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「奈津乃」

「…………」

「奈津乃、いい加減に出てきなさいよ」

「…………お腹、痛いの」

「嘘を言わないでよ。誰も怒りはしないから、出てきなさいって。あんたを、責めようっていうんじゃないの」

「……嘘だ」

「じゃあ、私もトイレに行きたいから出て」

「…………」

 結局、一時間近くもトイレに引きこもっていた私は、根負けしてそこから出た。

 中兼は怒らないと言った。少しも信じていない。姿を見せた私を、蹴ったり殴ったりするような、不躾な罵倒を浴びせるのだろうと覚悟していた。

 けれど、中兼は本当に、慈しみすら感じるほど優しい顔をしていたのだった。

「奈津乃……。データは消えるものよ。あなたのせいじゃない。あの時代のゲームには、付き物なのよ。それにバッテリーバックアップだから、中の電池が切れると、必然的にデータも飛ぶわ。発売されて二十年以上も経ってるんだから、データが残ってるほうがおかしいのよ」

「……なんでよ」

「紗良には、私から説明するわ。もう寝ましょう?」

「なんでそんなに優しいのよ」

「不可抗力でデータが消えたってだけのことよ。あなたが気に病む必要なんか無いわ。何が本当の原因かなんて、確かめようがないもの。だから、気にしたって無駄よ」

「怒ってくれないと、落ち着かない。本当は、私が悪いんでしょ。私がゲームの使い方も知らない人間だから、なにかおかしなことをやったんだわ。なら、私が悪いんだから……私を怒ってよ」

「そんなことないってば」

 中兼は私の手を、子供を扱うみたいに引っ張った。

「寝たら、冷静になるわ。今日のことが、気恥ずかしくなるくらいに」

「…………」

「だから自分を駄目な人間だと思って、そこに逃げ込むのは辞めることね」



 中兼は私を布団に寝かせると、無言で自分の寝床に戻って、すぐに寝息を立て始めた。

 慰められたって、眠れるわけもない。目が冴えて、まだ心臓が変に音を立てて動いていた。止められるなら止めていたし、そのまま死んでしまっても良かった。

 貴重な手がかりそのもの、と言っても過言ではないデータだった。これを失った今、私が取れる手立てなんて、何一つ無いんじゃないか。

 諦める前に、手立てを探してるほうが良い。タイムリミットは、この合宿が終わるまで。データのおおよその内容は、中兼も紗良も美保子でさえも覚えているはずだった。それでも細部に隠されている情報を拾い上げることが出来ないのが、なによりの問題だった。あんな変なゲームソフトだ。何か、特殊なメッセージでも隠されている可能性だって、あるんじゃないか。

 謎を解かなければ、私の居場所がなくなるっていうのに、何をやっているんだろう。

 ふと、そこで思い至った。私がジャズ研究部で悪い扱いを受けて喜ぶのは? 私の偽りの頭の良さを暴きたくてしょうがないと考えている人間は?

 そんなものは、一人しかいなかった。

 私はまた、のそっと立ち上がって、中兼由麻の顔を見下ろす。

 ――こいつが、こっそりとデータを消したのだとしたら、全ての辻褄が合うんじゃないの。

 私のことが嫌いだから、私をジャズ研から追い出したいのか。私を陥れて、私の正体を暴いて、私を虐げて、私を見下して、それで一回くしゃみをするくらいには、こいつの気持ちは晴れるんだろうか。

 お前が消したのか。

 お前が……

「私の場所よ……ここは……」

 握って、振り上げた手を、何処にも下ろせないで、ふっと電源の切れた人形みたいに、私は腕をだらんと垂らした。

 寝よう。



 起きると、真っ先に中兼が、紗良に全てを説明した。私は、それを黙って聞いた。

 おおよそ事実と同じ内容だったけれど、一つだけ違っていた部分があった。昨夜、中兼と私が一緒に例のゲームを調べようとしていた、という話になっていた。

 何のつもりだ。私は口には出さなかったが、中兼をそっと睨んだ。

 紗良も、データが消えるという現象自体には、特に深い反応は見せなかった。本当に、この時代のゲームにはよくあることらしいと、私は彼女の表情を見てやっと理解した。中兼からデータが消えたと聞いたときも「あー、マジ? そっか……」と諦めのような声を漏らしていたに過ぎなかった。

 午前中は、昨日と同じくバンド練習に費やした。演奏内容は最悪だったけれど、中兼は何のつもりなのか、私の演奏にケチを付けてくることはなかった。慰めているのだろうか。はっきり言ってそんな気遣いはいらない、と私は悪態を付きたくなった。

