02.社会人さんたち


上司が異動になった。


問題のある人間だったから仕方がない。

悪人とまでは言えなかったが、常に上から目線で、保険を掛けながら話すような人だったので、親しくしたいと思える人間でもなかった。

常に消極的で自分から何かをしようとせず、それで部下が困ろうが知らん顔、といったありさまで、その他もろもろを社内の相談窓口メール宛に二度、部署や業務内容が合っていないのでは、と愚痴めいたメールを送ったことがある程度には、その仕事ぶりも好きになれなかった。

女子受けも悪かったらしい。目つきが嫌らしいとかなんとか。


こうして異動となったからには「代理人」から相応の評価を受けたということだろう。

胸がすく思いだが、明日は我が身と引き締めていかなければ、私も息子の幼馴染と似た末路をたどる可能性だってあるだろう。


息子の幼馴染の件は、父の立場としてはどうかとも思うが、私にとっても実にタイムリーな出来事ではあった。

息子の気持ちを思えば腹も立つが、私たち親子の反面教師になってくれたこと、またその後の彼らを待つ境遇を考えれば腹立ちは紛れなくもない。

今、息子が友人たちの話を笑顔でしてくれることを嬉しく思う。

だが、家族旅行の行先は京都だ。譲る気はない。


ぽかんと空いた机をちらりと目に入れ、心に浮かんだ感慨と並行して、画面を見つめ、手を動かし、書類データを作成し、メールの文面を考える。

業務量を逆算して、自身のタスク消化は定時に間に合う目途が立ったため、一息を入れて飲み物を買いに席を立った。

定時を過ぎると「代理人」がうるさいのだ。

近くのデスクでは、まだ若い整った顔立ちの後輩(男)が泣きそうな顔で携帯端末で何事かを説明している。

内容は聞こえないふりをしたほうがよさそうだ。



飲み物を買い、気分転換にテラスへ出て外の空気を吸い込む。

私の他にもちらほらと同じように休憩に来ている人たちがいる。

固いベンチに腰を掛け、遠くの山並みを眺めながら飲み物をちびちびやっていると、「隣、いいか?」と別部署の知人から声をかけられた。

異動させられた元上司は、役職を剝奪され、数日前からこの知人の部署へ異動したと聞いた。

彼の部署は社内外の意見調整を担っているため、元上司の人間性ではかなり苦労することだろう。

「代理人」からは成長を期待されているのだろうが、彼の年齢から考えても、その期待に応えられるかは疑問だ。


私の隣に座った知人から、予想を大きく外さない元上司の愚痴をひとしきり聞かされ、「それで結局、何があったんだ?」と質問される。

私は、どこからどこまで話すべきか考えを巡らすために、再び遠い大きな山並みへと目線を戻した。



◆◆◆


彼女の持ち物は非常に立派な山並みであったが、私の腕に押し付けられて形が変わっていた。

暴力的と言ってもよいほど濃密で甘い香水の香り。

掠れた甘い声が耳朶をうつ。

まったく不快ではなく、なにより右半身の感触が素晴らしい。


つい先ほどまで業務計画の会議中であったはずだった。

今回、私が初めてこの会議の担当になったのは、「代理人」から会議担当者を持ち回りにするよう指示があったからだ。

この二週間に一度の会議は、他部署との共同業務で、業務計画の進捗確認とそれに基づく業務分担の見直しを行うものであり、皆がこの指示を訝しがった。

この業務による負荷がなかなかに高いもので、それによる残業も散見されていたので、余計に定時退社に重きをおく「代理人」の指示にしてはおかしいな?と思われていたが、上司が行っていた業務だったのでなんだかんだで誰でもできるだろう(笑)と思われ、「各人の経験の共有と視野の向上を目的として」と「代理人」直々に指示が下れば、否やはなかった。

上司は苦いものでも飲んだ顔つきだった。

「代理人」が口出しをしたということは、上司の指導不足と判断されたということだから当然気持ちよくはないだろう、と考えていた。事実、これに限らずあらゆる面で指導不足であったのは確かだ。

だがどうやらそれだけではなかったらしい。


持ち回りに変わってから初めてとなる、二週間前の会議の担当は後輩だった。

彼は優秀で顔立ちも整っていたので、女子社員に人気があったが、上手に手を抜く上、失敗は他人のせいにする傾向があったため、男性社員からは受けが良くなかった。

ニヤニヤしながら会議から戻った彼は、すぐに上司から呼ばれて何やら打ち合わせをしていたが、後に配布された資料によれば、進捗は順調で業務配分の変更は無いようだった。

上司が最初に配布した資料(二度目以降は口頭で「変更なし」と伝えるだけだった)よりもはるかによくできた分かりやすい資料だったため、誰も疑問は挟まなかった。


そして今日の会議の担当は私だと会議開始の二時間前に上司から連絡があり、内心で悪態をついた。

私を含めた皆が、自分以外の誰かが担当だろうと思って油断していた。

前回の会議担当者だった後輩は「資料とかぶっちゃけいらなかったっすよ。ラクショーっすよ。」と言ってニヤニヤしていた。

アホ上司からの連絡がギリギリなのはよくあることなので今更何も言わず、慌てて最低限の資料を間に合わせて先方へ送信し、会議に臨んだ。

今考えれば、アホ上司に慣らされて何も思わなかったが、先方からも何の返信も、事前連絡も、資料配布も無かったことに違和感を感じてもおかしくなかった。感じたところでどうしようもなかったわけだが。


