第2話 天使の記憶

 ボクは女の人――佐伯撫子さえきなでしこさんと一緒に行くことになった。家を出ると、そこには黒い車が停まっていた。ボクと佐伯さんと入れ替わるように数人の黒服の男の人たちがボクの家に入っていった。


 ボクがそっちに目を向けていると「何やってんの。行くよ」と佐伯さんがボクの手を取る。彼女に手を引かれるままボクは車に乗った。


 どこに向かうかわからない車の中で佐伯さんは、ボクの父との関係について語った。


 佐伯さんは『叛逆する者たちレイブンズ』という組織のトップで父はその組織で働く構成員だった。その組織はそれなりに力があって警察にも口添えができるほどだった。それ故に父は多少のことでは警察には捕まらない仕組みになっていた。

 しかし最近の父の無法っぷりは目に余るものがあり佐伯さんの力をもってしても庇えないほどになっていた。だから遅かれ早かれ“処分”されることは決まっていた。


「いい機会だったからね」と佐伯さんは細い目を弧にして笑顔で語った。


 それから父が組織内でどんな事をしていたかを語ってくれた。簡潔に言えば犯罪行為。だがショックはなかった。やっぱりな……っていう納得の気持ちが大きかった。しかし最後にボクは衝撃の事実を知らされることになった。


 父は組織内でも何度か揉め事を起こしていた。そのひとつに同じ事務所に所属している仲間の女性に暴行を働くというものがあった。父の暴行の一部始終は事務所に仕掛けられた監視カメラに全部収められていたそうだ。佐伯さんは子どもであるボクにその時のことを詳細に語った。ボクは吐き気がした。車に揺られ吐き気も倍増した。


 佐伯さんは「おやおや、子どもには刺激的すぎたかな」と青ざめるボクの顔を見てケタケタと笑った。


「あー、ちなみにそのときできた子どもがきみね。堕ろすのは可愛そうだから私が産めって命令した」


 あまりにもサラリと言うものだから、思わず聞き流しそうになった。


「まぁ、あれだね。忌み子ってやつ? 正直失敗だったかな?」


 胃の奥底から嫌なものが競り上がってくる。先程じゃら感じていた吐き気が頂点に達し、ボクは車内で吐いてしまった。


 そんなボクを見て佐伯さんがギャハハッと手を叩いて笑った。


 今の佐伯さんからは最初に出会った時の優しい雰囲気を欠片も感じなかった。


 狂っていた――


 父も、佐伯さんも、みんな狂っていた……


 …………


 佐伯さんの言いつけ通りボクは『叛逆する者たちレイブンズ』で父の代わりを務めることになった。とは言え子どもにできることなど限られている。だから数年の間は佐伯さんの傍で仕事を覚えるのに専念することになった。

 そして13歳になったのを機に独り立ちし、地方の事務所に所属することになった。


 その場所は上納市と呼ばれるところだった。田舎にちょっと毛が生えた程度の場所だ。


 そこで与えられた仕事は元警察官の『楡金十三にれがねじゅうぞう』という人物との橋渡し役だった。仕事の内容は凄くシンプルだった。

 彼は警察との強いパイプがあり、その伝手でいろいろな情報を持っていた。ボクは彼からその時々で警察から得た情報をもらって、それを事務所に持ち帰るというもの。

 楡金十三と初顔合わせのとき、ボクが子どもだったことで相手はかなり面食らっていた。佐伯さんの傍で一緒に仕事をしていたときも様々な人から奇異の目を向けられたから、またか……と軽く流すつもりだった。でもなんとなく楡金十三がボクに向ける視線はこれまでのその他大勢のものとは違っているような気がした。


 ボクには橋渡し役以外にももうひとつ別の仕事が与えられていた。それは監視である。楡金十三は元警察官ということもあっていつ裏切るかもわからない存在だった。疑いがあったわけじゃないし、その兆候があったわけでもない。でも、相手は堕ちても元警察官。腹の中では何を考えているかわからない。だから単純にこっちが気がついていないだけの可能性だって考えられた。いわゆる保険というやつだった。


 そしてボクに白羽の矢が立ったわけだ。


 ――子どもの前でならどうだろう。油断してボロを出すのでは?


