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明日着ようと思っていた服を、何故かもう着て歩いている。
街灯すらそれほど立っていない、歩き辛い田舎道だった。それなのに中兼由麻は、私の先頭に立ってすいすいと前に進んでいった。
夜道を歩く私の目には、ふわふわと揺れ動く、彼女の普段よりも大人しい髪と、私よりも華奢な身体と、吸っているだけでむせ返りそうな田舎の空気が映っていた。こういうところに来ると、私の家のあたりは、まだ人の多い土地であることを認めてしまう。
目的も告げないで私を連れ出した中兼に対して、未だに恐怖心は消えていなかった。これから屠殺される豚のような趣を感じながら、私は恐る恐る尋ねてみた。
「ねえ、何処に行くの」
「川よ」
簡潔に、顔も向けないで、彼女はそれだけ答えた。そういえば、川がこの辺りにあると聞いた気がした。何処から来て、何処へ行くのかわからない川のことなんて、私はその瞬間まで、少しも覚えていなかった。
「何しに行くの」
「避暑」
「家にいたほうが暑くないわよ」
「あんたが騒ぐからよ」
咎められるようにそう言われると、私は口を閉ざしてしまった。このあと本当に殺されるのだとしても、文句を言えるのかどうかもわからなくなった。
彼女は、私を待っていたと言った。理由の予想もつかない。
「私になにか用があるっていうの」
「話したかったのよ、あんたと。心ゆくまで」
こっちはあんたなんかと関わりたくないんだ、と言ってやる気力もなくなるほど、何故か彼女は悲しそうにそう呟いた。私が避けているのが、そんなに悲しいのだろうか。
「奈津乃も、両親との折り合いが悪いの?」
中兼が、また私のことを詮索している。
「……中兼もそうなの?」
答えないでそう訊き返すと、別に質問に答えたわけでもないのに、彼女は安心したように笑った。
「ええ。私も」彼女は振り返った。「お互い様ね」
「ふん……」
「私がなんでゲームが好きか、教えてあげるわ」
聞いてもないのに、中兼が自分のことを話し始めた。だんだんと、足場の悪い道を通り始めている。民家も消えて、森ばかりが視界に入ってきた。
「親が、私のこと嫌いなのよ。どれだけ良い子にしていても、全然認めてくれなかった。その理由を、問いただす気にもなれなかったけれど、小学校に入る頃くらいに私は、もうあの人達の顔色をうかがうのはやめようって思ったの。おじいちゃんたちは私に良くしてくれたから、両親には内緒で何でも買ってくれた。トランペットも、ゲームも。私は特に欲しくはなかったけど、おじいちゃんがジャズが好きだったし、私もその影響でよく聴いてたから、トランペットを吹きたいって頼んだのよ。よく出来た子供でしょ」
だから別に、もともと好きトランペットを始めたわけじゃないわ、と彼女は卑しく付け加えた。
「……あんたらしいわ」私は狂人を見るような目になった。
「ゲームは、友達が必死になってやってて、でも楽しそうだから、興味が出たの。で、ちょうど親戚がもうゲームはやらないって言うから、貰ったの。紗良のお父さんみたいなものね。古いゲームだったけど、なんだかそれが心地よかったの。ジャズもそうだけど、生まれる前の文化に、何故か強く惹かれるのよ。あんただって、プログレに対してそんな思いなんじゃないの?」
「私はプログレを正当に評価してるわ」
「はは、そうなの」中兼が楽しそうに笑った。「ゲームは私に必要なものだったの。親が褒めてくれない代わりに、ゲームが私を認めてくれた。がんばった分だけ、私に世界を見せてくれた。だから好き。ゲーム音楽だって、私は好きよ。だから私だってプログレぐらい聞くわ」
「…………」
自分のアイデンティティが揺らぐような感覚があった。プログレッシブ・ロックがゲーム音楽に大きな影響を与えているのは、私でも知っていたけれど、それを中兼が聴いているなんて、知りたくもない事実だった。
