3-1 私の物語 前編
万葉学園に子どもを通わせているお金持ち家庭は、大きく分けて2つに分類される。資産が潤沢にあり何もしなくてもお金が入ってくることが約束されている者と収入は多いがそれに見合った労働が必要で、時に景気の浮き沈みに左右される者。
私の両親は後者だった。
高級住宅街に居を構えて、いつもギリギリの生活を送っていた。それなのに、高級住宅街に住むものが子どもを万葉学園にも通わせられないなんてと兄も私も無理して万葉学園という高い学費を請求される学園に入学させる始末。
普段から身なりにも気を使い、食べるものにもお金をかけて、定期的にホームパーティーを開き友人たちをもてなして……
少しずつ少しずつその生活にほころびが生じていった。
父は証券会社勤め、母はデザイナーとして一定の成果を上げていた。けれど時代が父と母を必要としなくなった。不景気の波が来ると父は会社をリストラされ、新進気鋭のデザイナーが次々と現れる業界で母はその影に埋もれていった。
悲惨なことに両親は稼ぎに合わせて生活水準を下げるということができなかった。そして借金に手を出した。消費者金融ではないいわゆる闇金に手を出したのだ。
特に両親は何も考えずに普段どおりの生活を続けた。最初はそれでもよかったのだろうけど日に日に膨らむ暴利に頭を悩ませるようになった。その結果が3年前、
……………………
…………
その日は夜になっても父と母が家に帰ってこなっかた。リストラされた父は再就職に向けて奔走していたが基本的に家にいることが多く、デザイナーの母はもともと家で仕事をすることが多かった。そんな2人が同時に家を空けると言うのはここ最近では珍しいことだった。仮に出かけるにしても連絡をよこさないのはおかしいと兄は不審に思い、こちらから2人の携帯に連絡してみたがどちらも電話にでることはなかった。不安をつのらせた兄がどうしようどうしようとリビング内をうろつく。少し経っては電話をかけ、少し経っては電話をかけを3度ほど繰り返したあと突然家に電話がかかってきた。兄は即座に受話器を取った。
「もしもし! 今何やってるの!」
父か母からの折り返しの電話だと思ったのだろう、相手が誰かを確かめもせず兄が焦るように問いかける。しかし相手は両親のどちらでもなかったようだ。でも兄にこちらの勘違いを恥じて謝る素振りはない。
兄は受話器を持ったまま無言で立ち尽くしていた。しばらくして、何も言わず無言のまま受話器を置いた。
兄はゆっくりと振り返った。ひどく青ざめた表情で。
「父さんと母さん……誘拐された……」
その声はひどく震えていた。
…………
上納市の駅前にある恐竜の像の前で兄が赤いカバンを持って立っていた。中には五千万――一部お札に見立てた紙が入っているので実際には2千万ほどしかない――も入っているのでかなりの重さがあるらしく相当つらそうにしている。待ちゆく人は兄の方にチラチラと視線を送っていた。とにかく目立っていた、赤いカバンが。
私はそんな兄を離れたところから見守っていた。
兄は犯人が金を受け取りに来たところで捕まえてやるのだと意気込んでいたので、私も少しでも役に立とうと思い、いつでも駆けつけられるよう準備していた。
しかし受け渡しの時間になっても犯人は現れなかった。兄は外見ではそうとわからないように耳にイヤホンを挿していた。警察の指示を聞くためのものだ。兄が受け渡しを諦めようとしないところを見ると警察から続けるよう指示があったんだと思う。
延長すること十数分。兄に近づく2人の男の人がいた。一瞬犯人が来たのかと思ったけど、その2人には見覚えがあった。兄の友人だ。兄たちは会話を始める。友人のひとりが赤いかばんを指差し笑っていた。2分ほどで2人は兄の元を去っていった。
今日は休日。あんなところで目立つ色のかばんを持っていれば友人に声をかけられることもあるだろう。そんな兄と友人の会話の様子を見て思ったことがあった。
――もしも受け取りに来た犯人が複数だったらどうしよう。
私以外にも現場近くでは複数の警察官が兄を見守ってくれている。でも犯人が複数だったら? 警察はちゃんと犯人を捕まえてくれるだろうか。
そんな私の考えは無駄に終わった。そんな考えを吹き飛ばしてしまうほどに最悪なことが起こったのだ。
パンッ――という風船が割れるような音がした。その段階では誰もそれが異常なことだと認識しない。でも兄をずっと見ていた私の目に飛び込んできたのはとても鮮烈な光景。兄の額から一筋の赤い血が流れる。兄は目を見開いたまま背後にある恐竜の像の方に倒れた。
異変を察知した警察官たちが周囲を警戒しながら兄に駆け寄る。そのときになって初めて異常性に気がついた周辺を行き交う人たちがざわつき始め、死んだ、人が死んだと騒ぎ始める。
撃たれたの? 逃げなきゃ!
