないみたいで、感覚で生きてる人間です」
「天才ってこと?」
「そんな良いもんじゃないですよ」紗良がそして私を向いた。「奈津乃、そういえばさ、一回あの二人に絡まれてたことあるよね」
「あったっけ」言われてひねり出すと、すぐに口の中を噛んだときみたいな味わいを伴って、思い出された。「……ああ、公開ジャムセッションで、自分の演奏だけしてさっさと帰ったからって言う理由だっけ。ちゃんとみんなの演奏聞けって言われたけど、私は、用事があったし」
そこは嘘だった。用事なんてなかった。せれな先生のレッスンすらもなかったが、理由もなく先生の家に遊びに行った。あれは去年のことだったような気がする。
「それからも何回か絡まれた事はあったのよね。長浜って、妙にしっかりしてるっていうか。ルールに厳しいのよ。だから、私みたいなののことなんて、絶対に嫌いだわ」
「あの子って、そういう所あるよね」紗良がしっかりと頷いた。「話したら面白い子だよ。冗談もよく言うし、明るい。でもうざったいといえば……否定できないな」
「でも本人に直接っていうより、堀切が私に言ってくることばっかりだったわ。他の子からも『長浜さんが言ってるからやめて』とか言われたこともあるし」
長浜は、自分の手を汚さないで人を使役するタイプなのだろうか。その人付き合いの良さも、自分が動きやすくするための準備だったのか。
「もう奈津乃ちゃん」せれな先生が少し呆れたように私をたしなめた。「あなたも公開セッションぐらい聞いたら良かったのに。勉強になるかは別として、今日みたいなトラブルは避けられたかもよ?」
「面倒ですよ、あんなの」私はたとえせれな先生の言いつけであっても、一蹴した。「聞く価値のある演奏だなんて、私には思えません。今だって……大したバンドなんて一つもいないわ」
私がそれだけ文句を言っても、せれな先生はまあまあ、となだめるだけだった。
トイレに向かった。本当に尿意がしたというだけだった。紙のことは、紗良とせれな先生がよく確認している。今更、私の目で見てわかることなんて、なにもないと思われた。
通り際に美保子の様子を見た。話しかけると、元気そうに彼女は答えた。別に面白くもないバンドの演奏なんか聞いて楽しいのかと尋ねて見たが、「それは奈津乃が違う場所に立ってるから、見てる箇所が違うの」と彼女は言った。一理あるような気がしたが、気の抜けたサックスの音を聞くとどうでも良くなってきた。
トイレ。個室が一つだけあって、ウォシュレット付きの便座が備えてあった。店よりもずっと清潔そうに掃除がなされているのは、皮肉なのかもしれない。
用を足して、せっかくだから残り少なくなっていたというトイレットペーパーの芯を調べる。あたりまえだが、綺麗に無くなっていた。ホルダーにはまだほとんど使用されていない、食べごろに肥えた豚みたいな新しいトイレットペーパーが突き刺さっていた。なるほど、確かに、十九時半に残り少ないのを確認したというのなら、そこからほとんど誰もトイレを使用していないということにもなるだろうか。意外と、こういう店はトイレが混み入りそうなものだが、そうでもないということを、いつかせれな先生が言っていた気がする。多分、研究データに基づく意見ではなく、先生のなんとなくの感覚だろう。
堀切か長浜は、本当にトイレには行かなかったのか。行かなかったことを証明するのは難しい。控え室に行ったことすら、確実ではなかった。けれど通路を通ったというのなら、控え室かトイレに必ず用があるはずだった。何もしないで、そのまま引き返す方がずっとおかしい。
うなじの辺りが少し涼しい。換気扇は回っているが、それだけじゃない。私は立ち上がって振り返る。
窓が、薄く開いていた。鍵は掛けられていないようだった。
もし、
誰かがここから入ってきたとすれば、美保子の証言すら崩れ去るんだろうな、と思う。
窓を開けて見下ろす。この店はビルの二階にあった。一階にはコンビニが入っていた。ここから見えるのは路地裏、隣のビルの外壁だけだった。いくつも室外機が回っていて、抗えない巨大なものを目の当たりにしている気分になった。
そうまでして、私のギターに価値があるのか。