 これがボクがこの役に抜擢された最大の理由だ。でも、楡金十三は元警察官、いわゆる監視のプロと言っても過言ではない。おそらく彼自身も自分がその対象であることは重々承知していただろう。仮に彼が真っ黒だたとしても、たとえ子ども相手だろうとも、その尻尾をつかませるようなことをするのか、という疑問を持ちつつもボクはその仕事をこなした。


 しばらくは普通に仕事をこなすだけの日が続いた。楡金十三の行動に特に変なところは見受けられなかった。でもボクにはちょっとだけ不安な要素があった。それは楡金十三の不審な行動を不審な行動だと認識できるかどうかだった。


 例えば楡金十三がこっちの情報を警察に伝えていたとして、その行動が日常の中の何気ない行動の中に隠されていたら、ボクにはそれを見破ることは絶対にできない。


 ボクは佐伯さんと行動をともにしていたときのことを思い出す。彼女はなんの躊躇いもなく人を殺せる人間だった。たとえそれが身内であっても。多少の失態は許す傾向にあったけど、大失態ともなれば即処分。ボクの父がそうなったように。


 じゃあ、今のボクは?


 何をもって成果の可否となるかなんてわからない。ボクはそれを懸念していた。


 そんな不安がボクを駆り立てていたことは間違いない。尾行してまで楡金十三を監視せよなんては言われていなかったけど、彼の素性を暴きたい一心で彼の自宅まで尾行することにした。

 楡金十三の家は駅近くの事務所から少し離れた場所にあった。彼が家の扉を開けると「お父さん、おかえり!」と言いながらボクと同い年くらいの女の子が家から飛び出してきて彼に抱きついた。


 顔を上げる女の子の笑顔を見た瞬間、心臓が飛び跳ねる。血が沸騰して血管がちぎれるんじゃないかと思うくらいの衝撃がボクを襲った。


 ――かわいい!


 それははじめての感情だった。それがいわゆる“恋”だとはっきり認識するようになるのはもう少し時間が経ってからのことだった。


 ――――


 ボクは定期的に楡金十三の家に足を運んだ。彼を監視することが目的なのか、それともあの女の子に会うことが目的なのか、曖昧になっていた。


 日が暮れてもずっと家を見ていた。やがて学校から帰ってきたランドセルを背負った制服姿の女の子が玄関の戸を開け家の中へ入っていった。

 ボクは屋内を覗ける場所へ移動して、家の窓のカーテンの隙間から監視を続ける。

 日が沈んで夜になる。子どもが一人で出歩くには悪目立ちする時間。


 テーブルを囲み談笑しながら夕飯を食べる楡金一家の姿が細い隙間から見える。


 ボクはそれを見て無性に腹が立った。


 組織に属してはいないが、やっていることは立派な犯罪で、そういう意味ではボクと楡金十三は何も変わらない。にもかかわらず、家族に囲まれ温かい食事にありついている。実に幸せそうに……


 この差はなんだ……?


 ボクには家族と呼べるものはいない。母はボクを生んですぐに行方をくらました。父はボクに優しくしてくれることなど一度だってなかった。


 気づけば爪が食い込むほどに拳を握っていた。


 ボクはもう一度女の子に目を向けた。


 ボクにだってあの子の笑顔を向けられる資格はあるはずだ――そんな事を考えていた。


 ……………………


 …………


 楡金十三の娘である楡金八重は中学に上がると父親の探偵事務所に頻繁に出入りするようになった。そのせいでこちらの仕事がものすごくやりにくくなった。いつもは事務所で互いの情報を交換していたが、いつ娘がやってくるかわからないという理由で外で報告会が行われるようになった。


 楡金十三が主体で事を進めるのは癪だったが、こっちも人目につきたくない身分であったため了承せざるを得なかった。


 だがこのことが逆にボクに有利に働く結果となった。楡金十三はやはり『シロ』なのではないかというのが事務所のメンバーの総意だった。だからボクの仕事もほとんどなあなあでやっているようなフシがあった。そこに来て遂に彼がボロを出したのだ。


 楡金十三は自分がボクたちと繋がっていることはもちろん、警察と繋がっていることも娘には秘密にしていた。すると当然事務所内での接触は避けることになる。

 だが外で会うとなると人目があるので、なるべくそれを避けようとする。しかしそういう場所に限って日陰者御用達の場所だったりするものだ。蛇の道は蛇。裏稼業の人間どうしは時にいがみ合うこともあるが、利害が一致したときにはあっさりと手を組む。また金と色に弱い人間も多く、そういったものを提供すれば簡単に情報を引き出すことだって可能だった。


 そうした諸々の理由があってボクの耳にタレコミが来たというわけだ。


『楡金十三が杵島という男と密会している』


 杵島という男は警察の人間だということは知っていた。ボクたちは要注意人物として彼を警戒していたからだ。そしてその要注意人物と楡金十三が接触していたというのだから彼は限りなく黒に近いと言えた。

