あたたかい部屋で

 やまこ先生は、おっとりとした雰囲気の娘さんと暮らしている。

 娘さんは玄関で、今日も俺たちをあたたかく出迎えてくれた。


 通されたのは、いつもの和室。やまこ先生の部屋。

 古臭い本棚に、一冊一冊がきちんと並べられている。かびた匂い、でも、不思議と落ち着くこの匂い。


「さっみい」

「マジでさっみい、さみい」

「騒ぎなさんな。いまにあったかくなるがね」


 俺とテツが騒いでいると、やまこ先生は昔ながらの石油ストーブをつける。


「そこお、座れ、いつもんとこ」


 俺とテツはちゃぶ台の前に座らされる。

 やまこ先生が部屋の隅に置かれた段ボールから取り出したのは――いつもの、赤いきつね。

 ふたつとも、ポットからお湯を注いでくれる。


「ほれ、赤いきつね」


 割り箸とともに、赤いきつねが目の前にことん、と置かれた。

 テツの前にも、おなじものがことん、と。

 それと、ひっくり返された砂時計。


 この、すでに漏れ出す、甘いだしの匂い。


「はああ。この四分が、なげえんだいな」


 テツがぼやく。

 その気持ちは、おおいにわかる。


 俺は上目遣いでちらりと、やまこ先生の顔を見た。


「いいんかい」

「なにがさ」

「また、こんなん、もらっちまって」

「子どもがそんなん、気にすんない。子どもたちのためにケース買いしてんだ。食ってくんねえと困らいね」


 しれっと、やまこ先生は言った。


 砂時計が落ちきった瞬間、俺たちはふたを取った。

 ふんわりと、だしのいい香りが満ちる。


「食え食え、悪ガキども」


 俺たちはいただきますも忘れて、赤いきつねをむさぼり始めた。


 空きっ腹に、ひとくちひとくちが、特別だ。

 透き通るきれいな茶色おつゆは、深いだしの味がする。

 ピンクの色が鮮やかなかまぼこ。

 とくにこの、甘くてでっかいあぶらあげ。


 はふはふ食べている俺たちの、湯気の向こうにやまこ先生の顔が見える。

 頬杖をついたやまこ先生は、仕方がなさそうに微笑していた。


「盗みは、やめり。腹減ったんなら、先生んとこ来りゃいいがね。赤いきつねだったら、いつでも食わせられるから」


 俺は麺をすすって呑み込んだあと、先生に言う。


「でも俺ら、あと数ヶ月で卒業だんべ」

「卒業したって来りゃいいがね。いつまでも来りゃいいがね」

「大人になっても?」

「そっさ」

「馬鹿げてら」


 テツが横から口を挟んできた。


「馬鹿げちゃないがね。おれの赤いきつねはさ。おめえらがいくつんなっても、時をかけて届くから」

「出た、やまこババアのちょっとふしぎなヘンテコ話」


 テツはからかう。

 俺は顔をしかめる。


「なあ先生。いつも言うけど、なんなん、それ?」

「言葉通りの意味さね」

「わっけ、わかんねえ」


 赤いきつねは時をかける?

 本当、いつも、この先生は奇妙なことを言うのだ。


「おめえら。食って、あったまって、しばらくしたらけえれ」


 晩ごはんもろくに作ってくれない家族のもとなど、帰りたくない。

 ずっと、テツのような似た事情をもつ仲間と、遊んでいたい。


 そうじゃなければ、やまこ先生の家にいて、こんな気楽な時間を続けたい……。


 でも、そんなこと言えないから。

 ……あたたかいつゆの、きれいな琥珀色を眺めながら、俺はぼそりと言う。


「俺さあ、もうさあ、いろいろ、めんどいんさ。死んじまったら、楽だがね」

「なあに、言ってるん。生きなきゃ、だめだがね」


 俺のぼやきに対して、やまこ先生はやたらに真剣に返してきた。


 帰り、やまこ先生は、赤いきつねをいっぱいくれた。

 万引きしたものをすべて返して空っぽになってもなお、カバンからあふれそうなほどだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る