第17.5話 『母は祈る』

 洗濯物を取り込みながら、聞こえる音に耳を傾ける。

 何気ない、日常の時間。

 けれど私にとって、心から安らげる幸せな時間だ。


「ケイン様、もっと集中してください。ただの的に当てられないなら、動いている敵に当たりませんよ?」

「くそぉ、なにも言い返せない」

「諦めますか?」

「まだまだあぁ!」


 厳しい声に返す、元気な声。

 メイにナイフの投擲を教えてもらうケインの熱い気持ちが、こっちにまで伝わってくる。


「マリオス、もっと剣をしっかり持ってみろ」

「うぅ〜剣やだぁ! まほうつかう! 『火よ……』」

「え、お前もう一人で魔法できるのか? ちょっ、待て待て待て! お父さん吹っ飛んじゃあーッ!!」


 剣聖に次ぐ男と呼ばれた夫が、三歳のファイアボールで飛んでいく。

 マリオスは武術は苦手だけど、魔法の才能がある。純粋に魔力量が多いし、そもそも勉強が好きだから日常会話より先に呪文を覚えた。ライオスにも伝えていたはずなのに、ケインの印象が強過ぎて弟も剣ができると思っていたらしい。

 あの子は運動よりも勉強の子。偉大な魔法使いになる素質がある。


「もっと腰を入れろぉ! あと素振り五十回!」

「「はいっ!」」


 となりの土地から、軍の養成学校のような声が聞こえた。

 最近作られた学校で、お義父様が子どもたちに剣を教えている。昔の血が騒いだのか、週に一度の話がいつの間にか連日の鍛錬へ変わっていた。


「にぎやかになったわね」


 遠くからは、金槌の音や仕事に精を出す人々の声。

 あの日から一年。

 王都から支援をもらったタイズ村は、困難や悲しみを乗り越えて順調に復興の道を歩んでいた。


「奥様〜、あとは私がやっておきます〜」


 ロアが屋敷の掃除を終えて、のんびりと声をかけてきた。


「ありがとう。じゃあ、ちょっと休憩させてもらおうかな」

「そうだろうと思って〜、お茶をご用意してますよ〜」


 抜けているように見えて、こうした気遣いはさすがだ。

 人間とは桁違いの時を生きるエルフは、伊達じゃない。


「ふふっ、ならいただこうかしら。ロアも終わったら、いっしょに飲みましょう?」

「はぁ〜い」


 彼女が飛び跳ねると、エプロンの向こうで豊満な胸が揺れる。

 村の男で目を奪われていない者は皆無だろう。


 あとを任せて居間に行くと、甘い香りが出迎えてくれた。

 一口飲んで落ち着くと、またあの胸が瞼の裏にチラついた。でも同時に、今度は懐かしい声も蘇る。


『なんなんすか! なにが詰まってんすか!』


 嫁いで間もない頃。

 圧倒的な存在感を見せつけられた私とリースは、冒険者時代にもなかった敗北感に打ちのめされた。二人で食生活やマッサージなどを教えてもらい、必死に試した結果は満足いくものだった。


「リース……」


 名前を呼んでも、あの明るく元気な声はしない。

 

『あんたがサイキョー魔法少女っすか!?』


 始めて会ったときから変わらない、人懐っこい笑顔も。


『あーしはッ! なにがあってもッ! 姐さんのそばを離れませんッ!』


 生死を分けるピンチにも揺るがなかった勇ましい顔も、もう見られない。


「……ふぅ」


 じんっとこみ上げたものを、なんとか抑える。


「リース。貴方が遺してくれたもの、私が守ってみせるわ」


 紅茶の色にあの毛並みを重ねて、そっと呟いた。


「た、ただいま」


 振り向くと、愛する夫が立っていた。

 顔はすすけて、ズボンの裾がちょっと焦げている。


「おかえりなさい。マリオスは?」

「ハンナちゃんとゴクウが来て、いっしょに遊びに行ったよ。今日の鍛錬は終わりだ」


 ふう、と息を吐いて瓶の水を飲む。

 大きな一口でごくごくと鳴る喉仏が、私は昔から好きだった。

 

「マリオスに剣は必要ないんじゃない?」

「たしかに魔法は天才的だ。だが、それは万能というわけじゃない。闘気を覚えろとは言わないが、万が一のときに動けるくらいにはなってほしいんだよ」


 ライオスは、いろんな顔を持っている。

 男の顔、夫の顔、戦士の顔、当主の顔、ちょっとおバカな顔。ここ数年で増えた父の顔で悩みながら、となりに座った。


「で、大丈夫か?」


 スッと優しさを集めた視線が向けられる。

 私だけが知っている、夫の顔だ。


「もちろん」

「無理はするなよ? 辛いのはきみだけじゃない。でもだからこそ、きみだけが堪える必要もないんだ」


 筋肉質な太い腕が肩を抱き寄せてくれた。

 汗ばんだ胸に体を預けて、ちょっとのあいだ甘えさせてもらった。


「……うん、ありがとう。ねぇ、ケインの様子はどう?」


 体を離し、私も母親の顔になる。


「よく頑張ってるよ」


 庭から聞こえる悔しそうな声に耳を傾けながら、ライオスは言った。


「あいつは体の使い方が上手い。戦いの心構えも理解しているし、咄嗟の判断も正確だ。昔から思っていたが、鍛えてるっていうよりも道筋を示してやってる気分だ。それに加えて、今は本人の気合いも違う。まるで人生二回目かってくらいにな。どこまで強くなるのか、末恐ろしいよ」


