RMN空気清浄機

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 その日二杯目のビールジョッキを空けた銀川せれな先生を見つめながら、出番を待つ私はゆっくりと暇をつぶすように時計を眺めた。

 十九時五十五分。もうすぐだった。それほどゆっくりしている暇はないが、これほど順番が後ろの方だと、感じていた緊張もアルコールの中に溶けていってしまったみたいに、私の身体は妙なほど弛緩していた。

 ジャズ居酒屋を自称する店だった。『ラフアンドタンブル』という店名であることを、私は事前の説明よりも、実際に看板を目にして知った。

 店内は、いかにも居酒屋という風貌だった。テーブルが数組と、バーを意識しているのかカウンターまである。だったらジャズバーにしてしまえばいいのに、と私は思ったが、何が気に入らないのか、そんな中途半端な形態を保っている。そういった部分が、私は詰め物が取れそうな歯みたいに気になってしまっていた。

 そして、居酒屋に似つかわしくない、ライブステージに目をやる。店の、奥まったスペースが階段の一段分ぐらい高くなっている。そこには常に置かれているアンプやドラム、そして壁にはライブ写真が飾られていた。ちぐはぐな印象だった。まるでステージだけ存在の次元がずれているみたいだった。

 本日は、我がL女子大学ジャズ研究部の、外部定期演奏が行われていた。一般客は少なめで、サークルの関係者が大半だった。それでも少量の一般客と合わせると、ソーセージ詰めのように満員になっていた。

 広くはない店内で、そんな催しをしたって外からのお客が入る隙間がないなんてことは、私でもわかるのに、なんでこんな催事をやっているのか、私はオーナーの考えを理解できずにいた。普段の営業状況を見るに、さほど売り上げに困っている様子でもない。

 十七時にここを訪れて、適当にリハーサルを終えた。そこから十八時に演奏会が始まって、サークル関係者だけではないお客も入り始めた。私は、演奏なんてろくに聞かないで、せれな先生とプログレッシブ・ロックの話をしながら時間を潰していた。

「あ、もうすぐなんですよ、本番」時計を見てから、面倒臭さを隠しきれないで私は先生にそう告げた。イタリアに点在する、一枚しかアルバムを出していないプログレッシブ・ロックバンド達のなかで、どれが一番出来が良いのかを議論していたところだった。

「そうなんだ」酔っているのか、いつもより気の抜けた表情を私に見せる先生。「それにしても、料理の提供がちょっと遅いわね。忙しいのかしら。ビールもう一杯飲みたいけど、今呼んだらあれかしら」

「私はもう本番なんで遠慮しますけど……」私もジュースみたいな酒を一杯だけ飲んだ。それだけ飲んだって、この人ほど酒を好きになれる気がしなかった。

「じゃあ奈津乃ちゃん、今日の自信のほどは?」

「さあ……私は、いつも通りやるだけですけど、それに客が乗ってくるかどうかですよ。サークルや大学関係が大半だとはいえ、みんな、本当に演奏の善し悪しなんてわかってるんですかね」

「どうかしらね」せれな先生は楽しそうに辺りを一瞥した。「でも、ジャズを好きで聴きに来てるんでしょうね。ジャズ研究部なんて、ジャズが嫌いなら入らないわよ。一般のお客さんも、ジャズが好きだからこの店に来てるし、大学生の演奏を楽しみにしてる人がほとんどじゃないかしら」

「部員のやつらは、そんなにジャズなんて好きじゃないですよ」私は、サークルの連中や演奏中の後輩バンドを顎で差しながら言った。「勉強不足なんですよ。音楽がやりたいけど軽音楽部はメタルばっかりでは肌に合わないから、消去法でうちに来てるようなのも多いですよ。スタンダードの一つも知らないでフュージョンがやりたいなんて、舐めてるとしか思いませんよ。なんにもわかってないんですよ、あいつら……。少なくとも、サークルの奴らが私の演奏を、正当に評価できるとは、私には思えません」

