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中兼の作った料理(オムライスだった)を綺麗に平らげた私は、皿をそのままにしながら十五分ほど練習を続けて、疲れを自覚すると、急に思い立ったように皿を手にとって、力を入れて立ち上がった。
リビングに行くと、様子が変わっていた。ゲームをずっと一人で触っていた美保子は、電子ドラムにヘッドフォンを突き刺して黙々と叩いていたし、テレビには何も映っていなかった。
紗良と中兼は、貰い物ゲーム入れをひっくり返して、何かを話していた。それは子供が遊んでいる様子と、そこまでの違いがないな、と私は思った。
キッチンで適当に皿を洗って、紗良たちに合流すると、彼女は私を待っていたかのように、嬉しそうに声を弾ませた。
「奈津乃探偵。調べてたら、重要そうな証拠を見つけたよ」
「何よ」
私は、彼女たちの目の前に並べられているゲームカセットを見る。スーパーファミコンのものだけだった。全部、何故か裏を向いていた。
「ほら、消されてるけど、名前が書いてあるんだよ」
紗良がカートリッジの一つを指差したので、手にとって眺めた。表を見ると、タクティクスオウガだと言うソフトらしいがそれは関係ないと言われた。
裏には、マジックで書いたと思われる文字が、薄く残っていた。
「荒川、優希……」読み上げた。よくいる名前だと思ったが、当然今までそんな名前の人物を、見かけたことはなかった。「紗良のお父さん?」
「いや、お父さんは優希じゃないし、荒川だったこともないよ」紗良は首を振る。「後で確認してみるけど、これがここにあるゲームを、お父さんにくれた人だと思う」
「へえ……」
見ると、このソフトだけではなく、目の前に並んでいる全てに、荒川優希のサインが入っていた。
「……名前を書くなんて、よほど大事にしてたのかしら」私が何気なく、思ったことを口にした。
「昔じゃ普通よ」それに対して、中兼が割り込んだ。「ソフトごと貸し借りするのが普通だったから、っていうのが主な理由だったと思うけど。要は、ソフトの単価が高いから、盗まれたくないのよ。中古で安いゲームソフトを買うと、時々名前が書いたやつがあるわよ。私の大貝獣物語の2なんて、裏に川畑って書いてあって、アルコールで磨いても、綺麗に消えないんだから」
「そうなんだ……」
どうでも良さげに、私は返事をした。中兼の話なんて、どちらかといえば聞きたくもなかった。けれど、改めて裏面の文字を眺めると、何か違った意味をそこから汲み取れるような気がした。
「全部には書いて無いの? 一部だけ?」
「えっとね、大半に書いてあるよ」紗良が答える。「件のアクトレイザーに入った大貝獣も、名前が書いてあるよ。この人のもので、間違いないみたい」
「あんな変なソフトに、大事そうに名前なんて書く?」私は、未だ本体に突き刺さったままになっている謎のソフトを、一瞥してから訊いた。「気味が悪いと思うけど」
「それは……わかんないけど」
「それよりも」中兼がまた割って入った。名前を指差していた。「この名前の文字って、結構綺麗だと思うんだけど、お父さんの友人って、当時いくつぐらいだったの? こういうのって、大抵小学生が書いてたから、汚い字が多いのよ。まあ、親が書いてる場合もあるけど、これはそこまで綺麗ってわけでもないのよね」
「確か……お父さんと同い年ぐらいだから、今年で四十歳だよ」
「四十って、あんたのお父さん、若いわね」中兼が少し驚く。私も同じだった。「大貝獣物語の発売が九十四年よ。アクトレイザーはそれよりも四年も前だわ」
「お父さん、結婚が早かったんだよね。その代わりにお母さんのほうが年上なんだけど」紗良は何処か恥ずかしそうに口にしてから、考え込んだ。「えっと、そうなるとお父さんは一九七九年生まれだから……当時だと、中学三年生くらいかな」