 練習の途中で紗良が抜けて、何処かに電話をかけた。紗良がいなくても、演奏自体はなんとかなるということで、中兼が代わりに取り仕切ってバンド練習は続いた。

 紗良が戻ってきたのは、私が耳を覆いたくなるようなギターソロを、淡々と弾くのに飽きた頃だった。

「調べたよ」

 と紗良が、メモ紙をひらひらさせながら、リビングに再び顔を見せた。

「ゲームの持ち主のことを、お父さんに聞いてみたの。今日は休みだって言うから、都合がいいと思って。途中で抜けてごめんね」

「もう。部長が厳しいから困っちゃったわよー」と美保子が、つらそうな声を上げながら、笑った。「それって、荒川優希さん?」

「そう。一応、今でも友達みたいだけど、そこまで深い付き合いはないみたい。ゲーム貰った時に久しぶりに会った、って言ってたかな」紗良は椅子に座って、メモをテーブルの上に置いた。「……なんか、めんどくさそうな人みたい。小さな企業で働いてるみたいなんだけど、何が楽しみで生きてるのか、お父さんもわからないってさ。昔から、そんなに明るいほうじゃなかったけど、高校受験ぐらいから極端に暗い性格になったんだってさ。それから友達も減ったんだけど、とりあえず、お父さんは仲良くしてたみたいだよ。ゲームの話も、もう殆どできないけど、彼が生きているのを確認できるのは自分だけだ、って意気込んでるみたいだったよ」

 そんな話を聞いて、今まで名前だけの存在だった荒川優希という入れ物に、泥水を流し込んで形作ったような気分になった。

 楽しみがなく、生きているだけの人間。

 私が嫌いな、母親にどこか似ているような気がした。

「ゲーム、もう辞めたってこと?」中兼が、あれだけ偉そうに私の前で吹いていたトランペットを、適当に床に置いて、紗良の話に食いついていた。「あそこまでやり込んでたっていうのに、あっけないものね……」

「そうみたいだね……」紗良も、何処か残念そうな顔を見せた。「ゲームに関してだけど、その人の父親の兄弟、叔父に当たるのかな。その人がゲームショップを経営してたから、影響もあったみたい。彼がくれたゲームの中にも、その店のシールが張ってあるやつが、何本もあったと思うよ」

 私はそんなシールなんて何の印象も残っていなかったが、深く頷く中兼を見ると、紗良の話に間違いはなさそうだった。

「あ、そうそう」と美保子が急に声を上げる。「シールで思い出したんだけど、ネジが緩んでるソフトがいくつかあったわよ。昨日、そのシール見てる時に気づいたんだけど」

「へえ。どれ?」

 中兼が尋ねると、美保子はドラムの前から立ち上がって、何本かのソフトを抱えてテーブルに置いた。タイトルを見てもピンとも来ないし、統一性も無いのだろうが、美保子がボールペンを取り出してネジを押さえると、固く閉めてあるはずなのに回転するのが見えた。

「ね?」

「ってことは、一回開けたってこと?」紗良が首をかしげる。「これも中身が違うなんてことは、ないよね」

「それは大丈夫だった」と美保子。「初日に、部長と一緒に確認したわ。中身が違うものになってるのは、アクトレイザーだけだって。奈津乃が和室で練習してるときに調べたの」

「あのときか……」私は感想を口から漏らした。「なんで開けたんだろ。あの、中兼さ、ソフトの電池がどうとか言ってなかったっけ」

「ああ、バッテリーバックアップ?」中兼が、素直に答えた。「確かに、電池交換でソフトの中を開けることはあるわよ。基盤に、電極のついたボタン電池がハンダで付けてあるんだけど、それを取り外して交換するの」

「そのために開けたんじゃないの?」

「いい考えだけど、発売当時に電池交換が必要なソフトなんて、殆どないわよ。電池容量もおよそ十年は保つとか言われていたみたいだし、あの当時に中を開ける理由にはならないんじゃないかしら?」

「じゃあきっと、開けてみたくなったから?」美保子が言った。「これって、変わった形のネジだけど、ゲームショップなら、そういうドライバーもあるわよね? それをおじさんから貰った荒川くんが、好奇心でいくつか開けてみたくなって、その間に間違えてアクトレイザーと大貝獣物語を入れ替えてしまった、とか、どう?」

