第7話 終わる記憶 前編

 卯佐美くんが部屋を出ていったあと暇をつぶすように大河くんと他愛無い会話に興じていた。すると物置の方から音が聞こえてきた。視線を向けると丸窓からこっそりこちらを除いている楡金くんが見えた。


 ボクは物置に移動して、あの時と変わらぬ仕種で楡金くんの前に姿を現した。久しぶりの再会。ボクはこれまでもずっと彼女を見てきた。でもこうして互いの存在を認識しあった状態で会話をするのは実に何年ぶりだろうか。


 でも状況が状況だけに喜んでばかりもいられない。ボクは楡金くんに事の経緯を説明した。当然納得はしてくれなかった。でもボクもすべての事情を把握しているわけではなかったので、詳しい説明のしようがなかった。


 すると楡金くんにしては珍しく取り乱した。ボクは彼女の予想外の行動に咄嗟に組み伏せていた。それでも彼女は暴れるのを辞めなかった。もしかすると佐伯撫子のもとに送られたあとのことを想像したのかもしれない。ボクは楡金くんの処遇がどうなるか知らないけど、どんな人間だってこういうときは絶対にいい想像を巡らせるようなことはしない。自分が置かれている状況を考えれば考えうる最も最悪の想像を想定するのが普通だ。だから楡金くんは暴れているのに違いなかった。


 胸が締め付けられるような感覚がボクを襲う。


 ボクだって本当なら逃げ出したかった。楡金くんを連れてどこか遠くへ行ってしまいたかった。でもそれは無理だ。佐伯さんからは逃げられない。たとえ束の間の幸せを手に入れられたとしても彼女は絶対に追いかけてくる。それこそ奈落の底だろうと構わずに。待っているのは永遠に終わらに逃亡生活。ボクにはそれを選ぶ勇気はなかった。


 だからボクは楡金くんに命乞いをした。ボクのために。ボクを生かすために佐伯さんの言う事を聞いてほしいと。その後でなら改めて楡金くんを迎えに行くこともできる可能性が残されている。


 でも楡金くんは引かなかった。ボクなら説得できるとそう思っているのだろう。それはある意味で信頼されている証拠だ。それは素直に嬉しかった。でもいつまでもこんなことをしている場合ではない。


 だからボクは今まで隠していた真実をひとつ楡金くんに告げた。もちろん黙っていることもできたけど、こうでもしないと彼女は納得してくれないと思った。

 ボクはキミの敵だ。ここにキミの味方はいないんだよ。そう認識することで説得が無駄だということを理解するだろう。そしてボクの思惑通り楡金くんは暴れるのを止めた。ショックが大きすぎて暴れるどころではないのかもしれない。どちらにせよ結果オーライだった。


 背後からボクを呼ぶ声がした。あまりも長いことこっちに居たから大河くんが様子を見に来たようだった。


 とにかくもうお終いだ。


 これ以上の会話も、ボクと楡金くんの関係も――


 楡金くんの芯の強さは十分理解している。だから少しへこたれても時が経てば再起をするだろう。ボクや大河くんの目を盗んで逃げ出すかもしれない。そうさせないためにボクはもう一度楡金くんを眠らせることにした。大河くんから睡眠剤を受け取り彼女に飲ませようとした。


 しかし楡金くんは錠剤を吐き出し、ボクをにらみつける。


「あの頃のとっても素直だった楡金くんはどこへ行ったのやら」


 先輩はやれやれと首を左右に振った。


「わたしも大人になったってことですよ」


 さっきまでショックを受けていたとは思えない勇ましさ。すでに再起は完了しているようだった。


「ふふっ。嘘ばっかり」


 ボクは知っている。どんなに大人ぶったって楡金くんはまだまだ子ども、処女おとめだということに。


 ボクはもう一度錠剤を取り出し楡金くんの口に押し付けた。しかし彼女はそれを拒む。聞き分けのない子どもを相手にしているようで少し苛立ちを覚えた。こっちもムキになって錠剤を突っ込もうとそれで楡金くんの口をなぞる。でもそんなことをしたってジッパーのように口が開くことはない。


 ――クソっ、いい加減言うことを聞け!


