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 時刻は一時半を回り、その後二人はサルンの家の裏手にある家畜かちくの飼育場へ向かった。仕事の前に、ノワールはその長い髪をヘアゴムでまとめて帽子を被った。

 飼育場は都市部ではとても経験しないような独特なけもの臭さで満たされており、慣れていない者にとっては決していいところとは言えないような場所だろう。

 モーモーと鳴く牛の毛は一般的にイメージされる白と黒ではなく茶色だ。サルンの家は野菜とジャージー牛乳、豚肉で生計を立てているらしく、牛が逃げないように立てている柵にはそれらを売った時の領収書らしきものが何故なぜか貼り付けてあった。

「んじゃ、早速さっそくだけんどまずここの掃除そうじからだ。このモップさ使って、牛のフンやなんかを片付けてくんろ」

 動物の鳴き声が聞こえる中、サルンはそう言ってノワールに古びたモップを渡す。ノワールは「あ、はい」と言ってそのまま作業を開始した。

 ノワールはこういった仕事も経験している。なので周りのにおいや雰囲気などに抵抗はあまり感じず、作業もれているとはあまり言えないもののやる事はおおよそ見当がついている。


 ノワールがモップがけをしている間、サルンが牛のエサやりや水分補給をする。

 牛には一匹づつ名前がついているらしく、サルンがいる方からは「エリックー!」だったり「スーザンー!」だったりと名前を呼んでいる声が聞こえた。

 モップがけが終わると、ノワールは子牛に授乳をする仕事を任された。サルンから牛乳が満タンまで入った大きな哺乳瓶ほにゅうびんを渡されたノワールは、大人の牛とは一メートル少しの高さの柵で区切くぎられた子牛の飼育場に入る。

(うわ、これすっごい重いよ……)

 抱えるようにして持たれている哺乳瓶の口に向かって、茶色の毛で覆われた子牛が一斉に向かってくる。

 サルンが同じような哺乳瓶を持って入ってくると、一部の子牛はそちらへと進む方向を変えた。

 一匹の子牛が口を咥えると哺乳瓶は強い力で引っ張られる。ノワールはそれを小柄かつ細い身体で必死で抑えていた。


「やっばい、哺乳瓶が、哺乳瓶があ!」

「ンハハ、牛ってもんは力が強いけ、力入れねえと持ってかれるべ」

 サルンはノワールとは正反対の一九〇センチは超えるような大柄で尚且なおかつ筋肉質な身体のおかげか、牛に引っ張られる哺乳瓶を必死に抑えているような様子ようすはあまり見られない。

 一匹目の授乳が終わったら次の一匹、それが終わればまた次と授乳を進めていくサルンに対し、ノワールは重さや牛の力でフラフラしながら作業を進めていた。

(あれ、僕って役に立ってるのかな?)

 一瞬自分の貢献こうけんにノワールは疑問を持ったが、そのままここから去ってしまえば給料がゼロになるだけでなく、今日タダで夕食を食べることができないのでそのまま作業を継続することにした。


 それからも、二人の仕事は続いた。

 牛たちを北の方、ノワールが集落にやってきた方面にある草原にしばらく放牧をしに行き、次に牛の飼育場の隣にある豚の飼育場で世話をし、最後は午前にもやったような畑への水やりをした。

 何時間も続く実に大変な仕事だった。さらに突然牛同士が睨みあったり、豚のエサが無くなって急いでサルンが隣の集落まで成金みたいな高級車で買いに行っていたり、水やりの時には隣の家で飼っている牛がサルンの帽子を食べようとしたりとハプニングもあった。

 時刻は四時五十分。サルンが観ようとしているドキュメンタリーが始まるまではあと十分だ。

「ノワールさ、もう今日の仕事さ終わりだべ、はよオラの家に戻ってけろ!」

 はーい、と一言ひとこと返事をして、ノワールは今持っている桶とひしゃくを持ち、サルンの家のドアを開けた。


 ノワールはこの日、午前は十時から二時間半、休憩を挟んで午後は三時間半ほど仕事をしていた。

 デスクワークが多い都会の人間の感覚からしてみれば六時間労働というのはかなりホワイトに思えるが、この日やった事はいわゆる肉体労働がほとんどだ。それ故に、ノワールの疲労はおそらくデスクワークを八時間フルタイムでやるより大きく上回っているだろう。

 ノワールはサルンの家に上がるとすぐに「ふぃー、疲れたー」と声を漏らす。桶とひしゃくを玄関に置き、そのまま食卓に座ろうとした。

 だが、サルンはこの『食卓兼作業部屋』では足を止めず、奥にあるドアの方へまっすぐ向かっていた。ノワールはそれを見て、椅子いすを持つ手を離てし急いでサルンに付いて行った。


 家の中からする音はカタカタと足音が聞こえだけだ。外から家畜の鳴き声はあまり聞こえてこないが、代わりに家の外から老人らしき2人の会話が聞こえていた。

「ここはもう捨てるしかないかも知れねえだ、わけもんが誰一人としていねえべな」

 口調や声の高さから、深刻しんこくさが伝わってくるようだ。ノワールは一旦足を止め、老人の話を聞こうとした。

「そんな、んならオラたちの畑はどうなるんだべ。まさか売っちまうんじゃねえべな」

「んなこたしねえだよ、それに隣にいる村長そんちょうさあがいい策を考えてくれてるだし、捨てると言っても十年は先の話だべ」

「だけんども……」

 ノワールは再び足を進め、奥の部屋のドアを開けて中に入る。

 ノワールには彼らの助けになる事はできない。この集落に住もうにも、元の住所がなければ住民票じゅうみんひょうを移す事は出来ないし、ここで定職につくこともできない。

 それに、こういった事例は他の集落でも見たことがある。実際に廃墟はいきょのようになっていて、誰も住んでいない場所だって見たことがある。

 それらを助ける事は、彼には到底できないだろう。

 ウェールズは昔の古城が有名で、大きな観光資源になっている。だが、都市部以外では泊まる場所が整備されていなかったりするので、農村部の支援にはなっていない。

 果たして、限界に近づく集落がこのような状況から救われることはあるのだろうか。せめて、ノワールがいるこの集落だけでも。

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