【Ⅱ】さぁ、旅に出よう

「獣に構ってる場合じゃなかったわ」

「獣にしてくれるな、高貴な水の精霊だ」


 ため息混じりに呟けば、打てば響くようにすぐに言葉が返される。

 そういえば、聞いたことのない獣なのに、私と同じ言葉を話せるなんて変な生き物だ。


「高貴? かどうだか知らないけど、邪魔してくるなら、獣でも精霊でもお断りよ」


 そう言いながら、茶色の塊に何処かに行けと手を振ってやる。

 カワウソと豪語していた茶色の塊は首を傾げるように上半身を横に倒した。案外、体が柔軟らしい。


「何かするのか?」

「旅に出るのよ。家族が起きてくる前に家を出たいの」


 ちょっと気が引けたが、時間が惜しくて小さな後ろ足で直立する茶色の塊の両脇を抱えて持ち上げる。猫のようにぶら下がるが、彼らに比べたら寸胴で、毛も固い。

 手頃な場所がなくて、床に置いても茶色の塊はぱちりと青い目を瞬くだけだ。

 私は茶色の塊が出てきた洗面器の水を畑に撒く用の排水入れに捨てた。水は貴重だけど、なんか、いやだったからだ。汚いというわけでもなく、他にも何か出てきそうな気がする。

 もう一度、水を汲もうとして不思議なことが起きた。両手で持った洗面器に水が戻ってきている。何もなかった底に、瞬くペリドットの瞳が映っていた。


「……これ、あなたがしたの?」

「うむ。消すこともできるぞ」

「精霊なのは間違いないのね」

「どうだ、畏敬を示したくなっただろう」


 ならない、とはあえて答えずに、顔を洗い、部屋に戻る。

 とてとてと歩く茶色の塊が入る前に部屋を閉めたのに、彼は花瓶の横に四本足で立っていた。

 何もかも売り払って、淑女の部屋らしくないが、唯一華やいだ場所だ。母が野花もきれいですものと飾ってくれた。食用にもできると思ったが口を開けれなかったのは、ごく新しい記憶になる。


「わしを閉め出すとはいい度胸だな」

「今から着替えるの、見る気?」


 無害そうな獣に少々見られても大丈夫なのだが、あえて強気に言えば茶色の塊は、むと唸り背中を向けた。後ろ足で直立して、ご丁寧に短い両手で目のあたりを隠している。

 まるで、かくれんぼをしているような姿に少しだけ心がやわらいだ。


「どうして帰らないの?」

「お前の顔が気になるからだ」

「ジャガイモって言ったくせに」

「ジャガイモはジャガイモだろう」

「レディに対して失礼じゃない?」

「それを言うなら、ジャガイモに対して失礼だろう」


 なんて無益な会話だろう。でも、ポンポンと返ってくる言葉が何だか楽しい。

 準備を終えた私は、いいよと声をかけた。

 ゆっくりとした動きで姿勢を四つん這い戻した茶色の塊が、目を見開いたような気がする。つぶらすぎて、勘違いかもしれないけど。


「おぬし、ユーリの縁戚のものか?」

「ユーリ、なら私のおばあ様だけど。え、うそ、知り合いなの?」


 あなた、何歳と聞き終わる前に、一瞬でカワウソは私の肩に飛び乗った。

 器用に私の首を中心に両肩を行き来して私の瞳を覗きこむ。


「このイヤリング、このチョーカー、ペリドットの瞳。そうか、孫か。して、ユーリは?」

「……一昨年の冬に亡くなったわ」

「……時が経つのははやいのぅ」


 しんみりとした空気に、よしと声が響く。

 声をした方へ目を向ければ、したり顔にも見えなくもないカワウソがいた。


「わしはゲンだ。旅に付き合ってやる」

「え、足手まといペットはいらないよ」


 これは一人と一匹の出立のお話。



*この後、ぎゃいぎゃい騒いでも、家族(鋼鉄の精神)は起きません。



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