「あのやり込み具合から言うと、それなりに時間は掛かるはずだから……高校生ぐらいじゃないかしら」中兼が、また知ったふうな口を利いた。「九四年と言っても、年末に発売されたのよね。受験もあっただろうから、高校に入ってからプレイしていた、と考えるのが自然だと思うけど」
そのやり取りを目の前にして、私は疎外感を覚えていた。
せれな先生なら、そこまで中兼に言われなくたって理解できるに決まっている。先生は、お前なんかよりもずっと詳しいはずだ。
でも、中兼と先生のほうが、私なんかとはずっと話が合うのかもしれない、と感じてしまう自分の心を、私は許せなかった。
一人ずつ風呂に入った。
始めは、みんなで一緒に入ろう、と美保子が提案したが、私が首を振って断った。だったら、とまたじゃんけんで順番を決めて、私が最後になった。もし四人で入るとするなら、いささか狭すぎるだろう湯船に浸かりながら、バンド練習すらしなかった今日の合宿の意義について、深く考えてのぼせそうになった。
和室に戻ると、既に布団が敷いてあった。中兼が用意してくれたらしい。彼女は布団に寝転びながら、だらしなくスマートフォンを触っていた。
今日一日の、彼女の気味の悪い優しさに、若干の不信感をつのらせながら、私は軽くお礼を言って、壁際にそのまま立て掛けていたギターを片付けて、彼女と同じようにして寝そべった。次第に、どうしてこんな奴と布団を並べて眠ろうとしているのか、段々と信じられない気持ちが強く沸き上がってきた。
日付も変わる辺りで、中兼に断って電気を消した。そのまま、彼女とは違う方向に身体を向けながら、さっさと夢でも見てしまおうと思って、目を瞑った。
「奈津乃」と中兼が、私を眠りの瀬戸際から、無理やり呼び起こした。
「…………はい」目を開けた。身体は動かさなかった。
「ギターの調子はどう?」
眠いと言うのに、中兼はそんなくだらない質問をしてきた。そのことに対して、私は何処か腹を立ててしまって、適当に返事をした。
「……別に。良いも悪いもないわ」
「この間の公開ジャムセッションのときは、良かったと思ったわ。あなた、結局まだ後から音源を聴いてないでしょ。逃げるみたいに部室から出ていったけど、本当にトイレだったの?」
「……私、過去に興味がないの」
「音源、持ってきたから、聴いたほうが良いわ」
「なんでよ」
余計なことを、と私は思いながら身体を中兼の方に向けた。
彼女は、棺の中みたいに、胸の上で腕を組んでいた。
「……聞きたくないのよ」私は、素直に答える。
「自分の演奏、嫌い?」
「まだ……完成形じゃないから」
「いつ完成するの?」
「知らないわよ。レッスンが、全部終わったら、完成するのよ、きっと」
「自分に自信がないし、自分のことが嫌い。だけどそのくせ、あんたって自分以外の他人を見下してるわよね」
「…………喧嘩でも売ってるの?」
急に、滑らかな口調で、そんな腹の立つことを言われて、私は煮え切らない感情を抱いた。
「その態度がギタープレイに現れてるようだわ」中兼は、気にもしないで続けた。「周りに部員しかいないときの演奏が、最低。次に、部外の同級生や先輩後輩が見てる時。一番調子が良い時は……教師陣が見ているときよね」
胸に、矢を突き刺されたような図星。
彼女の口から、その言葉を急いで止めたくなった。
私は身体を起こして、彼女の口を片手で塞いだ。
嫌いな人間の皮膚の感触が、指先に伝わってきて、気持ちが悪かった。
それでも中兼は少しも動じないで、目だけで私を憐れむように見つめた。
「お前……それ以上言ったら殴るわ」
私は中兼にのしかかったまま、手を戻した。彼女の顔に塗ってある保湿クリームが、いつまでも手のひらに残っているようだった。
「図星?」
微笑むような表情で、そう尋ねてくる中兼のことが嫌いだった。