時間通りに会議室へ赴いたが、誰もおらず、タブレット内の資料を頭にいれながら待っていると、五分ほど遅れて可愛らしい若い女性が「遅れてすいませーん」と甘ったるい声と共に現れた。

先方の担当者はずっと変わっていないらしかったので、若い方が来たのに少し驚いたが、こう見えて優秀なのだろうと思いなおした。

私はできるだけ丁寧に、優しい表情になるように努力しながら、気にしていない旨を伝えた。

彼女は一瞬、虚を突かれたような表情で目を真ん丸に開いたが、すぐに元の愛らしい表情に戻った。

正面に座った彼女は自身のタブレットを操作していたが、「あれえ?」と首を傾げた。

どうやら彼女のタブレット内に私が送った会議資料が見当たらないらしかった。

私から再度送信すると伝えると、「こうしたほうがいいですう」と言いながら私の右隣の席へ移動して距離を詰めてきた。バニラのような甘い香りが私を包んだ気がした。


私は戸惑ったが、正直に言って悪い気はしないどころか、いやその、まあうん。

それから一台のタブレットを二人で覗き込み、十五分ほどかけて、なんとか私の部署の進捗状況説明を行った。

立派な山並みが私の右肘を時折、ぽよんとつつくのに意識を持っていかれながらも、私は頑張った。けれどもう疲労困憊である。ここまでで正直もうヘロヘロだった。

彼女にバトンタッチしようとしたのだが、私の顔を覗き込んで、にまーと笑った彼女は「ちょっと休憩しましょー?」と言って、私の右手指に彼女の左手指を絡めてきた。自分の体温が上がるのを感じた。

「そちらの上司さんが決めた内容で今までべつに問題もないみたいですし、今の業務配分でいーんじゃないでしょうか?」という彼女の声が耳のすぐ傍で聞こえる。

あーいやあけどねえ、となけなしの抵抗をしようとする私の声に被せるように、ふよん、たゆん、と私の胸に重みが掛かった。

「わたしぃ、実は年上の方が好きなんですう。ぎゅってしてくださぁい。」と耳元で囁きつつ私の両腕をハグの形に導いた彼女は、ぷるんとした唇を私の頬にふんわりと押し付けた。

「んふ、可愛い。」続けて耳たぶをはむっとされる感触。うんまあ、今のところ誰も困ってないしちょっとくらい良い思いしてもいいんじゃないかなあ!


その時、打ち合わせ机の上に置いた携帯端末が鳴動した。

背筋が冷えてピンと伸びる。

あの独特な振動パターンはつい最近も聞いた。「代理人」だ。


脳裏に、息子が休日に幼馴染を当家のリビングへ招く際に一瞬見せた、苦い表情を思い出す。

キッチンから覗き見る般若のような妻の顔も。


涙を呑んで、断腸の思いで、しぶしぶながら彼女の体を引き剝がし、会議の仕切り直しを告げて会議室を出た。

出る間際にちらりと見た彼女の顔は、「O」を三つ書いた埴輪のような顔をしていて少し可笑しかった。



会議室を出た私は手洗いへ行って、頬の口紅をぬぐい取った。

そして部署へは戻らずテラスへ出た。業務時間中なので人は少ない。

部署に戻れば前回の後輩と同様、上司に呼び出されると分かっていた。

彼女は自身の評価のために、自分の部署の業務量を減らそうとし、上司は色仕掛けを(恐らく)嬉々として受け入れてうちの部署の不利益を見逃した。

これまで、会議のたびに接待でも受けている気分だったのだろうか?

後輩もあのニヤついた顔を見るに上司と同じ選択をした。

後輩が作った資料に不審点はなかった。上司はともかく後輩に能力があるのは確かだ。方向性はともかく。

今、上司と一対一で話をして、何をどう話す? 私だけが彼女の接待を受けたことにされる可能性は? 社へ訴えたとして証拠は? ミスがあったことだけ認め、その点だけ謝罪されてそのまま? その後の私の部署での立場は?