それとも、誰のギターでも良かったのだろうか。
私のものは、ただ赤いから目立ったと言うだけで。
席に戻った私は、じっと長浜たちを眺めていた。
私に何かをしたのか、と直接尋ねるような勇気もないし、そもそもオーナーが騒ぐなと言うのだから、こうやって観察で導き出す以外になかった。
私がいない間にせれな先生と紗良は、仮説を話し合っていた。私がトイレの窓の鍵か掛かっていなかったことを告げると、さらに彼女たちの考えは加速した。
そういえば、空気清浄機がずっと回っている。誰か花粉症の人間でもいるのだろうか。それにしても、時期を少し離れている気がする。私は、花粉症なんてないからわからないけれど。
ずっと真剣に曲を聴いている由麻と違って、長浜と堀切はどこか飽きているような身振りすら感じられた。由麻との付き合いで耳を傾けているが、彼女のほど生真面目さは少しも感じられなかった。
長浜は酒を飲んでスマートフォンを触っているし、堀切はパスタを食べていた。
「ちょっと、あき」
長浜が堀切のパスタを指差して止めた。堀切は首を傾げたが、
「待って。それ、トマトが入ってるよ」
「げ、またかよ」堀切はトマトの破片ををどけた。「取りきったと思ったのに……」
「まったく、しょうがないな。ほら、そこにもあるよ」
堀切はトマトが嫌いなのだろうが、それを取り切ることも出来ないほど馬鹿なのかと私は心配すら感じた。こいつ、日常生活をどうやっているんだろう。ひょっとしたら、日常も長浜に世話を焼かれているのかもしれない。
「ねえ、あのベースって何処の?」
聞きながら、その二人に由麻が話しかける。私もステージを見た。少し珍しいタイプのエレキベースだ。後輩がそんな物を使っている所を見たことがない。今日のために買ったのか、知り合いに借りたのだろうか。
「え? ベースって、どれ?」堀切がまた馬鹿みたいなことを聞いた。
「ほら、左側のあれよ」
「え? ギターじゃないの?」
「もう、ギターの音なんてしないでしょ」由麻は呆れながら何処か楽しそうだった。「今度あなた向けに部内で講習でもやろうかしら。船元先生なら許可してくれるわ」
「ええー、やめてよ、私はピアノが弾けたらそれでいいのに」
「駄目よ。あなた、知識が薄いじゃない」由麻はニヤニヤする。「じゃあ問題。私が吹いてる楽器はなんでしょう?」
「え、ト、トランペット?」
「正解。じゃあトロンボーンとの違いは?」
「なんだよそれ! わからない」そんな簡単な問題に対して、堀切は音を上げた。「私は、ピアノしか興味がないんだってば」
その様子を見ながら、せれな先生があはははは、と聞こえない程度に声を上げて笑った。
「あの子、面白いじゃない、堀切さん」
「私、時々先生のツボがわかりません」
「奈津乃ちゃん、こんな状況だけどよくやったわ」
「どうしたんですか、急に」
もう紗良も、元の席に帰った。また私達二人だけになっている。
「ピンク・フロイドのカバーを思い出して、少し改めて褒めたくなったの。私だって、あのアルバムは気に入ってるわ」
「ピンク・フロイドなんて、普通すぎて聞いてもいないのかと思ってました」
「もう今や大昔のバンドよ、好きな人しか聞いてないわ」
せれな先生は、一瞬船元を見た。そして私に向き直った。
「奈津乃ちゃんのギター、大学生が持つには高価だと思うけど、どうして持ってるの?」
バイトして買ったんです、という嘘をついても良かったが、先生には本当のことを話してみたくなった。別段、いい思い出があるわけではないけれど、私は軽い気持ちで話した。
「お父さんが、家を出ていく前にくれたんです。七年くらい前ですかね」
「……お父さん、家にいないの?」
「はい。母親だけですよ。しかも仲悪くて困ってるんですけど」
「そうだったの」せれな先生は、申し訳無さそうな表情を向けた。「お父さん、何してる人なの?」
「さあ。ミュージシャンではないと思うんですけど。趣味でギターを弾いてるだけの、中年の男だったと思います。ギターも何本かあって、そのうちの一本を私にくれました。弾きたいなんて一言も私は言わなかったんですけど。あの人、ロックばっかり聞いてたような記憶がありますね」