私だけが、好きだと思っていたのに。
私達はそれから、通りがかったコンビニに寄った。中兼がアイスを買いましょうと言ったので、少し小腹が空いていた私はそれに従った。最後の晩餐、という言葉を頭に思い浮かべた。
「奈津乃はどれにすんの?」
「じゃあ、これ」よく見もしないで、適当に手にとった。スティックタイプのバニラアイスキャンディーだった。
それを中兼が、嫌がらせみたいに私から奪った。何考えてるんだと訝っていると、彼女は言う。
「じゃあアイスを買ってあげる。帰りは奈津乃がジュースでも奢ってよ」
私の答えも聞かないまま、彼女はレジにアイスをふたつ抱えて持っていった。
また、黙々と川を目指していく。レジ袋にアイスと保冷剤を入れたまま、手にぶら下げている中兼を、私は追う。
彼女は、片手でスマートフォンを操作しながら歩いていた。この悪路の上に夜道で、危ないだろうと私は心配になりながら歩いていると、彼女は前触れもなく言った。
「あのゲームの持ち主、やっぱり高校三年を境にゲームを辞めてるみたいなのよね」
「……ああ、えっと、荒川さん?」突然にそんな話題を出されても、頭がついていかなかった私は、荒川優希の名前を思い出すことすら、少し手間取った。「荒川さんが、だいたい中学三年のころのゲームだって言ってたっけ」
「あそこにあるゲームの年代を調べたんだけど、彼が高校三年の十月までに発売されたソフトしかなかったの」スマートフォンをしまった。覚えている範囲で、ネット検索をしていたのだろう。「高校三年、まあ、大学受験の時期だろうけど、そこでゲーム自体を辞めてるんじゃないかしら」
中兼は、残念そうに呟く。なにか、そこに文字以上の悲愴を見出しているらしい。
「ゲームなんて、子供がやるもんじゃないの」私はそう答える。
「そんなことないわ。いつだって、人間に娯楽を与えてくれる、音楽や文学と同じようなものよ。それを急に辞めるなんて、何があったのか、あまり考えたくもないわ」中兼が顔を伏せた。「私は辞めない。もうやめられないし、そんなつもりもない。彼には……同情するわ。多分だけど、自分の意志じゃないのよ。あれだけやり込んでたんだから。あのソフトだけじゃないわ。辞める年のゲームまで、ちゃんとクリアしてたのよ」
闇の中に、なにか見たくもない獣が蠢いているような、背筋の寒い思いが私に走った。
風が私達に吹いてくる。川が近いのか、もう道すらよく見えなくなった今では、よくわからない。
私は訊いた。
「それって、入れ替わったゲームと、なにか関係あるの」
「何言ってんの。それを見つけ出すのが、奈津乃探偵の仕事でしょ」
「……わかりましたよ」
中兼がビニール袋を振り回して歩いた。
「じゃあ一つだけ、ためになりそうなことを教えてあげる。あのソフトは、中古価格も大したことのない、どこでも買える至って普通のゲームよ」
川。
それほど暑いとは思わなかったけれど、しばらく歩くとさすがに汗をかいていた。薄着の服が肌にまとわりついて、何処かスーパーのパックされた魚みたいだ、と私は思う。
「着いたわ」
川の流れる音だけが聞こえた。暗くて、何も見えなかった。足を踏み出すと、砂利の感触が靴を通じて伝わってきた。その地質の変化に、足を取られて転びそうになる。
中兼はスマートフォンのライトで、川の方向を照らした。嘘みたいに、天から降ってきたかのように、至って普通の長い川が私の目の前に現れた。向こう岸には森が広がっていて、私の足場には、石の粒が大きい砂利が広がっていた。辺りには虫も飛んでいて、鳴き声がずっと聞こえている。
それでも、こんな時間に川に来ることなんて、今までの人生の中で一度もなかったので、自分が少しだけ興奮しているのを自覚する。なにか大きな自然存在を前にして、無力さを感じるのが、気持ちいいのかもしれない。
