第8話 終わる記憶 後編

 カチャン――


「ん?」「うん?」


 ボクと佐伯さんが同時に間の抜けた声を出した。


「あれ? もしかして弾切れ?」


 佐伯さんの意識が銃に向いていた。


 ――これはチャンスだ。


 ボクの判断は早かった。これまでの人生で一度だってこんなにも機敏に動いたことはないと言えるくらいの判断で、物置にいる楡金くんを抱き上げ、休憩室から逃げ出すことに成功した。

 ボクを呼び止める声が聞こえてきたが当然無視だ。ただひたすらに通路を走った。入り口へ繋がる道は記憶している。焦りつつもそこは見失わないようコンクリート打ちっぱなしの通路をひた走る。


 走りながら考えていた。なぜボクと大河くんの記憶と佐伯さんの言っていることが相反していたのかについて。


 佐伯さんが嘘を言っている可能性はたぶんない。なぜならボクたちに語った例の説明は最もだったからだ。

 『叛逆する者たちレイブンズ』の事務所を用意してくれたのは他でもない佐伯さんだ。その佐伯さんに大河くんの案内が必要なわけがないし、佐伯さんなら楡金くんと卯佐美くんをひとりで攫うなんて造作もない。


 だったらなぜボクはそうだと思いこんでいたのか。ボクだけならただの勘違いで済ませられる。でも大河くんも同じ勘違いをしていた事がこの問題をややこしくしている。


 佐伯さんの言っていたように本当に集団幻覚を見ていたとでも言うのだろうか。


「やめだ――」


 こんな事考えていたって埒が明かない。しかもそれが解明されたとて、すべてがボクの勘違いだったというのならボクは絶対に助からない。なら考えを巡らせるだけ無駄だ。今は未来のこと、これからのことを考えよう。


 佐伯さんを振り切って、逃げて逃げてどこまでも逃げて。楡金くんと愛の逃避行。それしか残された道はない。まさか現実的じゃないなと思っていたその考えが今の最善の答えになるなんて、と数時間前ことを思う。


 その時だった。突然足に力が入らなくなった。


「うわっ!?」


 その場に楡金くんを抱えたまま派手に転んでしまった。


「大丈夫かい!?」


 未だ目を覚まさない楡金くん。当然返事はない。目に見えるところに怪我のようなものは見受けられない。ボクはよかったと安堵する。改めて楡金くんを抱えて立ち上がる。楡金くんがさっきより重いように感じた。突然体重が増えるはずがないので原因はボクの方にある。疲れが出ているのだ。

 このままでは追いつかれてしまう。


 佐伯さんはその身一つで、対するボクは楡金くんを抱えている。こっちが圧倒的に不利だ。


「急がないと」


 ボクは自分の体に鞭打って出口を目指してまた走り出した。しかし、少し走ってボクの前に壁が立ちはだかった。比喩でも何でもない。正真正銘の壁が目の前にあった。つまり行き止まり。


「そんなバカな……なんで?」


 ボクはこの地下迷路の構造を把握している。記憶力には自身がある。間違いなんてない。でも目の前には壁。道を間違えたのだ。この状況がそれを物語っている。


「クソ……っ!」


 自然と悪態つく。


 状況は最悪だ。俯瞰した迷路図を頭の中に思い描いても、それが間違った情報に基づいて作られたものならもう自分の記憶はあてにならない。とにかく戻るしかない。ボクは来た道を戻る。その足取りは重い。走らなきゃと思っているのに足が勝手に歩くことを選択する。


 右手の法則に頼ることも考えた。右手で壁をなぞりながら歩けば必ずゴールへたどり着けるというあれだ。でもあの方法には致命的な弱点がある。それは目指すべきゴールがスタート地点と一切壁で繋がっていない場合だ。

 例えばスタートとゴールが必ず外壁に沿って存在しているならこの方法で絶対に迷路を抜けられる。でももしゴールが迷路の中心に存在していてそのゴールを囲っている壁が完全に独立していた場合にこの方法を使うとスタート地点に戻ってしまうのだ。ゴールが大口を開けていればその前を通り過ぎるとき視覚的にゴールを見つけられることもあるかもしれないが、独立した部分が複雑な馬出しのような構造になっていたらお手上げだ。