「プログレは?」
「家に一枚もありませんでした。あ、でも『狂気』はありましたね。だから、一枚だけありました。当時、聞いたことはなかったんですけど、ジャケットが印象的でしたから」
ピンク・フロイドの『狂気』。ダークサイドオブザムーン。私の演奏したマネーやタイムを含む、とんでもない名盤だと歴史的には設定されていた。
「死ぬほど売れたアルバムだもの、今じゃ信じられないでしょうけど」
せれな先生は思い出深そうにそう口にする。あのアルバムが一九七三年発売だっただろうから、当時リアルタイムで聞いていたとするなら、一体この先生は何歳になるのか、この美しい見た目を見ると頭がおかしくなりそうだった。
「月の裏側なんて存在しない、実際は全部、闇そのものだから、なんてね」
「それ、最後のセリフですか」
アルバムの最後に、当たり前だが英語で流れてくる一文。今聞いても、意味はわからない。意味がわからないのにマネーを演奏したことが、急に恥ずかしさを伴って身体に走った。
せれな先生は目をつむる。
「光を当てない限り、人間なんて何考えてるかわからないのよ」
「…………」
「私は、そう解釈してる」
しばらく長浜たちのことなんて記憶から消していたので、呼び出された時は心底驚いた。
長浜が私に話しかけてきた。
「ちょっと、控え室まで来なさいよ」
せれな先生を置いて言うとおりにすると、そこには紗良と美保子もいた。堀切が腕を組んで、私のギターの前に立っていた。何をするつもりだ。仮に傷つけるというのなら、と想像をして私はこいつらをどう殺すかを考えた。近くにあるドラムスティックで目を抉る。それが一番効果的だろうと思った。
「なによ、なにか用でもあるわけ?」
不機嫌な顔を向けて私が言うと、長浜は私を壁際に追い詰めた。
「網城さ、私達のこと疑ってるよね?」
「なんで?」
「あんたのギターが、誰かに壊されたって聞いたんだよ。そこの紗良が、知らない女と話してるのを聞いた」
紗良をちらりと見る。彼女は申し訳無さそうに私に頭を下げた。いや、そもそも隠し通すほうが無理というものだろう。私はオーナーを恨んだ。
「私達が、そんな卑怯な真似すると思ってんの? するわけ無いでしょ、あんた、サークルの仲間を疑うってどういう神経してんのよ」
「うるさいわね」私は舌打ちを漏らした。「状況を調べるうちに、あんた達以外にいないってことはわかってんのよ。好都合だわ、あんたからふっかけてきて。白状しなさいよ。あんたがやったんでしょ」
「はあ? やってないっての! 証拠を出せよ」
「あんたの自白が証拠になるわ。ボイスレコーダーを回すから待ってなさい」
私と長浜が睨み合っていると、堀切が言う。
「そういえばさ」
手には、
ナットがあった。
「恵子のテーブルの近くにこれ落ちてたけど」
「はあ? なにそれ」
「私のギターの部品!」私は堀切に詰め寄った。ナットを手から奪った「返せ! お前! 私のギターを壊したの! 堀切! お前だろ!」
「私じゃないって! 拾っただけだってば!」
「あき!」長浜が叫んだ。「馬鹿じゃないの! そんな部品わざわざ拾って来ないでよ! 私達が不利になるじゃない!」
「不利も何もお前がやったんだろ!」
私は長浜に掴みかかった。壁に押し付けて三回ほど殴ろうとしたところに、紗良に止められた。
「待ってよ奈津乃! 騒いじゃまずいって!」
「紗良! 話して! こいつらで決定なのよ!」
「わざわざナットなんて持ってこないよ!」紗良が私を羽交い締めにする。「落ち着いてよ。一旦、落ち着いて考えよ」
「…………」
「……恵子」紗良が長浜たちに向かって言う。「あんたたちも、容疑が掛かってるんだから、演奏会が終わるまで、店から逃げないでよ」
「は。誰が逃げるか」長浜が唾と一緒に吐き捨てた。「何もしてないのに、逃げたほうが疑われるわ」
控え室を後にする長浜と堀切の背中を、私は追いかけてナイフで刺す所を、網膜に焼き付くくらい、何度も何度も何度も想像した。
ちっとも、気分なんて晴れなかったけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます