6/6

「謎が解けたわ」

 と紗良と美保子に告げたのは、次の日の昼になってからだった。私はまず、口で説明するという労力を省略するために、せれな先生の推理を紙に書き留めた。長かったが複雑でもなかったので、一度聞いただけでおおよその概要は覚えられていた。

 読んだ紗良と美保子、そして中兼の顔を伺い、特に問題もなさそうなことを確認すると、私は紗良に頼んだ。

「紗良。お父さんに頼んで、その友人に電話を繋いで貰うことはできる?」

「え、良いけど……どうしたの?」

「いえ、宿題よ」

 もちろん、私が自らそうしようと思ったのではない。昨日、別荘まで戻るとスマートフォンにメールが届いていた。せれな先生からの、簡素なメッセージだった。

『私が言った話、そのおじさんにも聞かせてあげてね』

 その理由は、わからない。なんでそんな面倒なことをしなければならないのか、と私は悪態をついたが、逆らう気にもなれなかった。

 紗良は、ちょっとお父さんに尋ねて見るからしばらく待ってくれ、と言った。まさか今日中にということはないだろう、と高をくくってバンド練習に興じていたのだけれど、夕方近くになって、紗良がスマートフォンを見ながら私に言った言葉は、予想の外にあったものだった。

「今からならいけるってさ、そのおじさん」

「え?」

 自分から呼び出して貰っておいて、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。

 変な緊張感が、途端に私を襲う。いつもこうだ。知らない人間と話すことは、私にとっての最大のストレスでしかなかった。

「そ、そうなんだ」私はギターを置いた。

「うん。美保子も由麻も、ちょっと楽器置いて、ごめん。じゃあ、繋ぐね」

 心の準備も出来ていなかった。上手く話せるとは到底思えない。

 どうしよう。

 紗良のスマートフォンが、テーブルの上で発信音を立てている。

 せれな先生みたいに、知らない人に明瞭に推理を聞かせるなんて、私には、

 すると、中兼が私の隣に座って、肩を寄せて耳打ちをする。

「さっきの紙の通りで良いのよね。貸して」

「中兼……」

 でも、身体は紙を強く握った。

「誰も、あんたの手柄を取ろうなんて思ってないわよ」彼女は、可愛そうな子供を見るような目を、私に向けた。「あんたの推理だってことも伝えてあげるから。こういうことは部長に任せなさい。あんたに外交は期待してないわよ」

「外交って……」彼女の冗談に、少し胸が軽くなる。

 私は推理を書いた紙を、彼女に手渡した。

 不思議と、いつものような惨めさを、何処か感じなくなっていた。

 応答したのは、不機嫌そうな声だった。静かになったリビングに、この数日間一度も聞かなかった種類の声色が響いた。

『……はい』

「荒川、優希さんですか?」

 紗良が、恐る恐る確認するように尋ねた。しばらく返事がなかった。気味の悪い沈黙が流れたが、それから『そうだ』とだけ返ってきた。

 彼が、そこにあるゲームソフトを紗良の父に譲渡した男。楽しそうに見えないから、友人に心配されている男。そして、高校三年でゲームという趣味を捨てた男だった。

「あの、あなたが以前、私の父にあげたというゲームソフトの中に、おかしなものが混ざっているのですけど、なにか心当たりはありますか」

 舌打ちが、明確に聞こえた。

『……知らん。覚えていない』

「アクトレイザーの中身が、大貝獣物語になっているソフトですよ、あなた、相当やり込んでいたじゃないですか」

『……知らんな。忘れろ』

「いえ、父が知りたいと言っています」

『知るか。何年か前に訊いただろう。その時の答えが全てだよ』

「でもお父さんは、話したくないとあなたが答えた、と言っていました。知らないっていうのは、嘘なんじゃないですか」

『……今更何を話せっていうんだ。何も言うことはない』明らかに怒ったような声が聞こえた。『もう忘れたいんだよ、くだらないゲームのことは……。あんたのお父さんがしつこいから、怖くなって言うことを聞いてやったら、なんなんだこれは……』

