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 サルンの家に戻り、ある程度の手当をしてもらってから再びベッドに横たわっていたノワール。引かない痛みで眠れずにいた彼は、ふとこの日あったことを思い出す。

 サルンに出会い、仕事を手伝ったりドキュメンタリーを見たりというのは彼にとってはなんでもないことだった。仕事は他の場所でも出来るし、そこで出会った人と一緒にご飯を食べたりテレビを見たりということも何度も経験していることだ。

 しかし、この日あったことはそれとは違う。いつものようにただ放浪ほうろうしたり、たまに自分でも出来そうな仕事をやったりというただの日常ではない。

 自身の根幹こんかんに関わる、とても重要な出来事が起こった日だ。

 夕食時に感じた、記憶の断片だんぺんが呼び起こされたような感覚。そのあとヴァイスという男に出会い、そして戦った。

 ヴァイスはノワールに対し、分身がどうだこうだと言っていた。その内容はうまく理解できていないが、もしかしたら自分が記憶を失ったことと関係があるかもしれない。それどころか、記憶が可能性もある。

『分身というかクローンというか……』

 ふと、ノワールはヴァイスが言っていたこの言葉を思い出す。


 本来、この世界に存在してはいけないはずのクローン。仮に自分がもしそのような存在であったとすれば、どのように今後の人生を送れば良いのだろうかと、そのような不安が脳裏のうりに浮かんだ。

 今のところ世界でクローン人間が製造された事例はなく、クローン人間がどのような生涯しょうがいを送ったのかという記録はまったくない。それゆえに自身がクローン人間であった場合の未来が、まったく予想ができないのである。

(ちくしょう、俺はどうしたらいいんだよ)

 ノワールは、静かに拳を握った。

 しかし、自身がクローンだとしたら一つ矛盾がある。

 彼の記憶の断片らしきものは、その経験を実際にしなければ持つはずがないものであった。

 ノワールは、過去に明確に三歳上であると分かっている女性と関わった記憶がない。もしかしたら彼の勘違いであるかもしれないが、そうでないのならば確実に彼の『もとあった記憶』の断片と言えるだろう。

 であるとすれば、ヴァイスの主張は間違っていることになる。ノワールの記憶通り、崖から落ちたことで記憶が消えたのだろう。

 そもそも、今現在においてクローンを作ったとして、なぜ互いの身体年齢がほぼ同じになるのだろうか。クローンを作るにはもともといる人間の細胞が必要になるため、どうやっても身体的な年齢差は発生してしまうのだ。

 急速に人間を成長させる薬品も今のところ存在しないため、薬剤による成長も起こり得ない現象である。


「まあ、とりあえず寝るか」

 結論の出ない問題を考えることに嫌気いやけがさしてきたノワールは、いててと言いながら身体に布団ふとんを被せる。

 なんとか身体を横向きにした彼は、痛みを感じながらも目を閉じる。外を走る自転車から出るかすかな光が、一瞬部屋の中に入り込んだ。

(俺がクローンにしろそうでないにしろ、手がかりらしきものには近づいたんだ。もう一度あの男を見つけて、とっちめた後で情報を聞き出してやる)

 ノワールはすでに心の準備はできていた。

 自分と関係があるらしきヴァイスとその『仲間』を相手に、自分の真実を知るための戦いをすることになる可能性もある。

 しかし、それでも彼は知りたいのだ。それはなぜ自分はある時期より前からの記憶がないのかだけではない。

 自分がどこで生まれてどのように育ち、どのような人生を送ってきたのかという真実を、どうにかして手に入れたいのだ。

 そのためならば、ノワールは自分の身一つだけであってもヴァイスやその仲間を見つけ出してやろうと考えていた。

 この日、彼が眠りにつくのにはさらに一時間ほどを要した。

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