誰かの言葉で逃げ惑う雑踏。
ただ私だけがずっとその場で立ち尽くしていた。一歩も動けなかった。現場に救急車がやってきた。たぶん兄を病院へ運ぶのだろう。でもどこの病院かわからない。
自分は妹だと名乗り出て一緒に行くべきだったのだろうか? それすらもわからない。私はただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
時間だけが過ぎていく。現場の喧騒はまだ止まない。数台のパトカーも駆けつけ、逃げ惑う人々の群れは野次馬に変わり、なんだだなんだと遠巻きに現場を眺める。
今なお野次馬は増え続けている。
「――っ!」
誰かが肩にぶつかって私はつんのめる。その人は謝りもせず「誰か死んだらしいぜ!」と仲間同士ではしゃぎながら野次馬の中に紛れていった。私は忘れていた体の動かし方を思い出す。それでようやく足を動かした。振り返り、駅とは逆の方角にある自宅に向かって歩いた。
――――
家にたどり着いて、玄関のドアに手を伸ばす。
「あ……」
鍵がかかっていた。家の鍵は兄が持っている。その兄はもういない。
「えっと……」
私は家に入ることができなかった。
どうしていいかわからず私は家から離れるようにしてまた歩き出す。ポツリと冷たい水が頬を打つ。涙――ではない。雨だ。空を見上げると、どんよりとした重い雲が空を覆っていた。
雨はすぐに土砂降りになった。
降りしきる雨の中、途方に暮れながら街をさまよってたどり着いたのは楡金探偵事務所だった。兄もいない。両親もいない。頼れるほど親しい友人もいない。気がついたらここに足が向かっていた。
事務所のベルを押した。すると現れたのは楡金さんだった。当たり前だ。
わたしは彼女の顔を見た瞬間、彼女に抱きついた。人のぬくもりを感じたい衝動に駆られたのだ。長い間冷たい雨に当てられたせいかもしれない。
楡金さんはわたしを拒絶しなかった。女性らしい柔らかな身体は抱きしめていてすごく心地よかった。頬に触れる服越しでも感じることのできる豊かな胸の弾力が私に安らぎを与えてくれる。
楡金さんは何も言わずわたしを包み込む。雨ではない水が頬を伝う。この時になってようやく私は泣いた。でもそれも雨のしずくに紛れて、楡金さんは私が泣いていることに気がついていないみたいだった。
――――
楡金さんは私にお風呂を提供してくれた。制服は乾かすからと言って別の服も貸してくれた。コーヒーまでごちそうになった。ただ、服は胸の部分がぶかぶかだった。チラリと楡金さんの胸を見て、自分の胸と見比べて、
ちょっと複雑な気分になった――
コーヒーを飲みながらわたしは楡金さんに自分がわかっている範囲で事件のことを話した。すると楡金さんは私が話した情報からひとつの答えを導き出した。
もしかすると犯人の狙いは私を殺すことだったのかもしれない――と。
心当たりなどなかった。でも楡金さんの話はすごく納得できる。
私は途端に怖くなった。思い出すのは額を撃ち抜かれ倒れる兄の姿。あれが私だったのかもしれないのだ。そして犯人の狙いが私なら事件はまだ終わっていないことになる。兄を殺した犯人が今も私のことを捜し回っているかもしれない。
外にはでたくない……だから私は無理を言ってここに泊めてもらうことにした。
…………