「なら」

 と、中兼由麻が声を上げた。私はその姿を横目で見ると、どこかせれな先生のことを思い出してしまっていた。

「私の話を聞いて下さい。それなら良いでしょう?」

『……何の話だ』

「謎のゲームソフトの正体について、その真相を推理してくれた子がいるんです。彼女の考えを説明しますから、合っているのか、間違っているのかだけ答えて下さい」

『俺に何の得があるんだ』

「あなたは、この問題に向き合うべきなんです」

 鋭くそう言うと、空気の抜けたゴムボールみたいに、荒川が弱った声を漏らした。

 中兼は私の紙を目の前に置いて、じっと見つめながら続けた。

「順番に、あなたにもわかりやすいように説明します。ゲームソフトのネジが一度外され、アクトレイザーの中の基盤が何処かへが失われ、そこに大貝獣物語が代わりに入っていました。製造現場での事故であることは考えられません。ふたつのソフトは発売時期も会社も違いますから。これは何者かが、意図的に中身を入れ替えたと考えるのが自然です」

 ふと見ると、美保子が頬杖をついて聞き入っていた。

「仮説を考えます。まず、大貝獣物語自体が欲しかったからという説。しかし、これは理由になりません。なぜなら、あなたは、自分の大貝獣物語を持っているし、現在に於いても、それほど高値がつくようなソフトでもないからです。そのことから、売り払うのが目的でもプレイするのが目的でもありません」

『…………当時としても、大ヒットではないにしても、多少なりとも売れてはいたさ、あのゲームは』

「では、ソフトに価値を見出さないとするなら、何が目的なのでしょうか。おのずから、答えは一つしかありません。犯人は、ソフト内に記録されているセーブデータに着目していた。件のソフトに記録されているセーブデータは、限界とも言えるほどのやり込みようでした。あなたが本来所持していた方のソフトよりも、何段階も先にいたと言えます。犯人は、セーブデータが欲しかったんです」

 荒川は、何も言わなかった。

「セーブデータが欲しいと思った犯人は、いろいろな策を練ったことでしょう。そのままソフトを盗んでしまえば、さすがにバレてしまう。もしかしたら、盗みたいと思っていたソフトの方に、すでに持ち主の名前が刻まれていたのかもしれません。そんなものをうちに持ち帰ると、何を言われるかわかりません。だから、盗むにしても一工夫必要でした」

 中兼は、そんな経験なんて無いはずなのに、ずっと淀みなく喋っていた。

「ところであなたの親戚に、ゲームショップの人がいましたね。あなたとは、話が合うのかずっと親しくしていたとか」

『……ああ』

「スーパーファミコンのカートリッジに使われているものは、一般的なものとは違う、特殊なネジです。なので、専用のドライバーが必要なのですが、そんなものを当時の中高生が持っているのは、少し考えづらいです。ですが、ゲームショップなら、転がっている可能性が高い」

『確かに……あったさ』

「あなたは、それを利用しました。ドライバーとアクトレイザーを持ち込んで、完璧なデータを作った友人の家から、そのソフトの中身だけを盗んだんです」

『…………』

 電話が切れてしまったのかとも思った。そのくらい、荒川の沈黙は長かった。

 やがて観念したように、もしかすると涙でも流していたのかもしれないくらい、か細く彼は『ああ』と答えた。

「動機は、大学受験ですか。このソフト群の中に、その時期から先に発売されたゲームが存在しませんから。それだけ好きだったのに、きっぱりとやめるのは、あなただけの意志じゃない。もしかして、親にそう告げられましたか?」

『…………そうだ』

「羨ましかったんですよね、あなたは」

 中兼が、目を瞑った。

「当時、ゲームをやり込んでいる友人がいたのでしょう。彼が、自分よりもずっとゲームに費やす時間が長く、情熱的だった。あなたも、ゲームが好きだった。とくに大貝獣物語が。だから負けたくなかったけど、あなたには時間がなかったんです。自分のほうが、彼らを愛しているのに、その成果を、データとして残せないのが悔しかった。その友人はただ暇をつぶしていたに過ぎないのに、この差はなんだ、と思ったんでしょうか。動機は、それです」

『何でもお見通しだな』彼は、呟いた。『誰から聞いたんだ』

「推測です」中兼が、答える。せれな先生からの推理を書き留めた紙に、そこまでのことはちゃんと書いてあった。「完璧なデータを、手元に置いておきたかったあなたは、それを実行した。それだけやり込んだ友人さんは、飽きてしまって二度と大貝獣物語なんかやらないと確信していたし、それが同時に腹立たしかったんでしょう」

 電話から、ずっとため息が聞こえているのを、私達は何も出来ないで見ているしかなかった。



『今更、そんなことを俺に聞かせて、どうしようっていうんだ』

 荒川は、再び話し始める。

『あんたの推理は、完全に正解さ。文句のつけようもない……でも、じゃあ俺にどうして欲しい? 詫びろとでも言うのか? あいつとは、もう交流なんかないんだぞ、無理に決まってるだろ。辞めてくれよ、もう、思い出したくもなかったんだ……なんで、あんなことをしたのか、あの日家に帰ってから、いままでずっと、気が狂いそうになるくらい、自分を追い詰めたさ……』

