第二章 醜い蛙の子
第1話 幼き日の記憶
この世は不条理に満ちている……
自分が幸せか不幸せかの判断は他者との比較によって生じるものだ。
子どもの頃のボクにとってはその生活が世界の全てで、それが当たり前の生活様式として存在していた。だけど学校へ通うになって他人の生活を目の当たりにすると自分がいかにおかしな環境に置かれているかを思い知る事になった。
ボクの家は父子家庭で、父は傍若無人な男だった。
気に入らないことがあればどんな場所でも騒ぎ立て、相手が誰であろうと喧嘩腰で、時に暴力沙汰も厭わない。その矛先がボクに向けられることも多かった。
毎晩のように知らない女の人を家に連れてきてはお酒を飲んで、騒いで、よった勢いでボクに暴力を振るう。勉強していようが寝ていようがお構いなし、無理やり部屋の外に引っ張り出されて、殴ったり、蹴ったり……
一方的に痛めつけられているボクを知らない女の人が指をさしてお腹を抱えてゲラゲラと笑う。
そんな父の悪名は近隣住民の間では周知の事実であった。
近所の人たちはボクに憐れみの目を向け、しかし決して関わり合いになろうとはしない。
学校ではいつも父のことで
それがボクの日常だった――
そんな毎日がこれからもずっと続くのかと思っていた……。しかし、そんな日常にも終わりの日がやって来る。
…………
「おいテメェ、学校でいじめられてんだってな?」
父はどこからかその情報を仕入れてきた。
「いじめられてんのかって聞いてんだよ!! ボケナスがァっ!!」
いつものように怒鳴り散らす。
ボクは勢い圧倒され首を縦に振ってしまった。正確にはいじめらしいいじめなんてなかった。でもそれを説明する勇気はなかった。
「ケッ。それでもオレの子かよオメェはよォ」
「う……っ!」
髪の毛を捕んで顔を寄せてくる父。タバコとお酒の混ざったニオイが鼻について思わず顔をしかめた。
「俺が原因らしいじゃねえかァオイ。ってことは俺がナメられてるのと同じだろうがよ!! あぁん!? 聞ィてんのか!? ナメられたら終わりなんだよ! タマァ付いてんだろ? やり返せよボケが!!」
ボクはそのまま頭を地面に叩きつけられた。鼻の奥がツンとなる。
顔を上げたらポタポタと鼻血が滴った。
――――
やり返せ――と言われたからといって、簡単にそれが実行できるはずもなく、ボクは何も変わらなかった。でもボクが変わらなくてもボクの周りが変わることはある。
放課後、ボクは偶然それを目撃してしまった。帰り道、河川敷を歩いていると川を挟んだの向こう側の道をボクと同じクラスの生徒3人が歩いていた。その3人はどういうわけかボクの父と一緒だった。
3人の嫌そうな雰囲気は遠目からでもその足取りでわかる。その後ろを犯罪者を見張る看守のような態度の父がタバコを吹かしながら付いて歩いていた。4人はこっちに気づいた様子はなかった。その異様な光景が気になってボクは急いで反対側に渡る道を行き、4人の後をつけた。
父は3人を人気のない高架下に連れ込んだ。そして無言で3人の内のひとりを殴り飛ばした。一発でノックアウトした子は地面に倒れて動かなくなった。今度は吸っていたタバコを別の子の額に押し当てた。その子は両手でおでこを押さえ叫び声を上げながら地面を転げ回る。最後のひとりは逃げ出して、影からこっそり覗いていたボクと目が合った。
「あ! 助けて!!」
ボクに助けを求めるクラスメイト。そのせいで父もボクの存在に気づいた。
「逃げるたァいい度胸じゃねェかよ!!」
こっちに向かって走ってきた父はその勢いのまま最後の一人の後頭部をつかんでそのまま倒れ込むように地面に叩きつけた。プロレス技でいうブルドッギング・ヘッドロックが綺麗に決まった。
父は立ち上がり、唖然と立ち尽くすボクを睨む。
「デバガメとはいい趣味してんなァおい!」
そしてボクも殴られた。父は見るからに虫の居所が悪かった。ボクは謝った。何も悪くないのに謝った。でも殴られた。殴られ続けた。だから謝り続けた。
しばらくして父の手が止まった。警察が駆けつけたのだ。このただならぬ状況を偶然発見した人がいて、その人が通報したのだ。
父は警察に連れて行かれ、ボクは一応助かった。暴力を受けた3人のうち2人は意識不明。タバコを押し付けられたひとりは火傷で済んだ。
明日からどんな顔をして学校に行けばいいのかわからなかった。今回件で本格的ないじめが始まるかもしれないと思うと、父からの仕打ちとは別種の恐怖に苛まれた。
警察の車で家まで送ってもらえた。憂鬱な気持ちを抱えたまま家の玄関をくぐるとそこには知らない女の人がいた。赤いワンピースに白衣姿の黒髪の女性。一度も見たことない女の人。父の新しいアイジンだと思った。
その人はずっと目を閉じていた。目が不自由なのかもしれないと思った。でも杖とかは持っていない。
「えっと、あの……父は今警察にいます」
ボクは女の人に説明した。
「知ってるよ。だからあいつの帰りをここで待ってるんだ」
ボクが玄関の鍵を開けると女の人は勝手についてきて家の中に入った。
女の人は居間でお茶をすする。ボクが用意したんじゃなくて女の人が勝手に淹れた。ボクはどうしていいかわからず一緒に卓袱台に向かって正座していた。お茶はない。
「きみ、
女の人はボクに優しく話しかけてきた。初めて合う人なのにその人はボクを知っていた。