 日頃から感じている差別意識をせれな先生にぶつけても、彼女は嫌な表情一つ見せないで、それどころか笑いながら私をたしなめた。

「もう、奈津乃ちゃん。そんなこと言っちゃ駄目よ。奈津乃ちゃんのお父さんの言葉、忘れてないんでしょ?」

 急に父親のことを持ち出されて、鳩尾を殴られたような気分になった。

「……忘れました」

「『音楽を楽しむ心に隔たりはない』、でしょ。前にあなたが教えてくれたんじゃない。いい言葉だわ、真っすぐで。まあ言ってしまうとかなり陳腐だけど、真実だと思うわ」

「ああ、そうでした。今思い出しました」

 実は忘れたことなんて一度もなかったのだけれど、私はそう答えた。

 父親のことを思い出す。

 ――音楽を楽しむ心に隔たりはない。

 そんな馬鹿でも言える、口にするのも恥ずかしいくらいに何のひねりもない言葉を、大事そうに私に教えた父のことは、母親よりもずっと好きではあったけれど、別段会いたいという感情を持ちもしなかった。彼はこの共感できないポエムと、私の今使っているギブソンのES335というギターを私に残して、あの家から綺麗に姿を消した。今、何をやっているのか知らなかったし、別にどうだって良かった。

「良し悪しがわかろうが、そうじゃなかろうが、機会を奪うのは良くないわ」せれな先生はまだ私の父親の話をしていた。「隔たりがないって、プレイヤーが客を選ぶなっていう意味もあるわよ、きっと」

「そんなもんですかね」

 私は立ち上がる。時間だった。その辺りのテーブルで飲んでいる紗良や美保子にも声をかけて、控え室に向かわないといけない。

「じゃあ、先生のために弾きます」私は彼女に向かって言った。「知らないお客を楽しませる為には演奏できる気がしませんから。せめてそれが、今の私の精一杯です」

「まあ私の生徒だし、普段の調子で行けば大丈夫よ」

「私も、そう思います」

 ステージの脇にあるトイレへの通路、その途中にある控え室に私は向かった。トイレに行っていたのか、通路の脇にいた美保子を見つけて、彼女と一緒に控え室に入った。

 そして私は見つけてしまう。

 自分のギターが、殺されている現場を。



 外部演奏会には、それなりに気合いを入れて望んだという自負があった。

 サークル活動の時間だけでは高い完成度は望めないと思い、紗良と美保子を連れて貸しスタジオでも練習をした。出費が痛いが、三人とも夏の合宿を経てから、バンドに対する熱意の発散方法に悩んでいたので、それに対して文句を言うメンバーはいなかった。

 練習の合間に曲順とバンド名も決めた。「パラフィナレア」だった。メンバーは替わっていないし、去年は去年で別の名前があったのだが、飽きるという理由で毎年変えていた。これで名前が三つ目になる。由来は私が決めた。その時聞いていたイングランド、つまりプログレバンドの曲名だった。

 演奏曲を決めるのに、少々苦労はした。普通にジャズスタンダードを数曲演奏するというのも、それほど芸のある行為には思えなくなっていた私は、思い切って一曲はプログレッシブ・ロックの曲をジャズアレンジしてやってみようと提案したところ、案外二人には気に入られてすぐに採用された。

 曲は、ピンク・フロイドのマネーだった。今では信じられないくらい売れた曲ではあるから、上の世代の認知度は、私達が思うよりも高いと聞いたことがある。選んだ理由は、私が好きだというのと、馬鹿なサークルの連中が知らない曲をやりたかったからという現実的で下卑たものだった。アレンジ作業という面で苦労はした。インターネットで該当曲のジャズカバー演奏動画を調べてみたが、参考にならなかったので、途中で見るのを辞めた。

 それでも段々と形になるにつれて、自分でも貶すほど悪いものではないという完成度になっていった。美保子も紗良も、好んできたジャンルが違うからか、私が考えないようなアイデアを出してくれるところが良かったのかもしれない。

「これって、有名なアルバムなんだって?」休憩中に、紗良が私に尋ねた。「調べてきたよ、ピンク・フロイドのこと。全然知らなかったけど、ギネス記録になるぐらい売れたって書いてあって驚いたよ」

「『狂気』ね」私は頷いた。「ダークサイドオブザムーンが原題なんだけど、人間の裏側にある狂気って意味らしいわ。その中の一曲よ、マネーは」

「どういう曲?」美保子が首を傾げて訊いた。「歌で、金がどうとか言ってるのはわかるけど」

「まあ、金は諸悪の根源って歌詞よ」



 遠くから、ラウンド・ミッドナイトの旋律が聞こえてくるのを、こんなときでも頭は感じ取った。

 けれど、私は目の前の光景に対して、耐えきれなくなってうなだれてしまった。

 私のギターが、死んでいた。

「奈津乃……」

 美保子が、声をかけづらそうにしていた。

 どうして。

 ギターがどんな状態なのか、直視できるほどの気力がない。

 ひと目見て、殺されていると感じた。

 なぜ?