「……違うわよ。あんたが、穿った目で私を見てるだけ」
そう言い残して、私は中兼の上から、自分の布団にいそいそと戻った。急に冷静になって、恥ずかしさが浮き上がってきたからだった。寝転ぶと、全てがどうでも良くなった。
「それで、奈津乃探偵。謎の解決の糸口は?」
「まだないわよ、そんなもん……」
私は彼女の声が聞こえないように、深く布団を頭に被って眠った。
朝から四人でコンビニに行き、朝食を買った。食べるものについても、中兼に文句を言われそうで、私は彼女に隠れて、美保子にお金を渡して買って貰った。神経質すぎるような気がした。
手早く朝食を済ませると、二日目にしてようやくバンド練習に移った。コンビニからの帰り際に近所の様子を確認したところ、紗良の言う通り隣家が離れているので、余程のことがない限り苦情を言われる心配もなさそうだった。
中兼はメンバーではなかったので、ジャズのスタンダードを事前に指定して、個人練習をしてもらってきた、と紗良は説明した。
最初の曲は『エアジン』だった。テンポも速く、普段中兼のバンドとは編成も違うというのに、彼女は上手く私達に合わせたうえに、気持ちのいいソロまで決めた。
「エアジン、一回やってみたかったんだよね」と紗良が呟いた。「由麻のバンドで一回やってたじゃん。それで、今回由麻が来るって言うから、やってみようかなって」
私はその話を聞いて、露骨に嫌な顔をしたが、誰も私を見ていなかった。
少なくとも、演奏する分に於いて、エアジンは私好みの曲ではあった。気持ちよくなって、私も調子よくソロを取ったのだけれど、それでも中兼は、私なんかよりもずっと優れた演奏をしていた。
中兼のほうが、エアジンは演奏し慣れている。そういう言い訳を、私はする。
「まあ、指の運動にはいい曲よ」中兼が、すこし謙遜するように言う。「あなた達も、初めて演奏した割には形になってるわね」
「部長のバンドには及ばなくて恥ずかしいくらいよ」美保子がドラムスティックをいじくりながら言った。「普段、もっとレベル高い演奏してるんでしょ?」
「まあ……私がそう要求してるんだから、そうよ」中兼は笑う。「あなたたちも、せっかくだからスパルタで見てあげましょうか?」
そんな会話に、どうやっても入る隙間も、口にしたい話題もなかった私は、他所を向いてゲーム機を見ていた。昨日のまま、何も進展していない。
中兼由麻の顔に、視線を戻した。
なにをけらけらと、笑ってるんだ。
中兼が、私のバンドに溶け込んでいることが、こんなに腹立たしいと思わなかった。
彼女のソロは、私とは性質がまるで違っていた。それは、演奏者の違いから言うと当然の話なのだけれど、もっと根本的な部分に、彼女との差がある。
私が、覚えた膨大な手癖を使って、その場しのぎの思いつきでソロを弾いているのに対して、中兼はきちっと曲の雰囲気に合わせてフレーズを選んでいた。アドリブに於けるメロディパターンという点では、何でも組み合わせる私のほうが上だが、外から聴いている分には、絶対に中兼のソロの方が好まれるに決まっている。人間が鼻歌で歌えるメロディこそが、もっとも優れているとせれな先生も言っていたのだけれど、彼女のソロは悔しいし認めたくもないけれど、それに見事なまでに符合していた。
演奏では、この女には、胃の中のものを全部ひっくり返したって、勝てるわけがない。
ならせめてゲームの謎を解かないと、私がここにいるという存在価値がないんじゃないか。
強迫にかられて、スマートフォンを取り出す。昨日からずっと、せれな先生に電話するチャンスを一度も得られていない。先生に連絡さえ取れれば、こんな謎なんて一発だと言うのに、それを中兼が知っていて、私の邪魔をしているような気さえしていた。
何処か、この瞬間も視線を向けられているような。
