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 五時間もの時が経った。

 その間の時間は、まず洗濯板せんたくいたとたらいだけで、機械をほとんど使わない洗濯によってついやされた。水汲みに行くときにエリーが着ていた服まで洗濯物に追加されたので、余計に時間がかかってしまった。

 洗濯の後は少し早めの食事だ。インドの食事といえばカレーやナンだが、この日はそのどちらでもなく、イモと干し肉と野菜だった。

 この二つによってそこそこ時間が取られ、そのうえ車だったとはいえ百キロもの道を何時間もかけて進んだ結果、こんなにも時間がかかってしまった。

 今、ヴァルマ親子がいるのは大都市ムンバイ。二人の住む農村とは比べ物にならないほど発展しており、インド系の住民だけでなくエリーのようなイギリスもしくはそのハーフもちらほら見られる。

 エリーに起こった怪現象『翼と尾が生え、まるで龍のようになってしまう』というものの原因を調べるために、二人はムンバイにある大病院へと向かっている。診察費用は高くつくが、母は謎の現象について調べるために出費を覚悟で娘を病院まで連れて行っている。


「ここが病院の病院ね。エリー、降りるわよ」

 病院の駐車場ちゅうしゃじょうまで着くと、母はエリーに降車をうながす。ムンバイの市内も道路に砂や泥があって汚い場所があったが、病院の敷地しきち内にはそんな雰囲気ふんいきはなかった。

 エリーは来たことがないような大都会に興味深々だ。車から降りてあちこち見回すエリーは、母に肩をポンと軽く叩かれるとそちらの方を向く。そのまま母に連れられ、エリーは病院の内部へと入っていった。

 病院内は外よりもさらに綺麗きれいに掃除されており、二人の住む農村と比べればまさに別世界のようである。

 英語とヒンディー語、さらにはフランス語まで併記へいきされた院内の看板を頼りに、二人は緊急外来のカウンターまで行く。


 緊急外来の受付を終え、エリーより先に待合室にいる何人かの患者かんじゃ診察しんさつ室に入ると、いよいよエリーが診察を受ける番になった。

「次、エリー、ヴァルマさん、三番診察室へお入りください」

 医師のアナウンスと同時に、エリーとその母は椅子から立つ。診察室に入ると、そこには四十代くらいのメガネをかけた女医が待っていた。

「へ、こんにちは」エリーは女医から見て正面にある椅子に座り、母はその横にある椅子に座る。「エリーちゃん、一体どげん症状でこちらまで?」

 女医はインドなまりが入った英語で二人に質問をする。イギリス本国の英語とほぼ同じような言葉で会話をするエリーには、女医の訛りはすこし聞き取りづらいものだった。

「実は……」エリーが説明をしようとすると、女医は急にエリーの右腕を握ってきて、「言わなくてもゆわんでんわかった。エリーちゃん、アブに刺されて病気が入ったかもしれんのじゃろ?」

 女医が言ったことは、エリーの腕を見ればそう思うのは必然のことだろう。だが、エリーの方は急に割り込まれ、若干不機嫌になる。

「いえ、そうじゃないわ。信じられないかもしれないけど、聞いてくれないかしら」

 女医はエリーの腕から手を離す。深刻そうな顔をして症状を説明しようとする患者の言うことを聞き、解決のためにやれることをするという意思のあらわれだろう。

「実は、今日アブに襲われたことは間違いじゃないわ。だけどもっと驚いたのは、、ってことなの」


 女医は固まった。

 別に信じていないわけではない。ただ、過去に起きたある事案を思い出しただけだ。

「ねえ、こげん話を聞いたこっがあっかしら?」

 女医が思い出した事案。それは一九一七年にドイツの捕虜収容所ほりょしゅうようじょで実際に起こり、写真に収められた事件。収容されていた連合側の捕虜がほとんど脱走し、収容所の半分が何かによって吹き飛ばされたという奇妙な事件だ。

 事件後、ロシア人のある男が帝政崩壊後の臨時りんじ政府およびロシアの大手新聞社に取材を要求して、そこで自分が姿であると語る。さらに自分が収容所を吹き飛ばしたことを告白し、実際に龍のような姿になれるという証拠写真まで撮ったのだ。

 その後十月革命の時に寝室にいるところを銃で撃たれて殺され、その男は殺害された。死後は『龍人』という仮称かしょうが付けられ、彼の口から語られなかった形態変化の方法が各国で研究されるようになった、という話だ。

 エリーは当然、そんな話は聞いたことがなかった。母もその事件について知っている様子はない。

しかしじゃっどん、なんちゅうこっじゃろう。2年前までん大戦争ん時にはあちこちいっぺこっぺ探されちょったみてだけどだじゃっどん、まさかそいが終わった後に見つかっだなんて」

 第二次世界大戦の時には世界中で『龍人』と呼ばれる存在が捜索、または研究がされていたが、戦争終結からほぼ二年後にエリーと呼ばれる新たな龍人らしき者が見つかったのだ。


「つまり、私がその龍人かもしれないんですか?」

 エリーの頭の中の疑問はさらに増える。もし自身に収容所を吹き飛ばしてしまうほどの力があるとなれば、それを知ってしまった自分は今後どうやって生きていけばいいのだろうか、また自分の今後はどうなるのか。

 不確定な状態では、彼女の疑問が晴れることはないだろう。

「うん、そうやなあ。ところでエリーちゃん、そん状態にもう一度まいっどなっことはできるしきっかな?」

 エリーは立ち上がり、それ龍人になったであろう時の状況を思い出す。

 アブの群れに襲われ、身体の後ろ側を刺され、その後大泣きしたことまでは思い出せる。これ以上覚えていることはないので、その時の状況をできるだけ再現してみることにした。

 幸か不幸か、アブに刺された跡や痛痒い感覚は残っている。あとは泣くだけだが、この場で自分が泣くような状況を作れるようなシチュエーションが思いつかない。

 エリーは泣く代わりに大きな声を出してみることにした。

「わああああああああああっ、あああ、はああああああっ!」

 明らかに病院で出してはいけないような音量で叫んだエリー。

 声とともに身体に力が入ったその瞬間、彼女は再び龍のような姿に変貌へんぼうした。


「お、おお、やっぱいエリーちゃんな龍人やったんじゃ……。こりゃ大変なことじゃな……」

 女医は目を丸くしてエリーの方を見る。まるで、初めて龍の姿になったエリーを見た母親のような表情になっていた。

 すぐに診察室の扉が開いた。入ってきたのは別の若い女医で、何やら怒っているようだった。

「院内で大声を出すのはおやめください」そう早口で言う若い女医の視界に、翼と尾が生えた龍人エリーが入る。

「ひゃああああああっ! 院長、いんちょー!」

 若い女医は驚き、エリーが龍の姿になるときよりさらに大きく、さらに甲高かんだかい声で叫びながら部屋を出て行った。その声を近くで聞いたエリーとその母は、思わず耳を塞いでしまった。

「まったく、大声を出しちょるんなどっちじゃ」女医は小声で呟く。「そいで、君はこん先どうすっべきなんかしら」

 医者であるが結論は出ない。龍人の再発見については、女医の持つ知識や権限ではどうにかできる限界を超えていた。

「私は……できれば家に帰れるようにしてほしいです」

 エリーは自分の希望を素直に伝えた。ここでこう言わなければ、もしかしたら二度と帰れないかもしれない。その危機感が、彼女にそれを言わせたのかもしれない。

 本来、水を汲みに行って戻る、ただそれだけだったはずの場所へ。

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