 自分でやった記憶がない。私はリハーサルのあと、最終的なチューニングを終えて、店に備えてあるスタンドにそっと置いた。他のバンドのギターも、すぐに使いやすいようにそうしてあった。

 私のギターだけが……

「どうしたの」

 後ろから、せれな先生の声が掛かった。美保子が呼んできてくれたのだろうか。いつのまにか、紗良も揃っていた。

 先生は、何があったのかをすぐに理解して、そっとギターに近づく。

 スタンドに置かれたままだった、私のギターに先生が触れた。

「……弦が切られてるわ」先生は入念にパーツの一つ一つをチェックする。「ああ……シールドのところのナットもないわ。これじゃあ、アンプに繋げないわ」

「なんで、こんなことに?」紗良が横から覗き込んで、尋ねた。

「……自然に全部の弦が切れるわけ無いわ」先生が頭をかく。「ナットだって、そう簡単になくなるもんじゃないわ。多分……誰かが、やったのよ」

 誰か。

 私に悪意を向ける、ジャズ研究部の馬鹿どものうちの、誰か。

「誰がやったのよ!」私は髪の毛を毟ってしまうほどに、怒った。「ふざけないでよ! 誰よ! 人のギターに触らないでよ!」

 そうして、私は並んでいる他人のギターを掴んでへし折ろうと思ったが、紗良に止められたので辞めた。怒りの刷毛口を失った私は、壁を思いっきり蹴った。

 歯を食いしばった。

 殴り殺せるものなら、鶏だって殺しただろう。

 煮えくり返っている私を尻目に、せれな先生が考え込んでから、口を開いた。

「とりあえず、オーナーにこのことを報告するわ」彼女は言う。「舞台には出られないわ、このままじゃ」

 出られないという言葉に、私は強い拒否感を覚えた。

「…………嫌です。先生、出たいです」

「でも、弦を張り替えてる時間もないし、シールドだって刺さらないわ。あきらめるしか……」

「屈したくないです! こんな……人のギターを壊すようなクズに負けたくないですよ……」

 せれな先生は、私がこうなったら考えを曲げるような大人ではないことを理解しているのか、部屋を眺めて考え始めた。

 やがて、オーナー所有のギターを見つける。私と同じように、部屋の隅のスタンドに置かれていた。

「これは、ギブソンのES330……」

 それは私のギターと、色は違えど形は殆ど同じだった。私のものは赤で、これは黄色っぽい。

「これ、借りられないか聞いてみるわ。一応、彼とは顔見知りだから、大丈夫だと思う」

 せれな先生は、同情でもするように私を見た。

「奈津乃ちゃん。持った感じが似てるES330なら、大丈夫よね。内部構造もピックアップも違うから、音も当然違うけど……」

「やります」私は、私のギターを駄目にした誰かの顔を思い浮かべながら即答した。「音なんてなんでも良いです」

 私の返事を聞くと、先生は控え室から飛び出していった。



 オーナーのギターを右手に掴んで、私はステージに登った。

 せれな先生の説得が上手かったのか、オーナーは二つ返事でギターを貸してくれた。傷をつけても、折ってくれても良いとまで言っていたが、本当に折ったらどんな反応をするのか、少しだけ興味があった。

 一段高くなっているだけのスペースなのに、普通に飲んでいるときとは、随分と視界の印象が変わるものだ。注目されているという事実も手伝って、普段であれば、羞恥心にも似た緊張すらも感じるのかもしれなかった。

 けれど、今の私は何も感じていない。いや、ただ怒りや殺意や憎悪だけが胸に残っていた。

 私を見つめる、客の視線のどれかが、私を陥れようとした、卑怯者のクズなのか。

 そう考えると、冷静さを失いそうになった。

 椅子に座ってセッティングをする。私のギターと違って弦は全部揃っている上に新品。そしてシールドも刺さって、アンプからは健康そうな音も出た。確かに私のギターとは違う。重みがないが、鋭いような気がする。応急処置的に、それを殺して自分のギターの音にセッティングで近づけた。

