第211話

「そうじゃのう。彼ら北条、というよりは北条氏政という男は見ているものが違うでおじゃる。関東の民を慈しみ愛しているのは確かだがそれだけではないのがなんとなくわかる。」


 前久も氏政の不思議な雰囲気というか異様感は理解していた。元来の武士という形を破り、土地に縛られないようにしていた。最初のうちは八幡の使いという妙な噂も相まって鬼子が出たと言われていた。

 しかし、北条の英雄氏綱が死没してから数年後、氏康が息子の箔付けの為に名前上だけ土地を任せたと思いきや自力をしっかりと示し、今となっては北条最盛期を作り出した立役者となったのだ。


 「氏政殿は武士を、いや足利を、戦国武将を否定しようとしているのです。」


 実虎は手に持っていたお猪口に酒がなくなったのを見て、徳利から酒を注ぐ。その酒は澄んでおり今となっては高級な酒として人気になっていた北条伊豆産の清酒であった。


 「この酒だってそうです。我々武士や大名というのは新しいものや特産品となるものを作って商人に売って稼ぐ。そして国を強くする。家を残す。そのように動いております。しかし、北条は違う。民の暮らしを豊かにし、その見返りとして利益を得ている。それを理解している兵達は士気を高め、北条に忠誠を尽くして死ぬ事を恐れずに戦うのです。それがどれほどの事か…。」


 注いだ酒を飲み干す事なく、じっと見つめて言葉を紡ぐ姿に前久は魅入っていた。戦国の雄、軍神と最近では呼ばれ始めた彼がそこまで気にする姿に。


 「やはりお主でも脅威に感じるのでおじゃるか?」


 「ええ、上杉単独では雌雄を決するには戦力が足りぬでしょう。少なくとも武田今川奥羽の諸大名が一斉にかからねば互角の戦いも難しいと思いまする。」


 なんと…!っと前久は声を堪えることができずに驚いてしまった。慌てて手元の扇子で顔を覆おうとするも実虎が気遣い無用と言うので閉まって懐に入れ直した。


 「ですが、彼らは関八州を手に入れかけ軍を動かす模様もござりませぬ。春に動かしたのも佐竹の動きに備える為でした。彼らが関八州の長になる事で満足するならば、義輝様がそれを安堵する事で大きな味方となってくれる事は間違いありませぬ。北条 上杉が共に京を目指せば成らぬものはないかと。」


 「なるほどのう。だが、それは難しいと考えているのであろう?」


 「ええ、まず難しいと言って過言ではないでしょう。北条は朝廷の忠臣と言われているお方ですが、幕府に対して忠誠を誓っていると言う話は一度も噂として聞いた事がございませぬ。北条は幕府など気にも留めていない。勿論、古河公方を支配下に置いたり、今川を撃退したりなどという点で関わりづらいというのもございましょうが。」


 「つまりは、義輝殿の器と才覚次第という事じゃな?」


 「ええ、義輝様が北条のやり方を受け入れられるかどうかが肝かと。」


 幕臣たちは腐った名家だ。北条が忌み嫌う民から搾取する事しか知らぬ者たち。自分達が上位者である事に対して何の疑問も持たずにただただ権威にだけ縋る者たちなのだ。そんな彼らが民たちのために働くという心を持って生きていけるはずがない。

 そして、そのような環境にいる義輝が周囲の反対を振り切って己の意思を示せるかというと全くもって不可能だろう。そんな事が可能ならば三好と手を組み足利の家を盛り立てるなり、領土を増やすなりしているはずだ。


 「それでも、お主は足利を支えるのじゃな?北条とは共に歩んで行かぬのか?」


 前久が酒を飲む手を止めて、実虎の方をじっと見る。


 「ええ、我々は既にもう北条の支配下に入れるような体制ではなくなってしまったのです。私の姓は上杉になり、越後の国人集たちも私の元だからこそ集って安定している。彼らを北条の支配下に組み込むにはもう、手遅れなのです。」

 

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