中兼が座りやすい場所を見つけて、そこに腰を下ろした。お尻が痛そうだったけれど、私もその隣に座った。案の定、ここに十分も座るのはきついと思えるくらい、座り心地が悪い。
「いいところね」彼女は、私とは全く違う意見を口にした。「私、辺鄙な田舎って結構好きなの。住みたくはないけど、逃げ込むには良いところだとは思わない?」
「蚊に刺されるわよ、こんなところ」既に、私は肘先が痒いような気がした。
「それも味ってね」
そうして、そのまま中兼とどうでも良い雑談を繰り返した。
プロになるのかどうか、という話を唐突にされたのが嫌だったけれど、彼女も私と同じような考えらしい。不思議な部分で、この女と私は似ている。いや、私が全てにおいて劣っているだけで、と相似の関係にあるのだろうか。
「私だって……」中兼が、顎を膝の上において、呟く。「他のことに興味なんて出ないわ。トランペットも、結局始めたらのめり込んだし、ゲームだって、もう私にはなくてはならないものだもの。それ以外のことなんて、考えたくない。だから、これに費やした時間を、無駄にしたくないんだけど、現実なんて、私の思うようにはいかないわ」
「……そこには同意するわ」
「あんたも現実を見てるのね、意外」
「誰が意外よ」私はアイスを舐める。「他に、私なんかができることが、あるとは思えないの。向いてないのよ、生きることに……。母親は、私を普通のラインに当てはめたいんだろうけど、それが……私にとっては苦痛なの。かなりしんどいの。ギターとか音楽にしか、興味ないのよ、私って……」
かと言って、別にギターに対して好ましい感情を持っているわけではないことは、一言も口にしなかった。
じゃあなんでやってるんだ。その答えがいまだに出ていない。
母親への反発や、せれな先生との繋がりがなければ、とっくにやめているのかもしれない。
「やっぱり、あんたって面白いわ」中兼は、首だけを私に向けて笑った。アイスは既に食べ終わっていた。早いことだ。「現実は見てるし、プロが遠い道だってこともわかってるけど、だけどじゃあ将来につながる何かをやってるわけでもないのね」
私は、川に石を投げ入れた。流れに飲まれたのかどうかも、全く見えなかった。
「……悪い?」
「あんたはそれでいいわ。そうじゃないと駄目なのよ、あんたは」
彼女は足を伸ばして座った。痛くないのか心配になったが、心地よさそうに息を漏らした。
「この合宿に着いてきたのは、あんたに対する嫌がらせだけじゃないの」
「嫌がらせの意味もあったのね」
「入学したときから、あんたが気になってた。私なんかよりもずっとアドリブが上手かったから、何なんだろうこいつって思って。追いつきたいって思ってた」
「…………そ、そうなんだ」
そんな時のことはもはや覚えていないが、いつの間にか撮られた恥ずかしい写真を見せられたような気分になった。
こいつは、私を本当に認めていたのか。嬉しいと言うよりも、奇妙だった。だから彼女の言葉を、真剣に受け止められなかった。
「やっぱりジャズの花は、アドリブソロよ」彼女は手でトランペットの運指をする。「決まったフレーズなんか弾いたって面白くないわ。その日の調子に左右される、もう二度と聞けない儚さが、そこにあるから良いの。あんたは感受性があるのか知らないけど、その日によってのアドリブ内容がまるで違うから、凄いなって思ってた」
「……適当に弾いてるだけよ。プログレの人なんて、もっととんでもないんだから」
「でも、あれもジャズの発展という側面があるじゃない? あんたは、そこに辿り着こうとしてるのよ」
変に褒められると、顔が熱くなった。私は首を振って思ったことを口にする。
