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 一九四七年九月下旬、インドがネルーやガンディーなどの活躍により独立してから一ヶ月程しか経っていないこの日の朝。インド西部の都市ムンバイの近くにある農村に住む十三歳の少女『エリー・ヴァルマ』は、親の農作業を手伝うため、日曜の朝から家の外に出ていた。

「エリー、今日はまず水みに行ってきてくれないかしら?」

 後ろに振り返り、わかったとエリーは答える。父に代わり、母とエリーが仕事を行っていた。

 水を組むと言ってもヴァルマ家に井戸や水道はない。家にある薄汚れた桶で近くのみずうみから水をとってきて、それを農作業やら調理やらに使う。飲み水に使うためには煮沸しゃふつが必要で、そのまま飲んでしまえばお腹を壊すのは間違い無いだろう。大都会ムンバイから百キロもはなれていないところであるのにも関わらず、生活に必要なインフラが整っていないのだ。

 桶を持って湖へと出発したエリーは、父親譲りの金色で、母親と同じような長い髪を風になびかせながらそのまま湖への道を進む。

 森の小道を通り十分ほど進むと、そこには小さな湖があった。ただ小さいと言っても、村の三つや四つの水事情は支えられるくらいの大きさはあった。

(それにしても暑いわね、小さい頃からこうだから慣れたものなんだけど)

 インドは一年を通して暑い。さらに雨季であるため非常に湿っており、身体が感じる不快感はかなりのものになる。この日は雨が降っていないが、前日には大雨が降っており道にも水溜りがあった。

 エリーは水を桶ですくうと、再び元来た道を進んで家へと戻る。水がなみなみと入った桶は女の子にとっては非常に重く、途中で何度も落としそうになりながら進んでいた。


 その時、森の小道に飛ぶアブの群れが、エリーの血を吸おうと飛んできた。

「きゃっ! な、何よこれ!」

 大量の虫が迫ってくる恐怖きょうふからか、エリーは思わず桶を落とす。

 その時、エリーは虫除けをつけていないことを思い出す。チューブに入った初期タイプの虫除けだったが、そこそこの効能があったおかげかこれまでエリーが大量のアブにおそわれるようなことはなかった。

 なんとか逃げようとエリーは必死になって走るが、彼女がこの時いていたのは足首くらいまで丈があるロングスカート。まともに走ることが出来ず、少し走ったところで転んでしまった。

 アブは容赦なくエリーの身体に向かってくる。肌を露出した腕や首だけでなく、インドの厳しい暑さを避けるために生地が薄くなっている背中や脚にもアブはたかってきて血を吸った。


 しばらくするとアブはその場から消えた。だが、アブが消えたところでエリーの血を吸った時の痛みや痒みが消えることはない。

 エリーはその場から立ち上がると、途端とたんに泣き出してしまった。

「うっ、うっ、うわああああああああああああああん! ひうっ、ふっ、うっ、はああああっ、ゔぁあああああああああああああああ!」

 その時、

 突然のだ。

 翼の大きさは手を広げればひじあたりに来るほどで、形状は蝙蝠こうもりに似ており、どこか龍を思わせる。

 尾は太さが彼女の細い腕と同じくらいで、長さはおよそ五十センチから六十センチほどだ。毛はなく形状は爬虫類はちゅうるいを思わせるもので、色は灰色だった。

 そんな変化をしたことにエリーは気がついておらず、しばらく泣いた後で落とした桶を拾い家の方へ再び足を進める。桶は垂直に落ちたので水はほとんどこぼれていなかったが、なぜかその桶から重さは感じなかった。


 エリーは重さを感じないのを『自分が桶を壊した』と思い込み、母になんと言おうか考える。

(そう、あのアブが悪いのよ。あんなに人にまとわりついて、血を吸って……。桶だって壊れちゃったし)

