2

 ノワールとサルンが畑で働き始めて、二時間ほど時が経った。

 ノワールは大きな畑の大部分に水をやり終え、サルンも順調に雑草を抜いている。八月下旬と言っても日本のような厳しい暑さはなくある程度過ごしやすい気候であることも影響してか、二人に大きな体調の変化や疲れなどは見られない。


 正午しょうご近くになり、太陽が真南に向かう頃、道のすぐそばで作業をしていたノワールは道を誰かが歩いているのを見た。

 この集落では人通りが非常に少なく、誰かが道を通ることがほとんどないので、人が歩いているとすぐわかる。

 道を歩いていたのは、オールバックの中年男性だった。服装や風貌には二人と違って清潔感せいけつかんがあり、白っぽい服にも関わらず目に見える範囲はんいに汚れは見られなかった。

 ノワールが集落の雰囲気に似合わないその格好かっこうを妙に思って見ていると、サルンが男の方を向いて「スパルさあでねえか、久しぶりだあな」と声をかける。

「あ、サルンさんですか。こちらこそお久しぶりです、お元気ですか?」

 スパルはサルンとは違い、言葉づかいに訛りがない。

 自分より大柄な男相手にも堂々と丁寧ていねいに話すスパルからは、何やら大物らしい雰囲気を感じさせられた。


「大丈夫だ、オラは今も昔も元気だべ」

「あの、このスパルっていう人は一体どういう人なんですか?」

 ノワールはスパルについて、サルンに質問した。

「こん人はうちのオサ、まあ長老みたいなモンだ。村長とはまた違うんだけんども、ここじゃ大事な仕事だべ」

「いやー、どうも」スパルは一度お辞儀じぎをし、「ところで、こちらの女性……いや、男性かな? こちらの方は一体どなたでしょう?」

 スパルには女のように髪が長く、欧米人の男にしては小柄なノワールが男か女かわからなかった。ノワールは表情を変えずに淡々と「ノワールです、あと僕は男です。このヒゲ見ればわかるでしょう」と答える。

 だが、心の内では自分の小柄さを気にしており、また男には見えないような髪の長さについても(日当を手に入れた後で床屋とこやを探して、いい加減切ってしまおう)と心に決めた。


「あ、すみません。それで、今日はサルンさんのお手伝いに?」

 スパルの問いに、ノワールは「はい」と答える。そして彼はそのまま作業に戻り、畑を水で潤した。ただ、作業をしている間ノワールは(明日には床屋を探そう)と考えていた。

「いやー、オラはこの時期忙しくてたまんねえだ。今日はあん人が来てくれて本当にありがたいだあよ」

 その瞬間、ノワールの手に握られていた柄杓ひしゃくから意図いとしない方向へ水が飛んでいった。水の進む方向には、ちょうどスパルの顔があった。

 サルンは飛んできた水を見た瞬間しゅんかん「あ」と声を漏らす。そのまま風で少し形を変えた水のかたまりは直進し、スパルの顔の側面に直撃した。


(やっちゃった……)

「……す、すみません、ちょっと不注意で」

 ノワールは振り向き、頭を下げる。水がかかったスパルは一瞬驚いたが、すぐに「いえいえ、大丈夫です」と言ってズボンのポケットからハンカチを出し顔を拭いた。

「水やりするときにゃ手元とくところさ見なきゃいけねえだ、なんか別のこととか考えてたりとかしてちゃ時々ときどきこうなるだよ」

 床屋に行くことを考えながら水やりをしていたノワールは、若干じゃっかんではあるが注意力がけていた。

 それを自覚したノワールはもう一度「すみません」と言い頭を下げて、それからまた作業に戻ろうとした。


「あ、あの、ちょっといいですか?」スパルは畑に戻ろうとするノワールに声をかけ、「そういえばどこかで貴方あなたと似たような人を見た気がするんですがどこかで……あれ? やっぱり私の名前を知らないみたいだし、知らない人かな?」

 スパルは、声をかけようとした。ただ、自分の顔や名前を知らない彼をそのとは別人と判断し、質問をやめた。

 ただ、ノワールにとってその質問は何かが引っかかった。もしかしたら、スパルは何か自分について知っているのかもしれない。そう思い、ノワールはおけを地面に置いて道にいるスパルの方を見る。

「えと、もしかして僕と会ったことありましたか?」

「いや、知り合いとかなら一応覚えているはず……。もしかしたら貴方、多分前にもこの集落に来たことがあって、それで案内とかを頼んだんじゃ?」


 ノワールが自分の顔を見た覚えがないことは、少し話しただけではないか。そうスパルは考えた。例えるなら少し遠くの、あまり行かないようなコンビニに行ったあとにその店員さんの顔をすぐ忘れてしまうのと同じようなことだろう、と。

「なるほどです」ノワールもそれに納得なっとくする。彼は自分が何者かを知りたいあまり、突拍子とっぴょうしもない間違いにたどり着くことを防ぐため、とりあえず不正確ふせいかくな情報は取り除いたのだ。

「では、私はこれで。サルンさん、これからもお元気で!」

スパルは話を切り上げ、道をふたたび進む。ノワールは再び桶を持ち、二人とも自分の仕事に戻った。


仕事に戻ってしばらくすると、突然サルンのお腹がった。サルンは雑草取りをやめ、「おーい」とノワールに声をかけた。

昼飯ひるめしにするけ、おめえも切り上げて戻ってくんべ。雑草取りも大分でえぶ終わっだし、そっちの水やりも何周かしてるみだいだしな」

ノワールはその知らせを聞き、急いで家に戻るサルンについていく。

(やったあ! 最近あんまり食べてないし、久々ひさびさにがっつりめし食おう!)

ノワールは昼食で何が出てくるのかを楽しみにしながらサルンの後ろを歩く。サルンの家らしき古びた家の前で、ノワールは水の入った桶を置こうとした。

「あ、そいつは家の前じゃなくて中に置いてけれ」

ノワールがまた桶を元の高さまで持ち上げたのと同時に、サルンは自宅のドアを開けた。ドアからは開くときに古いドア特有の音が鳴ったが、二人はそれを気にせず家に入る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る