「中兼だって、上手いじゃん。私、曲に合わせるってことが出来ないから、いつも自分の演奏は浮いてるんだって言う印象があって……そこを入念に練習してるんだけど、上手く行かないの。あんたみたいに、合わせられないわ。聞いている分には、あんたのソロのほうが気持ちいいに決まってる」
「それはどうも」
褒めてやったのに、嬉しそうな様子を全く見せない中兼。私は唇を噛んだ。
「合宿に着いてきたのは、あんたと一緒に練習したらなにかわかると思ったから。追いつきたかったから。ゲームのことが気になったってのはあるけど、それはまあ、副産物よ。一緒に練習してみたかった。あんたって、こうやって巻き込んでいかないと、セッションする機会すらくれないでしょ」
「なんでこんなところに連れて来たの」
「それは、教えない」
中兼が、あくびをしながら立ち上がった。
砂利を踏み潰す音が、新鮮に響いた。
「あーあ、一人になりたくなっちゃったわ。あんたと話してると、自分に自信がなくなるのよ」
「え、何処に行くのよ」
私は慌てて手を伸ばして、彼女の裾を掴もうとしたが、彼女は避けた。
「すぐ戻るわよ、待ってて」
「ちょっと、おい、こんな美人を置いていかないでよ、危ないでしょ」
「あはは、何いってんの」
彼女は時計を見て、呟く。
「何分欲しい?」
その質問を聞いて、私は全てを察する。
そうか。ここにつれてきた理由。私を置いていく理由。
――ここなら誰にも見られないで、せれな先生といくらでも話せる。
彼女が、本当にそこまでの気遣いをしていたのかは知らないが、これは与えられたチャンスだ、と私は思った。
「じゃあ…………二十分」
「わかったわ」中兼は私に背を向けて、砂利を蹴りながら川に沿って歩いていく。「この水流が何処まで続くのか、見てくるわ」
見送る。見えなくなった。気がつくと暗闇に、私は一人で座っていた。
スマートフォンを取り出して、私は躊躇いなくせれな先生に電話をかけた。
「……結局、私一人じゃ解けない謎だったわ」
『奈津乃ちゃん、どうしたの? 頑張ってる?』
もはや、懐かしいとさえ感じるその声を聞いた途端、この人に任せておけば全てがうまくいくという核心を、私は何の疑いもなく持っていた。
「はい。夜分にすみません。謎のゲームカセットのことなんですけど」
私は切り出して、彼女にこれまでわかったことや些細なことを全て説明した。よくわからない分野のややこしい話だったので、私の説明には漏れがありそうな気がしたが、聞き終えるとせれな先生は、驚くべきことを口にする。
『うーん、それって、答えは一つしか無いんじゃない?』
「え、もうわかっちゃったんですか?」
私は目を丸くする。先生を信じていたが、もう少し時間がかかると思っていた。それを、こんなに一瞬で解かれると、私は自分の惨めさすらも感じた。
『まあ、他に仮説があるって言うなら、聞いてもいいけれど、私には一つしか思い浮かばないわ』
そして彼女は、私の耳元で長々と自分の推理を聞かせた。
せせらぎなんかあっても、先生の声ははっきりと聞こえた。
中兼がふらふらと、石を片手に持ちながら戻ってきた。
「奈津乃、おまたせ」彼女は手のひらを広げて言う。「なんか、釈然としない顔ねえ」
「暗闇に取り残しておいて、お前……」
中兼は私が言ったのを聞くと、川に向かって、石をアンダースローで投げ込んだ。丁度いい石を、何処かで見つけてきたのだろうか。中兼の投げた石は、水面を切りながら、対岸まで到達した。そんな音が聞こえた。
「それで、奈津乃探偵」彼女は腕を組んで、私を見下ろす。「謎は、解けた?」
すべてわかってる、とでも言いたげな彼女の表情に、私は微笑みで返した。自分の推理でもないのに。
「解けたわよ」
私は、のっそりと立ち上がった。
「長かったわ」
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