「そうか」紗良が口を開いた。「うちのお父さんにゲームをくれたのは、手元においておきたくなかったから、ですか」

『当たり前だろう。ゲームなんて、もう見たくもなくなったよ。なんであんなものに時間を費やしたのか、馬鹿馬鹿しくもなった。全部……盗んでしまったせいだ。思い出が、俺の犯罪に全部塗り替えられたんだ。自分で殺してしまったんだ』

「…………お父さんは、あなたのことを心配していますよ。今にも、死んでしまいそうだって」

『……一日だって忘れていないさ、自分の犯した罪のことは。あの日から、ずっと罪悪感に苛まれているんだ。お前の親父にゲームを押し付けた所で、人生に軌道は、そこから戻らなくなっていたんだ』

 ああ、

 どうして彼を見ていると、こんなに自分が惨めになるのだろう。

 そして彼は、私達に八つ当たりをし始めた。

「どうしてだ、どうしてこんなことを思い出させるんだ。俺はもう……思い出したくもない。自分のことなんか……自分なんか嫌いだ。自分を喜ばせるものに、何の価値もないって理解してる。どうしてゲームなんかに興じたんだ、俺は。どうしてあいつから、データを盗んだんだ。ゲームなんかに手を出さなければ、俺はもっとまともだったんだ、きっと。俺は……いつから間違えたんだ。お前達、笑えよ。せいぜい笑えよ。なあ。お前たちだって、今遊んでることが、何の役にも立たないんだぞ。みんな、みんな、みんな、意味なんかないんだ」

 私は、彼の言うことを多分、誰よりも身に染みて実感している。

 ――意味なんかない。

 そうだ。プロにでもならない限り、今やっている趣味も全部、泡沫になって消えるだけなんだ。その点では、私はこの荒川に同意していた。

 ギターなんて、どうして弾いているんだろう。

 やめるか。一瞬、そこまで考えた。

「ふざけないでくださいよ」

 急に、

 私の真横から、鋭い一声が聞こえた。

 腕を組んで、紗良のスマートフォンを睨んでいる、中兼由麻だった。

「あんたは、全部捨てたから意味がないって言ってるだけよ。自分を愛するっていう実績が、手元になにもないからだわ」

 完全に、喧嘩を売るような態度だったが、その勢いに気圧されたのか、荒川も怒るというより少し萎縮したような声を漏らした。

『……お前に、俺の何がわかる。先のことなんてわからないだろう。お前たち、趣味はなんだ。それが、将来自分の役に立つっていうのか』

「そんなことはどうでも良いのよ」中兼は、完全に怒っている。私はそう感じた。「将来なんて、どうだって良いわ。今、黙って時間を過ごしてみなさいよ。何もしないで、テレビも新聞も、本当になんにもしないで、十時間ぐらいじっと待ってみなさいよ。無理よそんなのは。死んだほうがマシだわ。それだけで、私がトランペットやゲームをやっている価値は十分にあるわ。これが私を生かすのよ」

『うるさい、俺には、必要ない……』

「だからあんたは駄目なのよ。自分を労うことも出来ないんだわ。私は、今まで吹いてきたトランペットのソロと、クリアしたゲームの記憶があれば、自分自身を愛することができるわ。この楽しい思い出の蓄えが、あんたには足りないのよ。私はあんたみたいにクソつまらなそうな人生なんか、絶対送らないわ。だからあんたなんかに、無駄だなんだって言われたくもない。辞めざるを得なかったことには同情するけど、私が好きなものを否定したら、あんたの居場所を突き止めて、刺し殺すわ」

 それだけ中兼は叩きつけると、相手の返事を待った。

 電波に変換された、悲しそうな声だけが、私達の耳に響いてきた。

『…………どうすればよかったんだ、俺は……親に逆らえばよかったのか……ゲームを、人に押し付けなきゃ良かったのか……何が正解だったんだ、教えてくれよ』

「楽しい思い出だけが正解よ」

『…………でも、もう遅いんだ、俺は、盗んでしまった。もう、戻れないんだよ、純粋なときには……』

「あのデータは、消えたわ。もう、中の電池がなくなっていたの」

 そう中兼がはっきりと告げた。

『……消えた?』

「ええ。あなたの盗んできたデータは消えた。だけど、あなたが自分でそこに到達しようとした方のデータは残ってる。あなた、あの極限まで高められたデータを見て、自分もそこまでやり込もうとしたんでしょ。自分のソフトで」