 嬉しそうな顔を見せながら、そんな推理をする美保子を、中兼が鋭く刺した。

「だったら、大貝獣物語に入ったアクトレイザーが見つからないとおかしいわよ」そして、中兼はいじらしく私を見つめた。「ねえ。奈津乃探偵は、どう思う?」

 私は腕を組んでから、物々しく咳払いをして、他所を向きながら言った。

「ノーコメントで」



 練習が再開した。

 また中兼に怒られるとは思っていたけれど、ゲームの謎のことを考えずにはいられなかった。曲はマイ・ファニー・ヴァレンタインだった。弾き慣れているので、それほど神経を使うほどではないのが、余計に私の頭を雑念に割いていった。

 荒川優希。あれ程やり込んだゲームという趣味を、捨てた男。

 時間を費やしたものを、あっさり捨てるときの心境を、若い私はいまいち理解できていなかった。おそらくだけれど、命綱を手放すようなものなのだろうか。実際は、もっと簡単なのかもしれないが。

 美保子のドラムが、私の考えを邪魔した。邪魔してくれてよかった。

 落ち着いて、コードを弾く。エアジンに比べれば、大したテンポでもない。原曲よりもずっと早いが、慎重に行けばミスする部分すら無いはずだ。

 中兼が、ソロを吹いた。

 音がきちんと出ているというのに、耳に痛くならないのが彼女の演奏の不思議な点だった。こればかりは、ギターの私には理解できない到達点なのかもしれない。口と肺活量を使うが故の、有機的なコントロールがそこにある気がした。

 頭を打たれたように暗いマイナーコードに対して、完璧なフレーズを当てはめる中兼に、微妙な嫉妬心を覚えながら聞いた。

 このレベルに達するまでに、どれだけの練習を積んだのか。その地層なんて、絶対に眺めたくなかったし、プロがもっととんでもない技量を持っているなんてことも、私は理解していた。

 中兼は、この技術をどうするんだろう。

 ジャズ研究部の発展に使って、それで終わりなのか。

 それだけで満足するのか。

 ここで、偉そうにソロを吹いて、その先は目指さないのか。

 将来がある人間。私は、羨ましいと思った。

 私のソロの番。

 雑念は捨てる。

 このバンドに必要なのは私だ。私のソロに決まっている。中兼が、優れていてはいけない。

 真剣だった趣味を捨てた荒川優希の心境と、技術を高めるだけの中兼と、現実から逃げ続けていた自分が、重なって見えた。

 その場の思いつきは、私の得意とするところだ。

 親指で弾いていく。

 一音一音を丁寧にする趣味はない。一番目立つ部分と、そうでない部分のコントラストを大事にしろと、せれな先生が言っていた。

 弾いた。

 美保子がなにか言っていた。それを聞く。

「奈津乃! リズム聞いて」

 先走るな。私の音は今、中兼を殺すためにあるんだ。

 頷いて、合わせていく。音の振動で、髪が揺れるような幻想すら見えた。

 思いを、表に出すだけだった。

 嫌いなお前を、五線譜の上で殴りたかった。

 中兼が、なんだかんだ言って私を褒める理由。

 それはきっと、完全に思いつきのアドリブが、彼女には物珍しく聞こえるからだろう。

 プログレッシブ・ロックが趣味という偏った知識も、作用している。所詮は、ジャズ研究部員にすぎない。プログレ由来のフレーズなんて、理解できるのかどうかも怪しい。

 どうだ、

 中兼。

 私は、あんたが褒める価値のある人間なの?

 中兼は私のソロを聞いて、驚くような顔を見せたけれど、すぐ冷静に自分の演奏に戻る。

 紗良のソロは、あえて目立たないようにしていると言っていた。それは、私を立てるためだと本人から聞いたことがあるのだけれど、今日は私と中兼のどちらを主役にするつもりなのか、音を聞いただけではわからなかった。