ぞわっとして、みんなの方を向いた。紗良が丁度、私に話しかけてくる。
「奈津乃、次はどうする?」彼女は、いつもより楽しそうだった。「フルハウスでもやる? 由麻ができるかどうかはわからないけど、あれってそんなに難しくないよね」
「ウェス・モンゴメリーのやつ?」中兼が尋ねる。「なら、一応聴いたことはあるし、なんとなく雰囲気で適当に合わせるわ」
そして中兼が、両手で持ったトランペットを、しっかりと腹部の前で構えながら、猟犬みたいな目をして私を見た。
その圧力に負けて、スマートフォンを私はしまった。
「……じゃあフルハウスで。休憩は、まだいいもの」
結局、その後何時間も練習につぎ込んで、気がついた時には昼飯時を回っていた。時計に気がついた瞬間に、忘れていた空腹感が、引きずったドレスの裾みたいに、急に目障りになほどはっきりと持ち上がってきた。
「奈津乃、集中してない」
と中兼が、椅子に座った私をじっと見下ろしながら言う。
「あんた、ずっとあのゲームソフトのこと考えてるの?」
「考えてないわ」
「いいえ。あなたのソロが良かったの、最初のやつだけだもの。絶対考えてる」中兼が呆れ顔を私に向ける。「なにかわかったわけ?」
「あんなの、じっと考えたってわかるわけないわよ。あんただって気になるんでしょ? 集中できてるの?」
「私は、演奏に私情を挟まないの」ぬけぬけと、この女はそう口にした。「ま、奈津乃が考えても無理なもの、私がわかるわけないし」
皮肉のような言葉をかけられて、私は唇を噛んだ。
「ねえ、昼ごはんどうしようか」紗良が助け舟のつもりか、私達に声をかけた。「何処か食べに行こうか。ちょっと遠いと思うけど」
面倒くさくなる。そんな気分じゃない。昼食のことなんて、もうどうだって良かった。こういう空腹感は、気が乗ってきた所に、いつも無遠慮に現れる。
けれど、これは、電話を掛けるチャンスかも知れない。紗良と美保子が中兼を連れて出掛けている間に、私はせれな先生に連絡を取る。完璧だった。
そう思った私は、首を振った。
「私は、もうちょっと練習したいから、みんなで行ってきていいわよ。私は適当に食べとくから」と言って、スマートフォンをポケットの中で触った。
「駄目よ」勝ったと思って気を抜いたところに、中兼がすぐに上から被せた。「それじゃあ合宿の意味がない。みんなで息抜きするべき時にしないと、後であんただけ疲れが回ってくるわよ。それで足を引っ張られるなんて、私は納得できないわ」
「あんた、暑苦しいわ……」私はぼそりと呟く。
「暑苦しくて良いから、来なさいよ。今はギターのことを忘れなさい」
「…………もう、わかったわ。一緒に行くわよ」
抗うほうがもはや面倒くさいと思った私は、頭の隅からせれな先生の顔を追い出して、中兼に頷いた。
リビングにギターを置いて、和室に戻って支度をしている間も、中兼は私をじっと見張っていた。
やっぱり、この女は私が推理なんて出来ずに、せれな先生を頼っていることを、理解している。
昼食は、駅の近くにあった中華料理を食べた。特に思い出にもならない味だった。
帰ってからは、ゲームになんて一瞬も触らないで、練習を続けた。紗良も美保子も、そして中兼も、楽器に没頭すること自体が、好きみたいだった。私は、それに置いていかれたくないという動機しかなかった。
気がつけば、既に晩飯の時間になっていた。内容はどうあれ、きちんと長時間の練習をこなしたという充足感と、こんなものでは駄目だという焦燥感を、私は両手に抱えた。
練習中には、中兼が私や紗良や美保子に、見つけた問題点を、逐一指摘していた。リズムがどう、コードワークがどう、音色がどう、フォームがどう、そればかりだった。家に小姑がいれば、こんな感じなのかも知れない。