翌日、まだ完全に乾ききっていない制服に袖を通して事務所を出た。家まで楡金さんと一緒に帰った。楡金さんは、腕っぷしは全然だけどひとりで帰るより安全だからと言っていた。楡金さんはすごく優しい。彼女は私が家の門をくぐるのを見届けると帰って行った。
私は玄関の扉に手を伸ばした。そこではたと気づく。すっかり忘れていたけど、家の鍵がないから中には入れないのだ。楡金さんに助けを求めようと振り返るけどそこにはもう彼女の姿はない。
どうすれば……
不安な気持ちに苛まれ自然と玄関のレバーに置いた手に力が入る。
「……?」
開いた――
昨日はたしかに鍵がかかっていたはずのドアが開いた。
もしかして、誘拐が失敗したことで犯人が両親が解放したのかもしれない。
「ううん。ちがう」
私は昨晩楡金さんから聞かされた話を思い出し、そんな事は絶対にあるはずがないと思い直す。
――だったらどうして。
恐る恐る玄関を開ける。最初に目に飛び込んできたのはそこにある靴だった。見た目は兄が好んで履きそうなハイカットのスニーカーだけど、見覚えがない。
私の知らない誰かがこの家にいる証拠だった。
もしかすると犯人の狙いは私を殺すことかもしれないという楡金さんの推理を思い出す。だったら今家に上がるべきではない。すぐに警察に連絡すべきだ。物音を立てずにそっと外へ出ようとしたが、後ずさった私の体が後ろにいる誰かにぶつかった。
ゆっくりと振り返ると、そこには要人のSPのような黒いスーツに黒いサングラスのガッチリとした体格の男がいた。あまりの恐怖に声は出なかった。その人は無言で私の両肩をつかむと、あれよあれよという間に私はリビングに連行されてしまった。
そこには知らない人がいた。男性といえば男性に見えるけど女性といえば女性にも見える中性的な顔立ちをした人だった。我が物顔でソファに座りコーヒーを飲んでいる。
「やあ! おかえり!」
その人は私の存在に気づくと、街で偶然あった友人に声をかけるみたいな軽快さで話しかけてきた。
背後にいた男の人がスッと後ろに下がるのがわかった。目の前のこの人が後を継ぐということなのだろう。
「あの……どちら様ですか?」
「ボクかい? ボクは
名前を聞いてもやっぱり知らない人だった。
「えっと……今家には両親がいなくて……というよりももう、戻ってこないかもしれません」
両親の知り合いかと思ってそう伝えると本宮さんは「知ってるよ――」と答えた。
「なにせキミの両親に代わってわざわざ不出来な娘を迎えに来たんだからね」
「……え?」
私は自分の耳を疑った。
両親に代わって――それはつまり……
「まさか、あなたが……誘拐犯……」
思ったことがそのまま口をついて出てしまっていた。
すると本宮さんはハハッと笑ったあとコーヒーをずずずと啜り、一呼吸置いて私を射抜くように見据えた。その笑顔はこの状況にひどく不釣り合いで、私は自然と
「誘拐犯だなんて心外だな。言っとくけどボクはキミの両親を攫った覚えはないよ」
誘拐犯ではないならさっき言った両親の代わりに迎えに来たというのはどういうことだろう。
「そんなことよりさ。キミにはやってもらいたいことがあるんだよ」
「……え? どういうことですか?」
本宮さんの要領を得ない発言に私は混乱するばかりだった。
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