 テーマを経て、二度目の中兼。

 私をちらりと見て、微笑んだ。

 それから、とんでもないフレーズの応酬が、私を襲った。

 こいつ、こんな演奏もできたのか。

 鼓膜や脳みそや、心臓をぐるぐると揺さぶられるようだった。私の適当なプレイに、少しだけ似ていた。あえて似せてきたのだろう。

 対抗しているのか。

 いや、どう聞いても中兼の方が上だった。

 私はそれを目の当たりにして、

 砂漠の真ん中で立ち尽くしたような虚無感に襲われてしまった。

 何を演奏すれば良いのか、わからない。

 適当に凌いでいると、いつの間にか曲は終わっていた。

 息が切れている。何も音楽がないという状態に、耳が慣れるまでにそれなりの時間が必要だった。

「奈津乃」

 中兼だ。私を嬉しそうに見下しながら、にこにこして話しかけてくる。

「どうだった、私のソロ」

 そんなふうに、私に話しかけないで欲しい。

 何も答えずにいると、美保子がドラムスティックを振り回しながら、口を開いた。

「私は、自分のドラム、良いと思ってるわ。そりゃ、もっと上手い人はいるし、部長のバンドほどの完成度は見込めないと思うけれど、私は自分のドラムが好き」

「それがあなたの良いところよ、檜原さん」中兼が言った。「紗良だって、自分の演奏、好きでしょ」

「まあ、そうかな」紗良がどこか恥ずかしがりながら返事をする。「私、人を支える方が好きなんだよね。だから凄いプレイヤーになりたいっていうんじゃなくて、もっと自分より目立つ人とバンドをやりたかったんだよ。だから、今感動してる」

「奈津乃。あなたは?」

 指を向けられた。

 私は、

「…………好きじゃないわよ、自分の演奏なんか。楽しいと思って、弾いたことなんて一度もないもの」



 三人が休憩をとっている中で、私だけが黙々と基礎練習に興じていた。特に疲れを感じていなかったし、何よりもこの三人に負けたくなかった。楽しみで演奏している人間が、私のようにただの現実逃避でギターを弾いている存在よりも、同じ練習量ならばずっと高みに到達できるなんてことは、世間をよく知らない私といえども心で理解できていた。

 スケール練習、運指練習、コード、理論、その他。せれな先生から、こういう時の時間の潰し方は、入念に教えて貰っていた。

 私がひたすら大きな音でギターを弾いているというのに、三人の雑談は止むことはなかった。

「ねえ、卒業したらどうすんの」と紗良が切り出したことが始まりだった。私にとっては、耳が痛い話題だとしか言いようがなかった。「三年だから、なんか考えてんのかと思ってさ。友達に聞いても、結構ぼんやりしてるやつばっかりだったんだけど、由麻も美保子もしっかりしてそうじゃん」

「考えてるわけじゃないけど……」美保子は目の前に積み上げられている、コンビニで買ってきたお菓子を食べていた。「お父さんの会社に来いって言われてるわ。興味がないわけじゃないし、それを蹴ってでもやりたいことがあるわけでもないから、言うとおりにするつもりだけど、まだ決定はしてないわね」

「へえ。美保子んちって、裕福?」

「いやだわ、そんなことないわよ」美保子が笑った。謙遜なのか本当に一般的な家なのかは判断がつかなかった。私はマイナースケールを弾いた。「でも、そうね。バンドっていうか、ドラムは楽しいから続けたいと思ってるわ。いい趣味になると思うけど」

 趣味。

「そっか。その時も一緒にできたら良いね」紗良が言った。「私は、妹ととにかく違うことがしたいから、家からもなるべく離れたいんだけど、正直O駅あたりのことは好きなのよね。バンドを続けるって言うなら、O駅から離れる動機もないし。バンドも楽器も辞めたくないから。妹のやつと、なるべく差をつけたいんだよ」

「妹さんのこと、嫌いなの?」意外そうに、中兼が訊いた。「前から、ちょっと恨んでるふうに聞こえるけど」

「嫌いだよ、あんな奴。同じ血が流れてることが、信じられないっていうくらい嫌い」紗良は指の関節を鳴らした。「あんな馬鹿の話は良いから、あんたはどうなの、由麻。部長さんの楽器の入れ込みようは、一般人の範囲を超えてると思うけど」

「はは。それは奈津乃だって異常よ」中兼が私の名前を勝手に出して笑った。「まあ、卒業したって楽器は続けると思うけれど……今からどれだけ練習した所で、プロにはなれないでしょうね」

 プロ。

 私の耳が、動くような気がした。

「そんなに上手いのに、駄目だっていうの?」紗良が首をかしげる。「そりゃ、厳しいだろうけど、世界一になるわけでもないなら、なんとかやっていけるんじゃない?」

「無理ね。私に、そんな熱意はないもの」そう言って、トランペットを触る中兼。「バンドや楽器は、続けると思う。だけど、今打ち込んでるのは、プロになるためじゃないわ。多分、思い出にしたいだけよ。将来どんな事があっても、それを凌げるだけの思い出よ」