 彼女の脳内は自分を刺したアブの群れへの恨み節と桶を壊したことの言い訳を考えるのでいっぱいだった。

 エリーはしばらく歩き、家に到着するとしばらくドアの前にとどまった。すると、エリーが手を触れていないドアが開き、その奥では母が家の外に出ようとしていた。

 ドアが完全に開き、母の目には娘の明らかに異常な姿が見えた。

 当然、母は困惑した。家を出たところには腕がアブに刺され、もともと白で統一されていたはずの服を泥で汚されているだけでなく、知らぬ間に翼と尾を生やした自分の娘が涙目なみだめで立っていたのだ。

 きゃあああああ、と叫び声がはなたれる。エリーの方を指差し、仰天ぎょうてんした母は目を丸くしている。

 だがエリーにとってはなぜ自分の母がそこまでおどろいた様子になっているのかがわからない。むしろ「お母さん、どうしたのよ?」と逆に驚いてしまう。


「あ、あんた、自分が今どんな姿すがたかわからないの!」

 母の大きな声に、エリーは身体をビクッとさせる。

「そんな大声出さないでよ、確かに泥だらけだけど」

「泥だらけとかそういうのじゃなくて、なんであんたには変な羽と尻尾しっぽが生えてるのよ!」

 えっ、と声が出る。エリーは桶から手を離して腰の後ろを手で探ってみる。そこには、自分にあるはずのないがあった。

「何よ……。何かある、私のお尻の上あたりに」

 エリーが自分についている尻尾に手を触れてみると、何やら背中におかしな感覚がする。

 彼女の翼だ。自分には翼まで生えていることがわかったエリーは、自分の頭がおかしくなったのではないかと思った。困惑して「えっ?」だったり「何よ?」だったり驚いたような声が何度も口から漏れ出る。

「一回病院に行った方がいいのかしら? ムンバイまで行けば何があったかわかるかしら、それとも……」

 母は慌てた様子でエリーの対処を考える。だが、どう考えても翼や尾が生えるなどという状況は異常いじょうであり、普通の病院がどうにか出来るようなものではない。


 エリーは一度落ち着いて状況を整理しようと、深呼吸をする。

 大きく息を吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。

「エリー、一回ムンバイの大きな病院に行ってみましょう。何かわかるかもしれないし、もし病気だったら治せるかもしれないわ……よ……?」

 母が再びエリーの方を見る。そこには、さっきまであったはずの翼や尾を持たない、ただ服を泥で汚しただけのエリーが立っていた。

「ええ、やっぱりその方がいいわ。私が今どうなっているか、出来るだけ知りたいわ」エリーがそう言うと母がすぐ「無くなってるわよ、翼も尻尾も」と返す。

 意味がわからなかった。もともと無いはずの翼や尾が生えたと思ったら、今度は無くなっていると母は言う。

 エリーの脳内は混乱していた。自分は夢の中にでもいるのでは無いかとも感じた。


「まあ、とりあえずおうちに入りなさい。それに、水を汲みに行ってくれたんでしょ? 洗濯せんたくで使うし、中に入れて頂戴ちょうだい

 母の言葉で、一瞬エリーが我に帰る。それと同時に、エリーは桶を壊したことを思い出した。

「そのことなんだけど……。実は桶を壊し」エリーが桶を持つと、元どおりの重さに戻っている。「ちゃてええ?」

 エリーは体勢を崩しそうになるが、驚きで震える手でなんとか持ち直す。そのまま家に入り、玄関に水桶を置いた。

「壊れてないわよ、変ねえ」母はエリーが置いた桶を持って、家の奥へ行ってしまった。

「結局、あれはなんだったのかしら」

 エリーは自分が龍と人が混ざったような姿になったことが頭の中から離れない。そして、水が入った桶を持っても重さをほぼ感じず、桶が壊れて水が漏れたと勘違かんちがいをするほど軽々と持ってしまう。

(やっぱり、後でお母さんと一緒にムンバイの病院に行ってみましょう)

 この日、エリーは自分自身の謎に初めて向き合うことになった。

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