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 それから三週間、途中で食事や休憩を挟みながらもオムが運転する車は北へと進んでいった。

 途中、インドの独立後もポルトガル領であったダマン付近でくだんの製薬会社に関する噂を耳にし、それによると親会社の捜査に遅れが出ているということだった。

 親会社が非道な実験を命令している可能性がある以上、デリーに行っても安心出来るわけではない。そこで、オムは『私の、仲間がいる、ところへ、行きましょう』と言い、デリーより北にある彼の仲間の住むところに行くことにした。

 誰しも被害者にはなりたくない。だから、人は迫りくる害から逃げようとする。だが、それがさらなる害をおよぼすことになるとしたらどうだろうか。

 害を受けるのは何も身体だけのものではない。人は心も害に晒され、傷つくことも多くある。

 は知らなかった。オムが連れて行く先、何処どこだかまだわからないような場所で何が起こるのかを。


 到着した場所は、高い山に囲まれた小さな村だ。空気は非常にんでいるが、人によっては呼吸がしづらく感じてしまうくらいには空気が薄い。それだけ標高ひょうこうが高い場所に三人は来たのだろう。

「さあ、ここが、エリーさんが、今日から、避難する場所です。私が軍にいたころの、仲間が、すぐそこの家に、住んでいます」

 三人は車のドアを開けて、外に出る。エリーはそこで、周りのおかしな点に気がついた。そこそこ大きな通りで車を停めたはずなのに、人や車がほとんど通っていないのだ。そこで、彼女はある地域の名前を思い出した。

 本当は三日ほど前からこのことには薄々気がついていた。しかし、まだ外に出るまでは確信していなかったのだ。

あの、ここは何処なんですか?一体、ここは何処なんだ?

 エリーが恐る恐るオムに聞いてみるのと同時に、ローレンスもオムにこの場所について質問した。表情から、エリーと同じくここが何処かはなんとなく気がついているのだろう。

「……ここはカシミールだよ。正確に言えば、『イスラム側』との戦場から100㎞ほど離れた村だ」

オムの言葉には区切りや訛りはない。口を閉じると、二人に背を向けていたオムは後ろへ振り返った。

「どういうつもりだ、オム」

ローレンスはかなり嫌な予感がしていた。もしパキスタンの軍勢がこちらまで攻め込んで来たら、三人まとめて死んでしまうかもしれない。

確かに研究所の追手おってが来ない場所ではあるが、少し北の方まで行けばそこは戦場になっているような場所だ。そんなところでは、命の危険にさらされることには全く変わらないだろう。


「二人とも安心してください。忘れたんですか? 三十年前に現れた龍人が持っていた、あのとてつもない力を。特にローレンスさんはその歳だから、当時の情報を生で新聞だので見ていてもおかしくないはず」

第一次世界大戦中のドイツ帝国、現在ではポーランド領になっている場所に存在したとある収容所での出来事。ロシアの捕虜の一人が偶然龍のような姿に変身し、その力で収容所の半分を更地さらちにしたのだ。

では、その力を今ここにいるエリーも持っているとしたらどうだろう。そこにいるだけで敵側の抑止力となり、彼女やその周りに危害が及ぶ可能性が減るとオムは考えているとローレンスは解釈かいしゃくした。

だが、エリーにはそれが分からないし、連想することもできない。

そんな彼女にとってはただただ怖かった。目の前にいる、オム・アミンという男が。

「なるほど、それなら安心だ。ところで、オムはどこで龍人について知ったんだ?」

「ドイツの医大に居た頃、偶然話に聞いたんだ。まあ、それからしばらく忘れてたんだけど、この前のエリーさんの検査に偶然あの病院で立ち会って思い出したって感じですね」

エリーは二人の話に入ることができなかった。彼女は龍人について元々知っていたわけでも、医学や歴史などの学問にくわしいわけでもない。それどころか彼女は学校教育を受けたことがほとんどなく、これまでやった勉強らしいことと言えば読み書きや計算を両親から教わったくらいのものだ。


「さあ、いろいろな話は後にして。早速さっそく中に入らせていただきましょう。」オムは『仲間』の家のドアを叩き、「私だ、オム・アミンだ。ドア開けて中に入れてくれ」と中にいる誰かに頼んだ。

するとすぐに家のドアが開く。中から出てきたのは背が低く、オムと同じような迷彩服と頭にはターバンを巻いた男。手元をよく見ると、ハンドガンを手ににぎりこちらに向けていた。

「あ、本当にオムか、良かった……。最初に見えたのがよくわからん爺さんだったから、てっきりのスパイかと思ったぜ……。悪いな、銃向けたりして」

男はオムの顔を確認するとドアを全開にして、靴箱の上にハンドガンを置いて警戒を解く。手は手汗で濡れており、彼がいきなりの来客に驚いたことがよくわかる。

「紹介しよう。この二人はある研究所から逃げてここまで来た医者と子供だ。医者の方はローレンス・トレヴァー、もう一人の女の子はエリー・ヴァルマだ。悪いが、二人をかくまってやっちゃくれねえか」

オムは砕けた口調で来客者について説明する。

「ああ、大丈夫。メシも買い溜めしてあっから四人でも食ってけるし、ヤバくなったら保存食ほぞんしょく食っちまえば何とかなっから」

男はローレンスとエリーの保護に同意した。その後は最初にオムが家に上がり、次に複雑な心境であるエリーが重い足を前に進める。最後にローレンスが家に上がる......と思われたが、彼は一歩も前に進まなかった。

「親切にしてくれるところ悪いが、私はヒッチハイクかなにかでムンバイまで帰らせてもらうことにする。このままだと院長である私が一カ月以上病院にいないということになって、いろいろと問題になりかねん。研究所の連中については、警察と協力して向こうはなんとかしよう」

「……そうか、そりゃ仕方ねえ。オレとしては人数が多い方が良かったんだが……。仕事あって帰る必要があるってんなら帰っちまって大丈夫だ」

家主がそう口にした後、ローレンスは黙って家のドアを閉めた。

「じゃあ、エリーさん。あなたはここにいたほうがいいだろう。君の力は研究者が何が何でも調べようとしてくるから、ここは都市よりもかなり安全と言えるだろう」

何のことだ、と質問してくる家主に、オムは耳元に口を近づけて小声で説明する。エリーはこの時も、この土地の安全性をなんとなく疑問視していた。

こうしてエリーは、オムたちと共にカシミール地方での危なげな生活が始まろうとしていた。

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