「……奈津乃、大丈夫?」

 紗良が私を心配する。

 無言で頷いた。声を出したら、なにが出てくるかわからなかったからだ。

 集中しろ。

 ここはステージ。これは演奏だ。私怨は捨てて、とにかくせれな先生に捧げることだけを考えるのが適切だった。

 先生の方角に目をやった。

 私を、見つめている。

 大丈夫……

 いける……

 照明が眩しかった。さっきまで煩かった他人の喧騒が、バンドがいないっていうだけでここまで刺殺されそうなくらいに静かになるのか。

 指の関節の音まで、こいつらに聞かれているような錯覚があった。

 美保子を見る。そして紗良も。

 奇しくも、さっき聞こえてきたラウンド・ミッドナイト。

 私達の一曲めも、同じ曲だった。



「お疲れ様」

 ギターを返却して、席に戻った私に、憐れむような視線をせれな先生は向けて、言った。

 演奏は滞りなく終了した。紗良と美保子が安定していたという点が大きかったのだろう。私の演奏はいつもよりもかなり悪い方だったが、ソロに詰まることもなく完走した。

 けれど、それだけだった。

 普通のバンドが、普通に出番を終えたに過ぎないという印象が、客の反応を見ると漂っていた。

「……良かったわよ、奈津乃ちゃん」

「良いんです、そういうの……」私はテーブルに突っ伏した。気が抜けると、ギターの弦を切られた悲しみや、私への悪意に対する恐怖心の方が明瞭になってきた。

「オーナー、大事にしたくないみたい」

 せれな先生はビールを飲みながら言った。その意味がわからなくて、私は顔を上げて首を傾げた。

「ギターは貸すけど、ライブが全て終わるまでは、この件で騒がないでくれって言われたわ。中止にするっていう選択肢なんて、はじめから無かったみたいよ」

「…………騒ぐなって、内緒にしろってことですか?」

 私はオーナーを思い浮かべて、心のなかで馬鹿にした。

「そうみたい。多分、出られませんって言ってたら、向こうの方からギターを使ってくれとでも言ってたくらいのもんよ。これがもっと、怪我するような事件だったらどうすんのよ」

 今、ステージには誰もいない。由麻たちの出番だが、もともとこの時間は少し長めに余白をとってあるらしい。

 このままだと、私のギターを殺した人間が、誰なのかわからないまま終わるのではないか。

「奈津乃ちゃん、心配しないで」せれな先生はにっこりと微笑む。「とにかく奈津乃ちゃんは、騒がないで。部員にもお客さんにも秘密にすること」

「じゃあ……どうしろっていうんですか? 泣き寝入りしろってことですか?」

「違うわ。私が、演奏会が終わるまでの間に、絶対に犯人を見つけ出してあげる」

 彼女は、そう言って誰もいないステージの方を見つめた。

 空白時間、そして由麻のバンドと最後にはオーナーのバンドの演奏が控えていた。

 演奏会が終わるまでは、二時間程度だと推測できた。



 せれな先生は、私には秘密にしておけと言っておきながら、彼女は調べたいことがあるのか席を立ってそのまま何処かへ消えた。

 一人になると、あの怒りが蘇ってくる。ふざけた犯人や、何を考えているのかわからないオーナーに対しての感情だった。グラスの一つでも割ってやろうかと思っていると、さっきまで観客に徹していた由麻が、せれな先生がいた椅子に無遠慮に座った。

 今日はいつもより気合いの入った格好をしていた。よくわからない洋装だ。曲線を描くスカートがひらひら揺れていた。多くの人の目に触れるからだろう。ライブ衣装というほど大げさなものではないが、普段着にするには少し派手すぎると私は思った。それでいて髪型は普段どおりだった。

「奈津乃、さっきの演奏、聞いたわ。ピンク・フロイドのカバーとは、考えもしなかったわ」

「練習したのよ、死ぬ気で」

「まあ私としてはプログレならELPが聞きたかったけれど、許すわ。ジャズアレンジとしては上々だと思う」

「紗良が嫌がるわよ、ELPなんて聴かせたら。指が取れるんじゃないかしら」

 開口一番、ライブの感想なのだから、この部長はなにも事情を知らないらしい。

 この女とは合宿を通じて、それ以来なんとなく仲良くなった。以前は殴り合うくらいの距離感だと思っていたのに、ここまで変わるものか、と私は感動すら覚える。今では都会のレコード屋に一緒に行くこともあった。

