第216話

 三好長慶は日本の副王と呼ばれており、息子が流行病で死去した際に精神を病み没落していった話は歴史を齧ったものには有名な話だが、そもそも細川家臣であった三好が台頭してきたのにも大きな歴史があった。

 三好長慶の父である三好元長は細川晴元の重臣中の重臣であった。対立していた細川高国を討ち取り晴元の地盤をさらに強化したのだ。しかし、その興隆を恐れた主人である細川晴元と一族の敵対していた三好政長、それに一向一揆が合わさり三好元長は自害することとなってしまっていた。

 そこから敵対するかと思われたが泥水を啜る思いで苦渋に耐え、細川晴元家臣として一向一揆を討ち滅ぼした。そこから何やかんやあり、細川晴元との軋轢を感じ、政敵と戦いながらも結果を残し、1548年に改名、三好長慶として政敵三好政長と細川晴元に対して反旗を翻したのだ。

 戦後は細川晴元を京から追いやり、細川氏綱を主君に据え、三好政権を成立させたのだ。そして、前年、足利義晴が死去した後、晴元と義輝が手を組み長慶と反目していた。長慶としては、幕府内で権勢を震えれば良かった為、足利義輝を京都に戻すことに異は無かったが、足利政権を目指す義輝としては三好長慶が許せない上に、義晴が死んだ理由は三好にあると恨んでいたため、協調の道を進むことはあり得なかった。

 そして、現在三好長慶は足利 細川連合軍との戦争状態に突入していた。松永兄弟を派遣することで京都へ押し寄せてきていた連合軍を破ったが、六角定頼の和睦の斡旋が現在行われていた。

 史実では来年和睦が成立して義輝が京都に戻り三好が御供衆となるのだが、氏政が、長慶が京都を支配する少し前から朝廷への貢物を送るついでに交易をしていた際に堺を通じて交流を持っていた。氏政は三好長慶がこれからの政権を握ることを知っていたため彼との縁を大切にするためにも三好側に利益が傾くように交易を行っていた。

 それによって史実よりも盤石な資金源を得ていた長慶は軍を拡充させており、和睦の斡旋などなくとも、その豊富な資金源と軍事力による幕臣の知行を実質支配することにより幕臣たちを動かして自力で和睦まで持って行っていた。史実と同様に御供衆になった長慶は幕臣たちを義輝から引き剥がすことに専念していた。その裏で晴元が動いていることも把握していたが、強大な自国の軍事力の前に楽観視しており、自分の地位を盤石にすることに腐心していたのだった。

 その長慶に対して年末には入京し上洛するからよろしくという事と義輝と謁見する事になるだろうが三好と敵対するつもりは無いということを伝えておき、上洛する際には軍を連れていくことになるためその許可も取り付けようとしていた。


 「微妙に史実とずれているのは俺の責任でもあるが、止まるわけにはいかないんだ。徳川政権のような事にさせてしまってはこの日本は終わってしまう。」


 史実の歴史を知っている氏政は関東支配、東日本の支配を目標としていたが、それに合わせて日本統一後の形にまで目を向け始めていた。と言っても具体的なことを組み立て始めようと構想していた段階だったが。


 

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