ファンタジック・リアル

れあるん

第一章 少しばかり不思議な世界

第一話 放浪者ノワール

「やっぱり自給自足じゃ生きていけないし……。ここで泊めてくれる人探すしかないかな」

 浮浪者ふろうしゃのような服装の二十一歳の青年が、とある集落にやって来た。

 青年は女のように髪が長く、伸びたままの無精髭ぶしょうひげを持ち、手足は砂や泥が付着し非常に不潔ふけつに見える。これらのせいで、青年の容貌ようぼうはとても二十一歳には見えなかった。


 時は二〇一六年八月下旬、場所はイギリスのウェールズ中部。二つの大きな国立公園に挟まれたその場所は、草原と丘だけで構成されているかのような開けた場所。ときどき森も見られるが、間隔は開けておりあたり一面が草色であるという場合が多い。

 集落や村は珍しく、都市となるとさらに数が少ない。大きな畑があるおかげで人のいる場所がわかることもあるが、手がかりがない場合は自分の感覚で覚えるしかない。畑以外の手がかりといえば、放牧ほうぼくされた家畜くらいのものだろう。

 そんな解放感に満ちた場所の中、そこにはこの辺りにしては珍しく森と畑に囲まれた集落がある。

 明らかにボロボロで不潔な服を着たノワールは、眠たげな顔をしながら集落に入っていく。


 だが、ノワールはなぜ浮浪者のような格好で、自給自足をしたり集落を転々としたりする放浪ほうろう生活を送っているのだろうか。

 彼もはっきりとした理由はわかっていない。しかし、ひとつだけわかるのは数年前にどこかしらで頭を打ってからそれ以前の記憶を持っていないということだ。自分の家や職業もわからない。ノワールという名前すら、とりあえずで名乗っているだけの仮名にせものに過ぎない。

 そんな状態で国による公的サービスなどを受けることはできないし、正社員せいしゃいんとして働くこともできない。できることといえば、身分証みぶんしょうを持たずしてできることだけだ。ある程度の生活をするために必要な収入を得るのにも、身分証がなくても日雇いで雇ってもらえるような場所を自分で探さなくてはいけないのだ。


 石系の建材で作られた家が多いヨーロッパの中では珍しく、そこには木をメインに建てられた家がほとんどを占めていた。

 集落と言うだけあり、家の数は五十を切るほど少ない。牧場やサイロがあるのを見るに、ここでも他の集落と同様に農業、牧畜によって生活をしているのだろうか。

 ノワールはまず、仕事をさせてもらえるような場所を探す。


 ただし、ノワールには一つ問題があった。それは言うまでもなく、彼自身の見た目である。

 女のように髪が長く、伸びたままの無精髭ぶしょうひげを持ち、手足には砂や泥が付着し非常に不潔ふけつに見える彼をやとうような者が果たしてこの小さな集落には居るのだろうか。

 そんな不安が一瞬頭に浮かんできていたノワールは、集落にある大きな畑の前でT字に分かれた小道を右に曲がり、少し進んだ場所で井戸水を汲んでいる農民に「すみません」と声をかけた。

 農民は六十代前半ほどで大柄、白髪しらが混じりの黒っぽい髪を持ち、がっちりした体つきが特徴的であった。また、頭には日除けのためにか麦わら帽子をかぶっていた。


「んだんだ、おめえさ、一体いってえなんの用さあってオラに話しかけて来たんだべ?」

 話しかけてきたノワールに対し、強い訛りのある口調で用を聞く農民。

「あ、あの……。今僕は日雇いできるところを探してて……。もしよかったら、そちらの畑のお手伝いをさせていただきたいと思いました」

 ノワールは一瞬戸惑いかけたが、すぐに気を取り直し農民の問いに答える。

「うーん、わかっだ。だがオラんとこはこん通り機械ばあんまし使ってねえし、日当にっとうもあんまし出しちゃやれねえけんど、そんでも大丈夫でえじょうぶけ?」

 ノワールは静かにうなずいた。手作業の肉体労働は自身のトレーニングにもなり、低所得ていしょとくでの生活は記憶を失ってから長いこと続けているのであまり彼にとって苦にはなっていないからだ。

 何よりノワールにとって労働とは、自分の放浪生活の中の一種の暇つぶしやトレーニングになっている。多少環境は悪くても、彼の頭の中にやらないという選択肢せんたくしはない。

「そか、わがった。んならまずはあん畑に水さやってくんねえだか? オラまだ取り切れでねえ雑草ざっそうさ畑にたぐさん残ってんで、それさ抜がにゃいがんのだべ」

 そう言うと、農民は柄杓ひしゃくと水の入った木の桶を一つノワールに渡す。ノワールが桶を持った時、その重さでバランスを崩して彼はあやうく転びそうになってしまった。

「お、おめえ、大丈夫け? 体もけっこう小柄こがらだし、本当に畑仕事できるんだべな?」

「だ、大丈夫です」


 ノワールの体型は目の前にいる男とは違い、他の人と比べるとあまり大きい方ではない。身長は一七〇センチほどで欧米人おうべいじんの男性にしては小さく、さらに長い放浪生活によってその身体はかなり細身になっている。

 農民からしてみても、自分より二十センチ程小さく体型も明らかにガリガリの若者に力仕事を任せるのにはいささか不安を感じさせられた。

 「……無理はすんでねえぞ」農民は右肩を一回転させ、「あと、名前言ってながったな。オラの名前はサルン・オーウェンだ。お前の名前はなんつうんだべ?」

「の、ノワールと言います。……あの、さっそく仕事やってきていいですか?」

 サルンが頷くと、ノワールはすぐに畑に向かった。


「さて、オラも仕事さやんなきゃだあな。オラは時々聞くようなにゃ興味ねえし、やっぱり畑仕事さ一番だべ」

 ノワールが仕事を始めた後、サルンはそうつぶやく。その声が北から吹いてきた風にかき消されてしまった後で、サルンは雑草取りをするために畑へ足を進めた。

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