 その言葉が、なんとなく嘘のように、私の耳に響いた。気の所為かもしれない。

「ねえ奈津乃」と中兼。さっきもそうだけれど、答えたくも考えたくもない質問を、どうしてこいつは投げかけてくるのだろうか。「あんたは、どうするの」

 私の名前を呼ばれて、若干驚いて私は、ギターの手を止めた。

「……さあ、考えたこともないわ」

 中兼は私の答えを聞いて、さっきみたいに面白くもなさそうな顔をして、雑談に戻った。こいつは、私からなにを聞き出したいのだろう。裸を見せろと迫られているような、妙な羞恥心がある。

 けれど私は、再びギターも持たないで、質問について向き合ってしまう。出発前にも、母親に問われたのを、嫌な苦味とともに思い出した。

 そもそも、どうしてギターを弾いているのか。親への反発と他人との差をつけるためという理由以外には、なにも考えたこともなかった。楽しくもなく、将来につながるようにも見えない。

 プロか。

 なれるものならなりたい。その理由は、今やっていることの延長だと思っているからにすぎないが、実際にそんな甘い世界ではないのは、頭よりも身体が理解していた。

 どうしてだろう。

 答えが見つからないまま、その疑問だけは明確に、ずっと抱えていた。

 なんでこんなことやってるんだろう。

 謎だってそうだ。一時の評判のために、なんで真剣になっているんだろう。

 ギターを再び、持つ気分に離れなかった。



 そのままの姿勢で、いつの間にか眠ってしまっていた。窓から差し込む光が、少しだけ気持ちよかったというのもあったが、中兼の変な質問が続いたせいで、急にスイッチが下りてしまったようだった。

 目が覚めても、ギターを弾く気分にはなれない。眠っている間の幸福感が、現実によってどす黒く侵食していくような実感だけが、はっきりとある。すこし考えすぎたのだろうか。けれど気持ちだけが晴れなかった。自分の髪の毛を、引き抜こうとしたけれど痛かった。

 中兼は懲りずに紗良とゲームを調べていた。どうせ、重要な手がかりは消えたっていうのに、何が見つかるというのだろう。そう感じて吐き捨てる私は、既に捜査を諦めているのかもしれなかった。

「ああ、それはやったことある。そっちは無いわね。借りて帰ろうかしら」

「駄目だよ、お父さんに聞かないと」

 仕方がないなと言う気分を抱えながら、私は彼女たちに近寄って話しかけた。

「なにしてんの? 謎のゲームソフトのこと考えてんの?」

「いや」紗良が首を振った。カートリッジを両手に持ちながら。「それは進展がないから諦めたけど、この中から由麻がやったことがあるソフトを見てるんだよ。この人、クリアしたソフトを全部メモしてるから」

 変態的だ、と私は口には出さなかったがそう感じた。私も、聞いたプログレッシブ・ロックのアルバムを、一言コメントを添えて全てメモしているが。

「なによ」中兼がやや恥じらいを見せながら、身体を捻った。「別にいいじゃない。趣味なんだから」

 と言って、そのメモを私に見せた。スマートフォンの中に保存されているテキストデータだった。そこには、クリアした年ごとにゲームの名前が羅列されていたが、私が見た所で意味はわからなかった。

「昔の、アクションゲームばかりよ。大貝獣物語はやったことはあるんだけど、RPGはそんなに手を出してないわね。時間がかかるのよね。なにより、アクションゲームが好きだから」

「へえ……」とどうでも良さそうな返事を、私は向けた。

 こんな顔をして、こいつは私を陥れるのにデータを消したという疑いがあるのに。そしてそれを、誰も疑っていないのがなによりも腹立たしい。

「歴史みたいなもんね、これは」中兼が胸を誇ったように張った。「これが私の実績なんだと思うと、ちょっと嬉しくなる。その思いだけで、これが無駄な暇つぶしじゃないってことが、実感できるわ。ちなみにこの『鋼』っていうアクションゲームが私の一押しなんだけど」

「……あらそう」

 彼女の笑顔が、叩き潰したいくらい輝いて見える。このように、自分の行為を誇らしく思うタイプの人間を、やっぱり私は苦手だと思っていた。紗良や美保子に対しても、私は同じ理由で、引いた視点で見てしまっていた。

「あんたって」私は座っている彼女を、見下ろしながら尋ねる。「人とゲームの話をすることあんの」

「どうだろう」中兼が、唸った。「同級生でもちろんそんな話ができる人なんていないから、必然的に年上になるわね。特に話したいっって思うわけじゃないけど。人と話題を共有したいなら、ジャズでも吹いてあげたほうが理解されるわよ」