その影響を受けて、なら夜は酒を飲みながら反省会でもしよう、と紗良が提案した。言い出したは良いが、冷蔵庫に酒の買い置きなんてものはなかったので、じゃんけんで負けた人間が買い出しに行くことになった。適当に手を出すと、一回の勝負で美保子と紗良が負けて、いそいそとコンビニへ向かった。
残ったのは、私と中兼だった。またこいつか、と私は聞こえない程度の小声で漏らした。認めたくはないが、少しだけ運命のようなものすら、私は感じていた。このげんなりした気持ちを、どう処理すれば良いのか、わからなかった。
二人で、楽しく雑談をするようなネタも、持ち合わせていない。この女の趣味が、古いゲーム以外に何かあるのかどうかだって、私は知らなかったし興味だってなかった。
無駄な話をしたくなかったのは向こうも同じだったのか、私達は二人で黙々と、居残りのような雰囲気の中で練習をした。その間も、中兼は私の何が問題なのかを口にし、私もそれに黙って従った。
態度はどうあれ、彼女の言っていることが、合理的事実から見て間違ってはいないという知識は、いつもせれな先生から詳しく教えてもらっていた。
「奈津乃、まだ考えてるの、謎のこと」中兼は演奏を止めて、腰に手を当てた。さっきまで、息が続くのが不思議なくらいの、永遠のように長いソロを彼女は取っていた。「身が入っていないわ。リズムがずれてるし、コードだって間違えてるじゃない。そんなんじゃ、お客さん満足しないわよ」
「だから、考えてないってば」
「まだ時間はあるんだから、一旦忘れなさい」中兼が馬鹿にしたように、それでいて同情でもするように、私を見た。「あなた、完全なアドリブが得意なのに、それがメンタル面に左右されやす過ぎるのよね。すぐ音に出るっていうか」
「……あんたはいつも一緒のソロね」
「品質保証よ、これは。あなたが必要なのは、この品質保証だってわかってる?」
「知らないわよ。アドリブなんだから、良い日も悪い日もあるでしょ」
私が文句を言うと、彼女が首を振る。
「お金を払って見に来るお客さんに、悪いソロなんて見せて言いわけ?」
「そんな奴らに、ソロの良し悪しなんてわかるの?」
「わかるわよ」
真っ直ぐに、そう断言されると、何も言えなくなった。私はギターの弦を、握る勢いで触った。
「奈津乃。人を見下さないこと。あなたの悪い癖だわ。自分の演奏に、最上の価値があるって思っても良い。けど、その目的はお客を喜ばせるためよ。忘れちゃいけない所を、あなたはいつも忘れてるの」
「そんな精神状態になったことなんか無いわ」私は反論した。「紗良が言ってた。私の良いところは、高い視点から見ているが故の人と違う感性だって」
「そんなものは、バンドメンバーに対するお世辞よ」
中兼が私が大事にしていた言葉を、砂利を払いのける足のように一蹴した。
「あんた、そんなに高尚だって言うなら、謎だって早く解いてみなさいよ。そうしたら、後はずっとまともなコンディションで合宿を過ごせるじゃないの」
「言われなくても、ずっと考えてるわよ」
「ほら、やっぱり集中してないじゃない」
「うるさいな……」
そう言って、私はCDプレイヤーから曲を流し始めて、こいつをぶん殴る代わりに、ひたすら中兼のことを傷つけたいと思いながらソロを弾く。
どうか死んでくれ、と私は願った。
中兼のソロが、私の首を絞めてくれても良かった。
気がつくと、手から、血が噴き出すような痛みすら覚えた。
酒が数本もあれば、反省会はただの飲み会になって終わった。
お開きになったのは、もう日付が変わったあとだった。反省会の間に、私が発した言葉は数えるほどしかなかった。ほとんど、中兼が取り仕切っていたようなものだった。
ここは、私のバンドだって言うのに。
布団に入ったのは、2時を過ぎた頃。昨日のみたいに、中兼は話しかけてこない。寝ているのだろうか。私はこっそりと起き上がって、彼女の顔を見下ろした。ハンマーでも振り下ろして、鼻先からぐちゃぐちゃにしたくなるくらい、整った顔立ちをしていることに、妙な腹立たしさを覚えながら、とにかく眠っていることを確認すると、私はそっと襖を開け、和室を出た。