 ボクはすぐさまそのことを上に報告した。すると数日も経たずに佐伯さんが事務所にやってきた。


 自ら制裁を下すつもりなのだろう。無様に死んでいった父を思い出す。あれと同じことが行われようとしている。いい気味だと思った。


 ボクと佐伯さんは2人で楡金探偵事務所に向かった。ボクたちの突然の来訪に楡金十三はとても驚いていた。


 ボクは楡金十三に今回の件について話した。


「で、裏切りが本当かどうか確認しに来たんだけど?」


 佐伯さんが言うと彼がゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。


「あなたがここに来たということは、もうわかっているんだろう?」


「認めるわけかい」


「ああ……」


 楡金十三はあっさりと罪を認めた。言い訳なんていくらでもできたはずなのに。


「で、私を殺すのかね?」


「そうだ――と言ったら?」


 彼は何も言わなかった。無言で機を窺うような素振りを見せていた。だがそれをさせないのが佐伯さんだ。


 佐伯さんは閉じていた目をゆっくりと開け楡金十三を見据えた。すると彼は蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった。父の時もそうだった。佐伯さんと行動をともにしていたときに何度か見たことのある光景。信じがたいことに、彼女はギリシア神話に登場するメドゥーサのように人の動きを封じるが使えるのだ。


 それで楡金十三は一歩も動けなくなった。


 次に彼女は隠し持っていたナイフをボクに手渡してきた。


「きみはあの男のことが嫌いでしょう?」


 佐伯さんはすべてお見通しだった。


「だったらきみが殺さないとね!」


 明るく振る舞う佐伯さん。でもその言葉には確かに有無を言わさぬ圧力をはらんでいた。


 ボクは両手でナイフを構えたまま楡金十三に近づいていった。いきなり動き出して反撃に遭うんじゃないかとヒヤヒヤした。けど彼は体を動かそうとプルプルと震えているが直立不動のままだった。楡金十三の前に立つ。両手を突き出せば心臓にナイフを突き刺せる距離だ。


 ボクの父は死を前にして無様な命乞いをした。でも目の前に立つ男は醜態を晒すことはなかった。悪事に手を染めた段階でいつかこうなることがわかっていたのだ。この男はすでに死を受け入れる覚悟ができている。


 その余裕っぷりに無性に腹が立った。そんな彼の強い意志をくじいてやろうとボクは彼に話しかけた。


「八重さんはボクが幸せにします。子どもは3人くらい作る予定です」


 楡金十三の顔が歪んだ。露骨なまでの嫌悪。


「なにっ! 君は――」


 いい終わる前にボクはありったけの力を込めて楡金十三の胸にナイフを押し込んだ。


「うぐ……っ」


 彼の言葉は呻き声に変わった。


 ボクはナイフから手を話して距離をとった。


 彼は突っ立ったままだ。傷口から溢れ出す血が服を塗らし口から血が滴る。その間ずっとボク睨みつけたまま逸そらさなかった。そして力尽きたように彼は床に倒れた。


 事務所内に乾いた拍手の音が響く。それで我に返った。


「どうだい。初めて人を殺した感想は?」


 緊張もあった。恐怖もあった。でもそれ以上に胸が空く気持ちが勝った。憑き物が落ちたと言うか、心が軽くなったと言うか。とにかくスッキリした。


 ただそれを言葉にすることはしなかった。


「ところで八重さんって誰?」


「え、あ、いや、それは……」


「まあどうでもいいや。でも3人は作り過ぎだね。そんなに稼ぎは多くないんだから2人までにしといたほうがいいよ。あと未成年のうちは避妊すること。いいかい?」


「は、い……」


 佐伯さんはどこまでが真面目でどこまでが冗談かわからないようなことを言う。


 そもそもまだ付き合ってもいないし顔だって合わせたことないのだから避妊以前の問題だ。


「とりあえず、今後もこういった仕事を頼むかもしれないからそのつもりで」


 これでボクはほんとうの意味で悪の組織の一員になったわけだ。


 佐伯さんは持っていたクスリを血溜まりにばら撒きはじめた。何をしているのかと訊ねると「挑発と警告だよ」と短い答えが返ってきた。

 お前たちが間抜けなせいでまた人が死んだぞ、『叛逆する者たちレイブンズ』に近づいた人間はこうなるぞ、という警察に対するアピールだ。


 そんなことをしたら逆に相手をその気にさせるだけのような気がした。どうしてそんなリスクを犯すのか理解に苦しむ。でもきっと大した理由などないのだ。佐伯さんはそういう人だ。


 その後ボクはしばらく上納市を離れることになった。理由は他でもない楡金十三の件だ。ほとぼりが冷めるまでどこか遠くでナリを潜めろというのが佐伯さんの命令だった。

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