 そしてボクが今いるこの巨大迷路は正にそういう造りになっている。


 望みが絶たれた。このままだと佐伯さんに捕まらなくても疲れて疲弊してそのままだれにも発見されずに――なんてことにもなりかねない。


 ――そんなことは……負けてたまるか。


 消えかけていた闘志に火をつけるように自分を奮い立たせようとしたが力が入らなかった。そしてなぜだか突然眠気のようなものが襲ってきた。


「こんなときに、どうして」


 殺されかもしれない、死ぬかもしれないという状況で、普通はありえないことだ。でもちょっと考えれば思い当たることがあった。


 楡金くんを眠らせようと悪戦苦闘したあの時だ。ボクは自分の欲望を優先させ楡金くんとキスをした。睡眠薬でなぞった楡金くんの唇に自分の唇を押し当て、さらにその後、ボクは彼女の唇を舐めた。楡金くんは必死に口を閉じていたが少なからず唾液の交換が行われた。間違いなくあれが原因だった。

 ボクは知らずのうちに睡眠薬の成分を接種していて、それが今になって効いてきたに違いない。


 遂にはボクの足が完全に止まった。通路の真ん中で、ボクは楡金くんをその場に下ろし、その傍らにあぐらをかいて座った。


 楡金くんはこんな状況になってもまだ目を覚まさない。それだけ薬が強力なのだ。


「楡金くん」


 逃げることよりも諦めの気持ちが勝っていた。でもどうせ諦めるなら……


 ボクは楡金くんの胸を見る。それから自分の左手に視線を移す。思い出す。あの柔らかな感触。


「楡金くん……」


 もう一度彼女の名をつぶやく。右手で楡金くんの上着の裾をつかむ。ゆっくりとめくって――


「やあ!」


「うわあっ!?」


 突然目の前に佐伯撫子が現れた。ボクの視線を遮るように彼女が顔を割り込ませて出現した。


 ボクは驚いて後ろにひっくり返りそうになった。体制を立て直し、壁際までお尻を擦りながら後ずさる。さっきまで感じていた眠気も少しだけ吹き飛んだ。


「酷いじゃない。いきなり逃げるなんてさ」


「な……ん、で?」


「ああ、どうして私がここにいるのかって? そんなの決まってるでしょ。ここは私のテリトリーだ。だから私はここの内部構造を熟知している。他人には教えていない隠し通路も含めてぜんぶね! しかもここにはすごい仕掛けがあってさ、一部の壁は自由に動かせる!」


 ああ、そういうことか……


 どうりでボクの脳内マップが通用しないわけだ。佐伯さんは完璧だった。ボクの浅はかな考えなど遠く及ばないほどに。


「ってかさ、何しようとしてたの? もしかしてエッチなことするつもりだった?」


 佐伯さんは思春期を迎えたばかりの学生みたいに興味津々に訊ねてくる。


「ち、違う! そんあんあっじゃ!」


 否定しようとして噛んだ。


「あっはは。でも服脱がそうとしてたじゃん。あーあ。やっぱりキミはそういう奴だよ。父親とおんなじ」


「違う! ボクはあいつとは違う!」


 父親のことを出されてついカッとなった。佐伯さんはボクの何を知ってるというのか。そもそもこの会話は何だ。ボクのことを殺すつもりじゃなかったのか。


「いや、おなじさ。何も変わらない。蔓杜のときだってそうだったじゃないか」


「……?」


 どうしてここで高校の話が出てくる?


「もう時効だけど。きみルームメイトにひどいことしたよね」


「な、何言って!? ボクは何も――」


「そう思ってるのはきみだけだ。でも実際に答えは出てる」


「違う。あれはボクじゃない!」


「もみ消すの結構苦労したんだよ。そのことに関して一度もお礼がないってのはひどいよね」


 佐伯さんはボクの言葉を完全に無視した。


「だからボクはやってないんだ!」


「DNA鑑定」


 佐伯さんが開眼する。視線が合ってしまった。ボクは蜘蛛の巣に囚われた蝶のように動きを封じられた。


「あっ、く……っ」


「あの娘。あのあと子どもを生んだんだよ。それでちょっと気になってDNA鑑定したら。……オマエが父親だとわかった」


 ――そんなバカな。だってボクは、何もしてないのに。


 そうだ、佐伯さんの言うDNA鑑定だって嘘かもしれないじゃないか。しかしその一方で別の可能性に思い当たる。

 ボクは自分がしでかしたことなのに、それがあまりにも自分にとって都合が悪いことだからその事実を記憶から消してしまったのではないかと。そう思ったのは今この状況がボクの記憶と佐伯さんの主張の食い違いから発生しているからだ。


 もしもボクの方が間違っているなら、ボクの記憶ほど不確かなものはない。


「動かぬ証拠ってやつだよ。――あー、ほんとやだやだ。男ってのはこれだから。ちなみにオマエみたいなやつのことをさ、“ゴミ”っていうんだよ」


 佐伯さんは白衣の裡をゴソゴソとやりだした。


 拳銃か……? ボクは終わるのか……?