誰もいない、真っ暗なリビングが、死んでしまったようにひっそりとしていた。自分で鳴らした関節の音まで、目に見えるみたいだった。
スマートフォンを確認する。こんな時間に、せれな先生は起きているだろうか。けれど、中兼が私を監視している以上、先生に電話をするのはこのタイミングしかなかった。
先生なら、多分、起きている。以前レッスンに行った時に、インターフォンを鳴らしたというのに、ずっと眠りこけたまま応答しないことがあった。理由を問うと、夜型人間なので明け方まで起きていることのほうが多い、と申し訳無さそうな顔をしながら答えた。その時は、ふざけた大人だな、と私は呆れたのだけれど、今はそれが、自分にとって都合が良かった。
早速せれな先生に電話をしようとして、思いとどまる。私は謎のゲームカセットについて、ほとんど何も知らないのと同じだった。もう少し情報を集めてから電話をするほうが、先生にとっても都合が良いだろう。
私は、誰かがトイレへ起きてきた時のために、隠れる場所を確保(机の下に潜りやすいように椅子を動かした)してから、ゲーム機からカートリッジを引き抜く。けれど、抜けない。そうか、イジェクトボタンを押さないといけない。音が鳴らないように、ゆっくりと取り出した。
が、今度は手から滑って、フローリングに落としてしまう。音が響いたけれど、誰かに気づかれた様子はなかった。慎重に取り上げて、カートリッジの外観を改めて確認する。
間違いなく、アクトレイザーと書かれていた。裏面には、荒川優希の名前が記入されている。この時、彼は高校生くらいだと中兼が推測していた。私も、その文字を見ると、油性ペンの筆圧の向こうに、何も知らない高校生がいるような気がした。
今度は、再び本体にカートリッジを戻して、起動してみる。だけど、どうやって電源を入れるのかすらも、よくわかっていなかった。ゆっくりと、考えて思い出す。先生には、その使い方を教えてもらったこともあったはずだった。
差し込み方がよくわからない。電源を入れても、上手く行かなかった。取り出して、端子部分の数でも数えるみたいにじっと見つめた。異常はなかった。いや、異常がないのかどうかすらも、私にはわからなかった。それでどうして電源が入らないのか、わからない。
汗が、額に滲んだ。クーラーは今、点いていない。
ちゃんと差し込もう。手順は、先生から聞いていた通りだ。一度引き抜いて、再度入念に奥まで差し込んで電源を入れた。
テレビが光る。成功だった。私は魂が抜けてしまうくらい安心した。コントローラーを持つ。ここでスタートボタンを押せば、セーブデータの画面に飛ぶ。
飛ぶはずだった。
けれど、なにかゲーム本編のオープニングのようなものが、流れ始めた。
どうして? コントローラが壊れているのかと思った。けれど、昨日は美保子がずっと遊んでいたのだから、それも考えがたい。
そこで、いつか聞いたせれな先生の注意を思い出す。
『古いゲームは、今と違って簡単にデータが消えることがあるから、扱いは慎重にね』
まさか――
「奈津乃、なにやってんの」
振り返る。
中兼が、そこに立っていた。
違う。
「私じゃない! 私のせいじゃないから!」
中兼の言葉も聞かないで、トイレに逃げ込んだ。真夏の夜中に、裸足で外に出るような勇気は、私にはなかった。
息が切れる。
どうしよう。
私が、データを消したのか?
私のせいで、手がかりが失われたのだろうか。
ああ、
私はなんて馬鹿なんだ。
せれな先生。こんな駄目な私を、助けてください。せれな先生。
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