 楡金くんはボクの意に反して目と口をきつく閉じ薬から逃げようと必死に頭を動かす。その動きに合わせて楡金くんの胸がゆさゆさと揺れるのをボクは見てしまった。その光景を前にしてボクは彼女に確実に薬を飲ませる方法をひらめいた。


「中々しぶといじゃないか。でも無駄だよ。さっき大人になったといったね。ちょっと確かめてみようか?」


 言うが早いか、ボクは空いている方の手で楡金くんの胸を触って力を込めた。


「きゃん!?」


 楡金くんが可愛らしい悲鳴を上げたその瞬間に口の中に薬を放り込んだ。


「あはは。怪獣みたいな悲鳴は卒業したんだね!」


 楡金くんのことだからてっきり「ぎゃああっ」と叫び出すと思ったのに。これに関しては、ちょっと大人な反応を見せるようになったようで、素直に負けを認めよう。でも次はそうはかない。


 口の中に薬を入れたとてまた吐き出されてしまったらなんの意味もない。だからボクは楡金くんの口を閉じた。ボクの唇で。これにはさすがの楡金くんも予想外だったようだ。でもこれはまだ序の口。本番はこれから。


 ボクは舌で楡金くんの唇をなぞった。もし楡金くんが大人であると言うなら大人のキスに抵抗はないはずだ。互いの舌を絡めれば嫌でもボクも薬の成分を接種することになる。そうなればあとは意地の張り合いで、ボクが先に眠ればそれは楡金くんにとって大きなイニシアチブとなる。


 でも楡金くんは処女おとめだ。大人のキスに対して絶対に嫌悪感を示すはず。すると彼女は口を開くことはできない。時間が経てば苦しくなるのは彼女の方で、そうなれば薬を飲み込むしかない。だからこの勝負は絶対にボクの勝ち。


 でもそんなのは建前だ。口をふさぐだけなら手で押さえればいいだけの話だから。むしろそっちのほうが効率がいい。そうしなかったのは単純に楡金くんとキスがしたかったからにほかならない。己の欲望を満たしたいがための行為。本音を言えばもっともっと楡金くんと愛を確かめたかったが、それはなんとか堪えた。やりすぎたら契約不履行になってしまう。でもキスだけならのうちには入らないはずだ。


 程なくして楡金くんの喉が鳴る。その音がやけに大きく聞こえた。


 ボクは唇を離した。楡金くんの唇がボクの唾液で濡れていた。涙目でボクを睨むその視線も今はなんだか心地良い。


「おやすみ。楡金くん」


 ボクは物置を出て扉を閉めた。窓から向こう側を確認する。楡金くんは赤子のように体を縮めて震えていた。


 ――――


 楡金くんと一悶着あったあと休憩室で卯佐美くんの帰りを待った。彼女が出ていってからまだそんなに時間は経っていない。佐伯さんとの約束の時間まではまだしばらくある。でも少し卯佐美くんのことが心配になった。正しくは彼女になにかあった時の自分たちのことがだが。

 何事もないとは思うが万が一ということもある。そもそも卯佐美くんは彼らとどう話をつけるつもりなのだろう。仕事を押し付けたのはこちらだとはいえ、今さらながらちゃんと策を講じてから彼女を送り出すべきだったと公開し始めていた。