『……ああ、そうだが、なぜそれを』

「クリアしたときのレベルにしては高いもの。プレイ時間も、長いと思った。あなただって、あのゲームのこと、ちゃんと好きでしょ」

 中兼が、私の記した紙の、何処にも書いていないことを口にした。つまりそれは、せれな先生も気づいていたか気づいていなかったか、わからないような分野だった。

「このソフトは、返します」

 そう中兼が告げると、紗良が声を発しないで「なに言ってんの! お父さんの!」と口だけで訴えたけれど、中兼は手のひらを出してそれを止めた。

「あなたが愛するべきは、あなたと冒険したこっちのデータよ。電池の残りも僅かだって言うのに、あなたを待っていたのよ、きっと。あなたは自分ができる範囲で、彼らを愛した。その事実は消えないわ」

『……そうか』

 胃の中のものを全て吐いて、逆になんの心配もなくなったかのような声が、スマートフォンから聞こえる。

 転調でもしたかのような、空気の変わりようだった。

『何をしていたんだろうな、俺は…………なんだったんだろうな。俺は、何処に行っていたんだろうな……』

「他のソフトも、全て返却するわ。そこにも、あなたを称えるデータが残っているはずよ。全ては確認してないけど、健在なはずよ」

『そこまでは、悪いさ、大貝獣物語だけでいい』

「いいえ」

 中兼は、微笑んだ。

「ソフトに、あなたの名前が書いてあるもの」



 最終日までのバンド練習は、自分でも驚くくらいに調子が良かった。

 その理由はいくつか思い当たるけれど、最大のものは謎のゲームに対する懸念が、綺麗に晴れたことだろう。無事に紗良に頼まれた通り、あれの正体がなんなのかはわかった。またしても、推理は私の手によるものではないと、言うことが出来なかったが、紗良の嬉しそうな顔を見ていると、どうでも良くなった。

 けれど、それだけが私の好調の理由ではない。自覚はしている。けれど、認めたくなかった。

 ――この女の言葉に、私が救われたような気になっていたのを。

「奈津乃」

 私がじっと彼女の横顔を見ていたら、急にその本人が私の方を向いたので、慌ててギターのフレットに視線を戻した。

「さっきの演奏、良かったわよ」

 初日とは打って変わって、中兼は私を素直に褒めた。文句を付け加えることもなかった。本当に、本心から良いと持っているのだろうか。それとも、私が彼女の小言だけを、覚えていたのだろうか。どっちだって良かった。

 私には、やっぱりギターを弾くしか無いのかなって、思い直したの。

 なんて、そう答えようと思ったが、中兼の嬉しそうな顔を見ると、なんだか気に入らなかったので、私は死ぬまで彼女への小さい感謝を、胸の奥にでもしまうのだろう。

 最後の練習が終わると、中身が大貝獣物語になったアクトレイザーを持って外へ出た。手頃な箱と一緒に。

 埋めよう、と言ったのは美保子だった。おそらく何も考えていないのだろうが、そういう行為自体に憧れていたのかも知れない。けれど、不思議なくらい、埋めることが正しいように思えた。

 荒川の目に触れないように、そして死んでしまった、連れ去ってきたデータを、供養するかのようだった。

 場所は庭にした。掘り返すつもりもないので、シャベルで深く掘った。紗良は、埋める場所を私が知っていると意味がないから、と言ってついて来なかった。だからもっと遠くに埋めるべきなのだろうと考えたけれど、他人の土地で、なにかがあって出土するのも嫌だった。

 箱はいたって普通の、スナック菓子が入っていたものだった。そこにゲームソフトをハンカチで包んで、穴の底に置いた。土は慎重にかけた。あんなに鮮明だったパッケージが、自然と一体になって、もう見えなくなった。

 死体を埋める事になったとしたら、今日のことを私は思い出すのかもしれない。



 帰りの電車は、夕方だった。その日は準備もあって、練習をまるでしなかったというのに、この一週間の疲れが急ににじみ出てきたかのように、身体が重たくなった。電車に座ると、水面に浮いたように気持ちよくなった。

 気がつくと眠っていたが、まだ電車は到着していなかった。見回すと、紗良と美保子は向かいの席で、隣り合って眠っていた。私なんかより、ずっといろいろなことをしてくれていたのだろうと思うと、そっと寝かせておく以外に選択肢はなかった。