「え? あ、はい」
父の知り合いの人がこうしてボクに話しかけてくるのは初めてだったので緊張した。
「そうかそうか。ずいぶん大きくなったねぇ」
どうやらこの人はボクの小さかった頃を知っているようだった。
女の人はボクの頭を撫でる。初めての行為にボクはむず痒くなる。
女の人はもう一度お茶をすする。
すると荒々しく玄関の戸を開ける音が聞こえてきた。ついでに悪態付く声と何かを蹴飛ばす音も。
「あ、帰ってきたみたいだね」
女の人が持っていた湯呑を卓袱台に置く。
不機嫌を隠そうともしない父が居間に入ってくる。
「やあ!」
「な、なんで、アンタがここに?」
女の人が明るい声で挨拶すると、父の顔がひきつった。父のそういう姿を見るのは初めてだった。
「自分の胸に手を当てて考えてごらんよ」
女の人は立ち上がって父に近づいていく。
「お前はもう用済みってことだよ」
その声はさっきまでの明るい声とは違っていた。背筋を氷が這うようなゾクゾクとする声だった。
「ザケんじゃねぇぞ!! 俺が今までどんだけ汚れ仕事やって来たと思ってんだよ!!」
父が恐怖を跳ね除けるように喚く。
「その分アンタの奇行をもみ消してやってただろう? でも限度ってもんがある。もう限界ってことだよ」
今まで勝手気ままな振る舞いをしてきた父がいつも許されていたのはこの女の人のおかげらしい。
「クソがっ!!」
父はいきなり女の人の顔を殴った。女の人はよろめいて畳の上に倒れ込む。
「正直この手は使いたくなかったが……。組織内でのお前の発言力を削いでやるぜ。子飼いの男に犯されたとあっちゃお前の求心力もガタ落ちだろう?」
父が女の人に跨るとビリビリと衣服を破きだした。
ボクは子どもながらにそれがいけないことだと理解していた。殴ったり蹴ったりすること以上にダメなことだと。だから勇気を出して父に立ち向かおうとした。いつもだったら絶対にこんなことはしないけど、この女の人はいつものアイジンと違って優しい人だと感じたから。
しかしボクが何もしなくても父は手を止めていた。父はなぜか女の人の上で四つん這いの状態で動かなくなっていたのだ。女の人が父の下から体を滑らせるように出て起き上がってボクの方を見た。
破れた衣服から除く白い肌にドキリとしてしまう。
「どぉこ見てんのかなぁ?」
「うわ!? ごめんなさい!?」
ボクは慌てて謝って顔をそらした。
「あはは! 冗談冗談。子どもに見られて恥ずかしがるほど私は
女の人は余裕の態度で台所へ移動する。程なくして戻ってきた彼女の手には包丁が握られていた。
「おい! テメェ! 何考えてやがる!!」
「決まってんじゃないか。クソヒゲ危機一髪ごっこだよ!」
それを言うなら黒ひげだ。あと、父はあの海賊のようにひげが濃くない。
「今からこの包丁をお前のケツ穴にブチ込んでやるのさ。そんで首が飛べば私の勝ち。どう、面白いでしょ?」
女の人はボクに訊いてくる。ボクは何も言えなかった。
「はぁ? テメェ頭イカれてじゃねえのか!? 頭が飛ぶわけねェだろ! ふざけんじゃねぇぞ!! ――っつかなんで体動かねえんだよ! 説明しろ!」
喚き散らす父。そんな父の言葉など耳に届いていないのか、女の人は持っていた包丁を宣言通り父のお尻に突き入れた。そこには躊躇う素振りなんて一切なかった。
「ぎゃあああああああああああ!!!! ああああああああ!!! ああああ――っ!!」
情けない父の悲鳴がこだまする。
「ありゃりゃ? 首飛ばなかったね。こりゃ私の負けだね」
別段悔しそうな様子もなくボクに笑顔を向ける。
「――ッザっけんなよクソアマ!!!!」
「たぶん刺す穴間違えたんだね。今度は目かな?」
女の人は包丁を抜いて移動して父の顔を正面に捉えた。命乞いのようなことを始める父に無慈悲な鉄槌を下す女の人。それから女の人ははあらゆる穴に包丁を刺してその度に父が悲鳴を上げた。
「あー、もう刺す穴がないね。男は穴がひとつ少ないからね。しかたないネ!」
女の人はおちゃめな感じで最後に背中側から心臓に包丁を突き立てた。
「…………」
すでに事切れていた父。四つん這いだった体は糸が切れたみたいに床にベチャッとなった。床の上にできていた血溜まりが飛沫を上げた。
最初に優しい声をかけてくれた女の人はどこへやら。まっさらだった白衣いには父の返り血で赤いまだら模様が出来上がっていた。その姿に強烈な恐怖を感じていた。
女の人は血のついた包丁を持ったままボクに近づいてくる。女の人は目を閉じたままで、笑顔で包丁を弄ぶ。
あまりの恐怖に体が動かなくなって逃げ出すこともできずにいた。
「ころさ……ないで――」
やっとの思いで口にできたのは蚊の鳴くような声。女の人は止まらない。ボクはもうダメだと思って覚悟を決める。
「あ、う……」
「きみは優秀だよ!」
「……ぇ?」
自分の予想とは違う結果が起こった。
「自分の父親がグチャグチャにされる様子を見て冷静でいられるなんてさ! 普通はゲロゲロしちゃうもんだけどそれもない! ――というわけで、きみは今日から『
女の人が何を言ってるのかわからなかった。わからなかったけど、わからないなりにわかったことはあった。
それは、ボクに拒否権なんてないってことだ。
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