「その知識をつけるのに、どれだけゲームに時間を費やしたの」

「別に、アクションゲームなんて、そんな時間もかからないわよ。ジャズの名盤を知っていくほうがどう考えても深いわよ。信じられないくらいあるわよね。どれだけ知っても、全然安心できないのよね」

 満足する答えが得られなかったので、私は自分のギターの方へ戻った。

 ゲームのことを知って、せれな先生と話を合わせたかった。一瞬だけ、そう思った。先生と深く理解し合えるようになれば、私が生きる上での自信が得られるような気がした。

 結局、何処まで行っても、私はせれな先生に頼り切りなのかと思うと、嬉しいような悲しいような、割り切れない思いが水面のアメンボみたいにあった。

 ――いや、違う。

 私は、どうしてもせれな先生にとって、一番居心地のいい人間になりたくて、ゲームのことを知りたかっただけだ。ギターだって、せれな先生が教えてくれるし、私に何かを託してくれているから続けているだけだろう。

 最悪のケースだけれど、もし中兼がせれな先生に会ったら、私の価値なんて一瞬で崩れてしまうだろうから。

 そんなものが、さっきの質問の答えなのか。

 高みにいる人間に、自分で自分の価値を見出している人間に、この気持ちなんてわからないだろう。

 私はそうして、中兼を睨んだ。

 彼女はへらへらと、ゲームの話をずっと続けていた。



 何の進展もないまま、夜になって眠った。

 申し訳ない話ではあるが、私はすでに合宿に対して惰性を感じ始めていた。その理由は、中兼由麻という目障りな存在の所為なのだけれど、紗良に頼まれた謎が思った以上に何もわからないという側面もあった。つまり、私は拗ねている。

 半分、夢を見ていたところだった。気持ちよくなって、自分好みの幻に陶酔しようとしている私の意識は、物音でくだらない和室に連れ戻された。

 隣の布団から、中兼がこっそりと這い出ていったからだった。

 何をしている。トイレだろうか。

 けれど、彼女に対する日頃からの疑惑があった。あんな女が、トイレであるはずがない。ゲームに、なにかもっといやらしい細工をしているに決まっている。そして、私を決定的にバンドからも、ジャズ研究部からも追い出そうとしている。

 起き上がった。耳を澄ました。

 トイレのドアの音か、聞こえなかった。つまり彼女は、リビングで何かをやっている。その実感が、私にある種の緊張感をもたらした。私に向けられた、人間の明確な悪意なんて察したくもなかったのだけれど、身を守るためなら仕方がない。私は、拳を握った。

 ふざけるな、何処まで私の邪魔をするんだ。私は……ただ、人から認められたかっただけだって言うのに。

 襖を開ける。彼女はテーブルに座っていた。片方にイヤフォンを突っ込んでいるようだった。何をしている。わからない。

 彼女が、私の気づいたようにこちらを見た。

 見つかった、とも思わなかった。彼女が、私を待っていたような気がした。

「奈津乃」

 彼女は平然と、私の名前を気安く呼んだ。

 その態度が、私の癪に障った。

「あんた! 見たわよ! なにしてんのこんな夜中に……! ゲームになにかしてるんでしょ! この間だって、あんたは私があのゲームに触ることを見越して、先にデータを消しておいたのよ! 今度はなにするつもりなのよ!」

「何言ってるのよ」彼女は、呆れた態度も焦った態度も見せないで、私を諭した。「みんなが起きるから、静かにしてよ」

「何が静かによ! どうせ、あんたは私が邪魔なのよ! ジャズ研からも、このバンドからも追い出そうっていうのよ! じゃなきゃ合宿について来るなんて言わないわ! それに、私が謎を解くのが気に入らないのよ! 妬んでるのよ! 私の居場所よここは! このクズ女! 出ていってよ! お前なんか……嫌いなんだから……!」

「奈津乃」

 彼女は、立ち上がって私に顔を近づける。

 心が乱される、妙な距離感だった。

 ふわりと、この女の髪から、気の抜けるほど良い香りがする。

 私は面食らってしまう。

 彼女は、それでも落ち着いた口調で、私のことなんて何処も嫌っていない声色で、私の耳に向かって囁いた。

「あんたを待っていたの。どうせ追ってくると思ってたから」

「…………」

「外に出ましょうよ。風が気持ちいいわ」

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