 大河くんはと言えば、何も心配していないといわんばかりに筋トレなぞ始めていた。彼も彼なりに不安な気持ちをかき消そうと必死なのかもしれないと思った。


 腹筋運動をしていた大河くんが動きを止めた。


「なんか足音が聞こえねぇか?」


 そう言われて耳を澄ます。確かにパンプスが床を響かせるような音が近づいてきていた。


 卯佐美くんだ。彼女が帰ってきたことでボクの不安はかき消えた。


「やあ、ずいぶん早かったじゃないか!」


 廊下につながる部屋の扉が開いた瞬間笑顔で彼女を迎えた。つもりだった……


「……あ」


 でもそれは彼女ではなかった。


「ずいぶんごきげんじゃないか。なにかいいことでもあったの?」


 そこに現れたのは、白の水玉が入った紅いワンピースの上から白衣を羽織っている女性だった。そのちょっと奇抜なファッションはひと目見て佐伯さんだとわかる。


 ボクと大河くんに緊張が走った。


 約束の時間はまだ先のはずだ。でもまあ早め早めに行動することはよくあることだ。


「えっと、」


 とりあえず今の状況を説明しようとする。でも先に口を開いたのは佐伯さんの方だった。


「やっと見つけた。どこから情報が漏れたのか知らないけど、私から逃げられるとは思わないことだね」


 ――見つけた? 逃げる?


 佐伯さんがおかしなことをいう。もともとここで会う約束だったんだから見つけるも何もない。それに逃げるとはどういう意味だ。それとも何か意味があるのかと逡巡する。


「おいおい、逃げるってどういうことだ? 俺たちはアンタに命令されてここに来たんだぜ?」


 大河くんが考えなしに発言する。


「私が命令した?」佐伯さんの言葉には棘があった。「そういう冗談は好きじゃないんだよね。私は――」


 佐伯さんが白衣の裡に手を忍ばせ、そこから取り出したのは拳銃だった。その銃口は大河くんに向けられた。大河くんは無言でその先を見つめるしかできない。


 話が噛み合ってない。佐伯さんとボクたちの間に齟齬があるのは明らかだった。ボクは慌てて言葉を発した。


「冗談なんかじゃないです! ボクたちはたしかに佐伯さんに命令されてここに来たんです」


 それからボクは佐伯さんに事の経緯を説明した。佐伯さんに言われたことを佐伯さんに説明するというのは正直変な感覚だったが。彼女を落ち着かせるにはそれしかないと思って必死に説明した。


 佐伯さんはこちらには一切目もくれず黙ってボクの説明を聞いていた。その間銃口はずっと大河くんに向けられたままだった。


「ふーん。2人とも同じ認識?」


「ああ。アンタが今回の件の話をする際俺もその場にいた」


「なるほど。きみたちが示し合わせて嘘を言っているってのはなさそうだね。だとすると集団幻覚かな?」


 佐伯さんの人差し指が引き金にかかる。


「たんま!」大河くんは両手を前に突き出した。「どういうことか説明はなしか? 俺たちはアンタの命令に従っただけだぞ!」


 佐伯さんは心底嫌そうに深いため息をつく。


「まず結論から言おうか? 私は、お前らに、そんな命令、出してない」


「嘘だろ、おい……」


「嘘なもんか。足りない脳みそフル回転させてよく考えてみなよ。そのなんとかっていう女2人を攫うのにどうしてこの私がお前らの手を借りる必要があると思う。私ひとりで十分だよ。――もっと言おうか? きみが駅まで私を迎えに来たって言ったけどさ。バカだろ。きみたちが普段使ってる事務所の場所くらいこっちは知ってるんだよ。案内なんてなくても自分ひとりでたどり着けるに決まってるだろ!」


 言い終わると同時に佐伯さんは引き金を引いた。吐き出された銃弾は大河くんの腹部に直撃。その衝撃で彼は後ろに倒れて、跳ねて、少しだけ助けを求めるようにボクの方に腕を伸ばして、動かなくなった。


「あ、あああ……」


「はい、次きみね」


 銃口がボクに向いた。


 まさか自分がこんな終わり方をするなんて思っていなかった。こんなことになるならもっと早く楡金くんと再会してボクの思いをぶつけておくべきだった。


 ボクはただ、目を閉じてそれを受け入れることにした。

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