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 チャトラパティ・シヴァージー国際空港。一九三二年に開港され、以後一〇年以上に渡りムンバイと世界を繋いできた空港だ。

 N・Yニューヨークへ渡航するための準備を終え、母親に車で空港まで送られたエリーは、搭乗手続きを終え手荷物検査のために国際線ロビー行きの列に並んでいる。彼女の横には母がおり、出国前の最後の会話をしていた。

「ねえ、ニューヨークってどういうところなんだろう?」

「確か、マンハッタンっていう島があって、その中に大きな会社とか繫華街はんかがいがあったりするって聞いたことがあるわ。あと、あなたが行こうとしてる国連の本部もその島にあるみたいよ」

 この時はまだインターネットもなく、海外の情報は自分で本やらラジオやらで手に入れるしかない。そのため、二人はアメリカについて断片的な情報しか持っていなかった。

 情報をあまり持たないエリーにとって、これからの旅はまさに新世界へ飛び立つようなものなのだ。

「それ以外にも、いろんなところを乗り継いでいくでしょ? せっかくだから、乗り継ぎする時に空港にあるお店でその国の食べ物とか買ってみたらどう?」


 エリーがニューヨークに向かうまでに、いくつかの空港で乗り継ぐことになる。ムンバイを出発した後は、カイロ、ローマ、ロンドンの空港を経由してやっとニューヨークまで到着できるのだ。

 当然、各地にはそれぞれ別の食文化がある。それらをたしなむというのは、異国の文化にれるきっかけともなるだろう。

「いや、いいわ。飛行機の中でご飯は食べれるし、それにせっかくお母さんがくれたお金だから……」

 母はエリーが外国への避難をするために大金を渡した。渡航費だけではなくしばらくの食事代やら衣類代などを含むと、およそヴァルマ家の財産の半分以上はあるだろう。

 彼女はそんな大切なお金を、経由地の食べ物についやすのは気が引けたのだ。

「そう、私ならローマの空港で洋風の朝食とか食べてみたいわ」


 母が笑いながら言ったその時、ついに保安検査場の順番が回ってきた。

 検査場の職員が次の方どうぞとエリーを『次ん方、どうぞ』となまった発音で呼ぶ。

「……ごめんお母さん、もう、行かなきゃ」

「………………………………………………………………………………………………」

 一歩ずつ、一歩ずつ奥へと足が進んでいく。

 しかし、その一歩は確実に親と子の距離を離していった。

「無事でいてね、エリー」

 母が声をかけるころには、エリーはもうすでに検査場の中に入っていた。

 一てきの涙が、空港の無機質な床にこぼれ落ちる。その時、母はとっさに後ろの方を向いて出口の方へを歩き出した。

 母が気になりエリーが後ろに振り向いた時には、すでに彼女の視界に母は入っていない。再び正面に顔の向きを戻した時、彼女の視線は自然に下の方へ傾いていた。


 保安検査場を通過し、その後は数十分すうじゅっぷん待ち呼び出しを受けてから機内に入る。このときはまだ搭乗橋がなかったため、エリーら乗客は一人づつタラップを上って飛行機の搭乗を通り機内に入っていった。

 彼女が乗るカイロ行きの機体は現在のような白い塗装がされた大型ジェットではなく、外面の大部分が銀色で現在のものよりやや小さく作られている。

 さらに機体自体が新品であるため、反射してきた光が目に入りまぶしく感じる者もいた。

 エリーは飛行機のチケットに書いてある座席に座り、飛行機の離陸りりくを待つ。彼女の席は窓側なので、外の様子を見ながら待っていた。

(……カイロに着いた後は、今度はローマ行きの飛行機にこうやって乗る。そのあとはロンドンに行って、最後にニューヨーク。一体、全部で何日かかるのかしら)

 狭い機内で、エリーは大きなため息をついた。

 全ての乗客が搭乗して少し経つと飛行機のエンジンが動きだし、ドルンドルンと音を立てながら両翼りょうよくの付け根付近ふきんにあるプロペラが回りだした。

 プロペラの近くにいるエリーは驚いて「うわっ!」と大きな声をあげた。さらに、それからすぐプロペラが回ったことによって起きた風で排気ガスの匂いが機内に入り込んで来る。

 けむたがって鼻をつまむエリー。しかし、他の乗客の多くは匂いを気にしていないように見えた。飛行機の匂いに慣れているのか、それともこの香りを良いと感じたのかは誰にもわからない。

 こうして、飛行機は動き出した。一人の少女を、まだ見ぬ世界へと連れていくように。

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