冷たい外の風がまだ火照っていた頭を冷やし、これからどうするかを考えたが、妙案も浮かばなかった。

上司のほうが当然ながら社内では権力があり、私よりできることが多く、私より守られているのだ。

私は腹を括って「代理人」に相談することにした。

「代理人」は恐ろしいが、背に腹は代えられない。

携帯端末を取り出し、つい先ほどの着信に返信する。

相談したいことがあります、と「代理人」に宛ててメッセージを飛ばすと、「代理人」からはすぐに返信があった。メッセージではなく音声通話で。

私はゆっくりと説明を始める。「代理人」は時折質問を挟む。

携帯端末から聞こえる「代理人」の声は、無機質そのものなのに、何故か少し優しく聞こえた。


その日のうちに上司の異動が「代理人」から通達された。

上司は怒り狂って私の名を呼び散らかしていたらしいが、私は「代理人」の指示で早退させられていた。

後輩の名前も叫びながら「なんでてめーは異動じゃねーんだ!」とか「牌」とか「π」とか、いろいろ叫んでいたらしい。

翌日、出社すると、もう上司の机はきれいに片付けられていて、以後彼と会うことはなかった。

後輩は女性社員から冷たくされているようで小さくなっていた。


会議で私を誘惑しようとした他部署の彼女はどうなったのだろうと思ったが、知るすべはなかった。

だがもう会議に彼女が来ることはないんだろうなと、少しだけ淋しく思った。



◆◆◆


テラスで話しかけてきた他部署の知人には、彼女と後輩のことは一切省いて伝えた。

そうすると驚くほど語ることが少なくて、ただの元上司の愚痴になった。

互いに苦笑して別れ、それぞれの仕事に戻った。


私は昇進した。

居なくなった元上司の後釜に座った形だ。

他部署との業務配分の会議は、私と新しい担当者(42歳男)とでやり直し、慎重に話し合った結果、私の部署の配分が引き下げられた。

あなたの評価に影響しませんか?と恐る恐る尋ねたら、彼は「会社からの評価のために、よそに負荷を回してうちだけ定時あがりしたら『代理人』に叱られますよ。」といって笑った。

この業務のために発生していた残業はなくなり、全員がいつも定時に帰れるようになった。

また、さんざん元上司の連絡不足に苦しめられていたので、報告・連絡・相談を徹底するように皆に伝え、私が率先して実践したら、驚くほど業務が円滑に回るようになった。

情報共有ができてきたおかげで、場合によっては優秀な同僚が先回りして仕事をやってくれるようになり、依頼した時には業務が終わっていることすらあった。

部署の皆から感謝されたが、良いことばかりではない。



後輩は退社した。

ある日、急に社に来なくなり、一か月後に「代理人」から退社する旨を伝えられた。

あれ以来、女性社員からは冷たい目でみられ、男性社員からは元々あまり好かれていなかったため、いづらくなったのだろうと思っていた。

後日聞いたが、気の毒に思ったらしいある女性社員が後輩をメッセージで励ましたところ、粘着されたため通報したそうだ。


元上司のことは分からない。

さらに異動して別の部署へ行ったことは知人から聞いた。

知人の部署でも残念ながら性格は変わらなかったらしく、トラブルを理由に飛ばされたのだそうだ。

同時に元上司から若い女性へのセクハラ報告が徐々に増えていっていたため、男性だけの職場への異動となったらしい。どんな職場なのだろうか。

その先は伝手が無くて辿れなかった。


結果、二人が抜けることになったわが部署には新人が配置された。

「今日からよろしくおねがいしまーす。」

若くて可愛くて品よく香水をつけた立派な山並みの新人は、甘ったるい声であいさつした。

男性社員はスタンディングで超歓迎し、女性社員は舌打ち一歩手前の様子だった。


「はじめまして、せーんぱぁい。」

にまーと笑いながら私に挨拶してきた彼女は、皆が驚くほどに優秀で、なんだかんだありつつも女性社員とも打ち解けてあっという間に部署に溶け込んだ。

化粧品+スイーツ+αの情報提供が秘訣だそうだが真似はできそうにない。

プライベートでは男性社員を軒並み玉砕させているらしいが、愛嬌があり、要領よく仕事をこなし、誰もが認めざるを得ないほど真摯に業務に打ち込んでいた。

女性社員が聞き出したところによると、最近いろいろあって「代理人」をリスペクトしているらしい。

その立派な山並みで、周囲に分からないように私をぽよん、とつついて、にまーとするのを止めてくれたら最高の同僚なのだが。


それもこれも「代理人」からの試練だろうと真摯に受け止め、息子の幼馴染と同じ轍を踏まないよう、妻に洗いざらい打ち明けて最近のぽよんとした悩みや愚痴を聞いてもらった。

この点だけは息子の幼馴染のおかげで対応を間違わずに済んだと思う。反面教師さまさまである。

ちらっと般若が見えた気がしたが、気のせいだったようで、晩酌に付き合ってもらったり休日にデートに行ったりすることが増えた。

そして、息子に妹ができました。



<終>

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