「でも、ギターがいつもと違ったけど、どうしたの? あれ、オーナーの私物よね」

「さすが部長様は詳しい」

 言いながら、彼女の顔を見て私は考えた。由麻に告げるべきなのか、きっちりと決まりを守って何も言わないほうが良いのか。部長という立場の人間だ。答えはすぐに出た。

「……実は、トラブルがあって」

 私は彼女に、自分でもよくわかっていない事件を説明した。私のギターが弾けない状態にされており、代わりにオーナーの私物を借りて場を凌いだが、オーナーはそんなことがあっても催しを中止にするつもりが少しもなかったところまで、彼女の耳に入れた。

 話を聞いた由麻は、すぐに手のひらを私に向けた。そのジェスチャーの意味はなんだろう。

「私じゃないわよ」彼女は首も振った。冗談かと思ったけれど、顔は真剣だった。

「別に、由麻のこと疑ってるわけじゃないわよ……」

「奈津乃のことはそんなに好きじゃないけど、弦を切るほどじゃないわ。やるなら、もっと、断線したシールドとすり替えるとかしたほうが、効果的よ」

「本人の前でよく言うよ」

「冗談だって」

 由麻は私の気も知らないで、アルコールで気持ちよくなっているのか、けらけらと笑った。



 酒の勢いで暇をつぶしに来たとしか思えないような由麻が消えると、また入れ替わりにせれな先生が戻ってきた。鼻歌を歌っている。ピンク・フロイドの『タイム』。いつの間にか十年が過ぎているとか、そんな歌詞がある曲だった。

 彼女は席に戻ると、目の前に残されていたビールを飲み干した。

「奈津乃ちゃん、聞いてきたわよ」せれな先生は幸せそうに、アルコールの混じった吐息を吐きながら言う。「入り口で受付やってる人に尋ねて来たんだけど、演奏会が始まってから、入ってきた人は何人もいるけど、出ていった人はまだいないって」

「それって……」

「そう。犯人はまだ、この中にいるってこと。内部犯ならね」

 私は、自分の周りに漂っている空気を押しのけるみたいに、ゆっくりと店内を見回した。

 やはり、この中にいるんだ。

「だからね、聞き込みと状況整理を済ませておきたいの。協力してくれる?」

「当たり前ですよ」私は身を乗り出した。「卑劣な犯人が出てくるって言うなら、服でも脱ぎますよ」

「まあ、その必要があればね」彼女は笑った。「早速だけど、紗良ちゃんと美保子ちゃんも呼んで貰っても良い? 協力してもらいたいの」

「わかりました、頼んできます」

 立ち上がる。

 紗良を探した。彼女は他のバンドにも参加している手前、その集まりのテーブルで今日は過ごしていた。彼女なりの付き合いというものがあるらしいし、こういう場では私は先生と、美保子は一人でいるほうが好きだったので、問題はなかった。

 紗良の背中に声をかけた。名前も知らないような部員と話していた。私があんなことになる前と後で、この部員たちは何も様子が変わっていない。それが妙に腹立たしかった。

「ねえ、紗良、ちょっと」

「あ……奈津乃。どうしたの」私のギターのことを知っている彼女は、探るような視線を私に向けてから、首を傾げた。

 私は彼女の耳元で囁いた。

「せれな先生と、私のギターを殺した犯人を探そうと思うんだけど、協力してくれる?」

「……そんなの、当たり前だよ」彼女は強く頷いた。「私も許せないな。奈津乃のギターをあんなにするなんて、何考えてるんだろう」

「それをこれから暴くのよ」

「手伝うよ、奈津乃探偵」

 紗良を置いて、美保子を探した。彼女はトイレへの通路の近くにいた。控え室にも、ここから向かう。

 あまり騒ぐと疲れるからと言う理由で、宴会などに参加しても、いつも彼女は隅の方でにこにこと座っていた。今日も、何も変わっていない。

 彼女にも紗良と同じ用件を伝えると、すぐに頷いて美保子は了承した。

「聞きたいことがあったら、言ってね。私、何でも協力するから」

「うん、ありがとう」

 話は終わった。

 せれな先生の席に戻る途中に、客とぶつかりそうになった。もしかしたらこいつが犯人なのかもしれないと思った。疑い始めればキリなんてないのに、私はそういう色眼鏡で客を見回した。

 酔う女、歳の行った男、食事を摂る人間、ジャズの話を熱心にする老人、興味がなさそうな態度を取る女、壁の決して多くはない写真を眺める人、次のステージを心待ちにする人、カウンターでオーナーと喋る人。

 そのどれもが、私にはもう不快な害虫にしか見えなかった。

 許せないわ、クズどもめ……

 私は舌を挟んでいたら死ねただろう力で、顎を引き絞っていた。

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