 隣には、中兼由麻が座っている。眠っていないのか、私が目を覚ますと、すぐに気がついた。

「奈津乃。起き抜けに、あんたの公開ジャムセッションの音源、聞く?」

「なによそれ。最悪の目覚めよ」と私は悪態をついたが、考え直した。「聞くわ」

「どうしたの? 頭でも打った?」

「気が変わらない、うちに早く流してよ」

 耳にイヤフォンを突っ込まれた。

 ノイズの中から聞こえる、軽快に流れる音楽に、じっと耳を澄ませた。あの日のことなら覚えているっていうのに、外から聞いた時の印象は全然違った。

 なんだ。

 こんなものか。

 良くもなかったし、悪くもなかった。けれど、自分の演奏を聞くというハードルだけが、壊れてしまったみたいだ。

「……ま、こんなものね」私は努めて冷静に、彼女にイヤフォンを突き返した。

「自信持てって、前から言ってるでしょ」中兼が、私を馬鹿にしたように見た。「この積み重ねが、あんたを未来へ連れて行くのよ」

「……中兼って結構恥ずかしいこと言うけど、良いやつだったのね」

 そう告げると、彼女は顔を赤くした。

「……そのほうが、荒川さんには効果的だって思っただけよ。このうすらばか」

 彼女はいたたまれなくなったのか、窓の外を眺めた。私もそうした。行きとどれだけ景色が同じなのか、どれだけ違って見えるのか、気になったからだった。

 日が陰っていく。夕日だ。合宿で訪れたあの家も、自然も、川辺も、古いゲームも、そうやって思い出という胃袋の中に、無理やり流し込まれていくような感情を、私は抱いた。

 思い出す日が来るのか、私にはわからなかった。明日にはもう忘れてしまっているのかもしれない。

 ただ、終わったのか、と私はそういう実感だけを持っていた。

「ねえ、大貝獣物語のエンディング、知ってる?」

 彼女が窓から視線を離さないで、急にそんな質問をしてきた。

「知るわけないわよ」

「……そもそも主人公、勇者はあの世界に、私達のような現実世界から召喚されてやってくるんだけど、過酷な冒険の末に、巨悪を倒した勇者は、元の世界へ帰るの」

「ありがちね」

「目が覚めると、元の世界に戻っていたの。あの冒険は全部……何もかも全部が、夢の話なんじゃないかって思うの。死んだ人たちも、一緒に戦った仲間も、全部夢だったのかなって。夢の話に、泣いたり笑ったりしたのかなって……私はそう思ったの」

「…………」

「でも、手のひらには勇者の証しだった貝が握られていたの」

「そう……」

「夢じゃなかった。私達が泣いたり、笑ったり、同情したり、本気で憎んだり、それに費やした時間は、本当にあったことなのよ」

 中兼由麻は私に視線を戻して、私の目を見つめる。

「私は、死ぬ前に自分が救った世界の数を、数えながら死ぬわ」

 そう語る彼女の顔を見ながら、

 私はつい、笑ってしまった。

 彼女は、きまりの悪そうな顔をしたけれど、

 私は言った。

「由麻らしいわ、その死に方」



 みんなと別れて、最寄り駅についたときには、既に夜だった。

 重いギターとスーツケースを引きずって、帰りたくもない家に帰っていくのは、かなり苦痛だった。

 夜の住宅街。見慣れていたはずなのに、私を歓迎していない。変わってしまったのは私なのだろうが、おそらく数日で元に戻るだろう。歓迎されていないと思うのは、私がここにいたくないと感じているだけに過ぎない。

 家に帰ると、母親に文句を言われたが、無視してさっさと二階に上がった。

 知るか。

 なぜだろう。私はとても、ギターが弾きたい。

 その先に、何が待っているのか、何を得られるのか、未だに見えては来ない。

 ケースからギターを取り出して、抱えた。

 初日に、新品の弦に交換したはずなのに、もう所々汚れて、錆びていた。

 曲を流す。

 あの時代。

 あのレトロゲームの時代には、何で音楽を聴いていたのか。

 カセットテープ? 私は触ったことがない。

 流れ始める。

 せめて、この時間を、

 この費やした時間を、将来愛せますように。

 だから先生、お願いします。

 私は、卒業したらもう、死んでしまっても良い。

 死んで後悔しないように、私自身を愛せるような、美しい思い出にさせてください。

 そう祈りながら、あの合宿でついた弦の汚れごと、私はギターを握りしめた。

 この曲が、テープが終わるまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る