 言葉とは裏腹に、どことなく嬉しそうな顔。

 私の心配は、イマイチ伝わっていないみたいだ。


「それが怖いのよ、私は。ケインが強くなることが」

「どういうことだ?」


 驚きながら、ライオスが首をかしげた。


「あの子、自分を蔑ろにしすぎるのよ。お義母様のときだってそうだったでしょう? 誰かに頼ったり、安全で効率の良い方法を考えたりしない。簡単に自分を切り捨ててしまう」

「どういうことだ?」


 夫は、あまりピンときていないようだ。


「例えば、私とケインが道を歩いていて、私が転びそうになるじゃない? そしたらケインは、自分を犠牲にして私を守ろうとするはずよ」

「まぁ……でも、そのくらいは」

「擦り傷を回避するために、命をかけられる?」


 言いたいことが伝わったようで、ライオスは重い表情になった。


「あの子は自分の価値を低く見過ぎてる。自分が犠牲になって僅かでも不幸が避けられるなら、喜んで命を投げ出そうとするわ。どんなに結果を残しても、私たちがどれだけ褒めても、なにか自分の奥にあるものは絶対に認めないのよ。それが心配なの。強くなって、救えるものが多くなったら、立ち塞がる試練も大きくなるわ。そんなとき、あの子がどんな選択をするのか……」


 視線を落とすと、紅茶に写った自分と目が合った。

 

「リースに申し訳ないのよ、ケインにそんな可能性を持たせるなんて。なにより……母親として許せない。あの子は、リースの分まで幸せにならなきゃいけないの。だから」

「大丈夫だ」


 頼もしい声が聞こえた。

 顔を上げると、まっすぐな熱い視線が目を奪った。


「今のあいつなら大丈夫だ。たしかに、前はきみの言うような節はあったよ。でも、言ってたろ? ファミリアを作るって」


 ファミリア。

 人生の中で、心の絆を結んだ人たちのこと。

 たしかに、リースの件から吹っ切れたケインが話してくれた。


「俺も母様から言われたことがあるよ、自分のファミリアを作れって。そのためには、生きなきゃならない。全力で後悔のないようにな。俺も剣を交えて感じる、今のケインにはブレない芯がある。きみが心配するような自己犠牲は、ひとまず安心していいんじゃないか?」


 言いたいことは分かる。

 私だって魔法を教えたり、リースのことを語ったりして、変化は感じていた。


 でも、それでも。


「……そうね。でも、私は母親ですから。あの子を信じるのと同じくらい、心配もするわ」


 夫には言わないが、私にはあの子が生まれたときから思っていることがある。 


 ケインの中には誰かがいる。

 成長するほどに強まった不思議な確信。

 それこそが、あの子の強さであり弱さの正体。

 でもだからといって、気味が悪いわけでも怖いわけではない。むしろ、すべてを愛したいと思った。だってその誰かも含めて、私の息子であることに変わりないのだから。


「きみもブレないなぁ……進む道を決めて、生きていくのは子どもたちだ。俺たちにできることを、精一杯やっていこう」


 ライオスの手が優しく重なる。


 心から幸せになってほしい、平和に生きてほしい。

 けれど今、そんな願いとは遠いところにケインはいる。

 なら、私にできることはあの子が進むための力を与えてあげること。歩く道の先に、幸せと平和が待っているように。


 そうだよね、リース。


「……ありがとう、ライオス」

「うん。きみは、俺じゃ気づかないところまで子どもたちのことを見てる。そのおかげで、みんな助かってるよ。こっちこそありがとう」


 自然と顔が近づき、唇が触れ合う。

 この人と愛し合えて、本当によかった。


「あの〜」


 聞こえたのんびりした声に、二人で飛び上がった。


「ロロロロア!」

「い、いつの間に!」

「今です〜。お邪魔するつもりはなかったんですけど〜、ケイン様たちが戻って来そうなので〜、お声かけを〜」


 たしかに、聞こえるメイの声が「あと二投!」と言っていた。


「あ、ありがとう」

「はい〜。続きなら、お部屋でお願いしますね〜」

「しないわよ!」


 否定ものんびりと聞き流され、ロアはさっきの約束通り自分の紅茶を入れ始めた。


「終わったー! み、水〜!」


 言いようのない恥ずかしさを感じていると、ケインが水瓶に吸い込まれるようにフラフラと現れた。


「ふふふっ」


 思わず笑ってしまった。


「お疲れ様、ケイン」


 汗で濡れた髪を撫でる。

 私に似た緑色の瞳が、くりくりと見上げてくる。


「はい! ただいま!」


 この笑顔を守りたい。

 深く大きな愛おしさが、胸に広がっていった。

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