 逃げ出したい。でも体が動かない。


「これはあんまり使いたくないんだけどね」


 しかし取り出したのは銃ではなかった。銀色のお弁当箱のような四角いケース。いつも液状のアセンブルを持ち運ぶのに使っているものだ。


 佐伯さんは手慣れた様子でアセンブルを注射器にセットした。針先を中指で軽く弾く。


「銃は弾切れだからこれしかなくってね。ま、すぐに死ねると思うから。んじゃまずこっちの女からね」


「ぇ……ぁ、やめ、ろ」


 ボクは震えながらも声を絞り出す。この魔法は動きを封じるだけで言葉は出せるのだと今頃になって思い出す。


「やめろ、楡金くんは殺さないでくれ!」


 ボクの願いは虚しく廊下に響く。


 佐伯さんは何を考えているのか楡金んくんの上着を乱暴にめくり上げた。


「!?」


 露わになった下着。ピンクのチェックに釘付けになる。そのカップの上部。布に包まれていない部分に佐伯さんは注射針を刺した。透明の液が胸に吸い込まれていく。


 注射する場所に規定はない。腕で十分なはずなのに、あえて胸に刺す行為。完全にボクに対する挑発だった。


 オマエが自由にしたかったのはこれだろ? ずっとこれが欲しかったんだろ? ――と、心の中でボクを嘲笑い、ボクの反応を見て愉しんでいるのだ。


「ほいほーい。これでおっぱいちゃんはあの世行きー」


 無邪気に歌うように言って服を戻す。


「さ、次はオマエだよ、ゴミ」


 佐伯さんは再度注射器にアセンブルを込める。


「んじゃ、サヨナラだ」


 佐伯さんは優しさを欠片も感じない手付きで注射針をボクの腕にぶっ刺した。普通はそんなに奥まで刺さないってくらい筋肉の奥深く、深くまで突き刺す。


「ぐああああっ!」


 あまりの痛さに声が出る。


 薬液が押し込まれていって空になる。


「男だろ? 情けない声を出すな!」


 針が抜かれ、注射針の痕ができた部分をペシッと叩く。


「んじゃ」


 佐伯さんは注射針をしまってスタスタと歩いていってしまった。


「んぎ……っ!」


 佐伯さんが視界から見えなくなると体が動くようになった。でも同時にアセンブルの症状が出始める。楡金くんの方がひと足早くその症状が出ていた。体をビクビク震わせて口から泡を吹いている。


「あうあ、あえぁああああ!!」


 悩ましい声を出しながら、目を見開く。黒目が上がりほとんど白目になっている。


「あががががっ!」


 ボクは耐えていた。立ち上がる力はもうない。まともに呼吸ができず苦しい。それでも床を這い楡金くんに近づく。落ち着かせようと折り重なるようにして楡金くんの体を抑える。


 無駄だとわかっていた。だけどそうせずにいられなかった。


 ボクはこれまで沢山の人の命を奪ってきた。みんな最後は醜く無惨に死んでいく。だけど楡金くんにはその醜さ、無惨さはふさわしくない。やがて楡金くんの動きが止まった。視線だけを動かして彼女の顔を確認する。生気がない。心なしか体温も低くなっているような気がした。


「う、うぶぶぶぶ――」


 口から体中の酸素が抜けていくような感覚が襲う。こっちも最後が近い。まぶたが強制的に下りてくる。


 お別れだ――


 ボクは大罪人。楡金くんは天使のように純粋。死後行き着く場所は地獄と天国。あの世で一緒にはなれない。だからこれが本当のお別れ。


 記憶がフラッシュバックする。現在から過去へと時続きにではなくバラバラに、ランダムに。

 楡金くんとの思い出。子どもの頃の嫌な記憶。アセンブル漬けにしたお嬢様とのあれこれ。佐伯さんに連れられて犯罪の片棒を担がされた日々。


 そして、この結末の原因となったあの出来事。


 ボクと大河くんと佐伯さんが事務所で会話をしている。声は聞こえない。ただ映像としてだけ認識できる。目の前に座る佐伯さんの顔にヒビが入り欠片が落ちる。重ね塗りした油絵の表面を剥がすみたいにボロボロと全体が崩れていく。


 佐伯さんだった人物が全く別の女性に変わった。


 ――卯佐美くん?


 彼女に非常によく似た女性だったが、決して彼女ではないことがその身体的特徴から判断できた。知らない女性。この女は誰だ?


 そう思ったのが最後、テレビの電源を消したみたいにプツンと眼の前が真っ暗になった。


 記憶が終わった。

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